古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上樋遣川御室社

 樋遣川古墳群(ひやりかわこふんぐん)は、埼玉県加須市にある古墳群である。新編武蔵風土記稿の樋遣川村の項に、「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚。以上の塚を樋遣川の七塚という」とある。 河川の氾濫や開墾などで現在、ほとんどの古墳は削平されているが、 諸塚古墳、浅間塚古墳、 稲荷塚古墳の3基の円墳が残っているのみであるが、1956年(昭和31年)416日、諸塚古墳・浅間塚古墳・稲荷塚古墳の3基が市史跡に指定。1976年(昭和51年)101日、県の重要遺跡に指定されている。
 その中で直径約40m、高さ約5mの円墳で、樋遣川古墳群の中で最大規模を誇る諸塚古墳があり、墳頂部には御室別王を祀った御室社が鎮座している。
        
             ・所在地 埼玉県加須市上樋遣川4396
             ・御祭神 三諸別王
             ・社 挌 旧村社
             ・例祭等 春祭 315日 夏越大祓 731日 秋祭 1115
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1599943,139.6316961,16.29z?hl=ja&entry=ttu   
 上樋遣川御室社は埼玉県道46号(加須北川辺線)を北川辺方面に道なりに北上し、樋遣川交差点先の押ボタン式の信号前方にある斜め右側方向に進む道路を右折し、2番目のT字路を左折、そのまま5分程進むと正面左側に上樋遣川御室社の社叢が見えてくる。
 神社に隣接している綺麗に舗装された駐車場に車を停めて参拝を行った。
         
          参道前にある社号標     静かな佇まいのある参道を進む
 上樋遣川御室社のご祭神である御諸別王(みもろわけのおう)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)である。豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で、彦狭島王の子であり毛野氏の祖。『日本書紀』では「御諸別王」、他文献では「大御諸別命」「御諸別命」「弥母里別命」とも表記される。
『日本書紀』景行天皇
568月条によると、任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
『日本書紀』崇神天皇段では上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。
 また
新編武蔵風土記稿や武蔵国郡村誌には、樋遣川の由来について記されている。古くからこの村は穴咋村(あなくい)と称していた。景行天皇(古代の天皇で実在は不明。ヤマトタケルの父)の時代、天皇の命を受けた御室別命(みむろわけのみこと)が東国を治めるさいにこの地の賊徒を退治するために、火やり(ヒヤリ)を放ち、一面が火の海に化したことから、以後、樋遣川と呼ばれるようになったとある。
        
             参道に掲げている「御室塚古墳」の説明板
        
                 「御室社」説明板
       
      比較的長い参道の先に鳥居(写真左・右)があり、その先には神門もある。
        
               古墳上に鎮座する上樋遣川御室社
                 
 系図を調べると、
彦狭島王(ひこさしまおう)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)である。豊城入彦命(崇神天皇皇子)の孫で、御諸別王の父である。『日本書紀』では「彦狭島王」、他文献では「彦狭島命」とも表記される。
『日本書紀』景行天皇552月条によると、彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑(アナクヒノムラ)に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇568月条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている。
 また『日本書紀』等では豊城入彦命の子として八綱田命があり、彦狭島王の父とされるが、御諸別王の活動年代を考えると実際には八綱田命と彦狭島王が同一人物であったとも言われている。八綱田命は『日本書紀』には「上毛野君遠祖」とあるのみで系譜の記載はないが、『新撰姓氏録』によると豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子であるといい、また彦狭島王の父とされる。『日本書紀』垂仁天皇510月条によると、八綱田は狭穂彦王の反乱の際に将軍に任じられ、狭穂彦王の築いた稲城の攻撃を命じられた。八綱田は稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自殺に追い込んだ。この功により「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられたという。
 同時に日本書紀』崇神天皇段には、豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖であり、三輪山に登って東に向かい槍や刀を振り回す夢を見たと記されている。三輪山の位置する大和国城上郡には式内大社として神坐日向神社が記載されていることから、「倭日向建日向」の名はヤマト王権の東国経営に従った上毛野氏の任務を象徴するものと解されている。
        
                      拝  殿
              
                     本  殿
 ところで『日本書紀』景行天皇552月「彦狭島王は東山道十五国都督に任じられた」との記述がある。「東山道」とは古代官道の一つで、
従来説によれば、「五畿七道」の「畿」とは帝都の意味であり、帝都周辺を「畿内」その周辺五ヵ国を「五畿」とし、畿内周辺国を「近畿」とし、「七道」とは、東日本の太平洋側を「東海道」、日本海側を「北陸道」「山陰道」、中央山間部から東北を「東山道」、畿内から南西を「山陽道」、四国を「南海道」、九州を「西海道」としている。東山道は『日本書紀』天武天皇一四年七月辛未条の詔は「東山道は美濃より以東」と記載されている。令制施行と同時期に範囲が確定したとされ、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の8国を東山道としている。(宝亀二年(七七一)までは東山道であった武蔵国を加えると9か国)。
 しかし『日本書紀』での記述でこの「東山道」が「十五國」だといっている。それ故か「東方諸国を示す語として用いられたもので、古道そのものを意味してはいない」との苦し紛れな解釈を持ち出す学者の方までいるとの事だ。

 更に
『日本書紀』景行天皇552月条の文面には、記述自体に(?)と思われる部分もあり、原文と現代語訳に分けて記載する。
【原文】
十二月、從東国還之、居伊勢也、是謂綺宮。五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五国都督、是豊城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東国百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野国。
【現代語訳】
(即位53年)12月に東国(アズマ)より帰ってきて伊勢にいました。これを綺宮(カニハタノミヤ)といいます。即位54年の秋919日。伊勢から倭(ヤマト)に帰って纒向宮(マキムクノミヤ)にいました。
即位55年の春25日。彦狹嶋王(ヒサシマノミコ)に東山道(ヤマノミチ)の十五国の都督が参拝しました。(彦狹嶋王は)豊城命(トヨキノミコト=崇神天皇の子で垂仁天皇の兄)の孫ですが、春日の穴咋村(アナクイノムラ=奈良市古市)に到着して、病に伏し亡くなってしまいました。この時、東国の百姓はその王が到着しないことを悲しんで、密かに王の尸(カバネ=遺体)を盗んで上野国に葬りました。

 豊城命の孫にあたる彦狹嶋王が東国の15国を統治することになったが、その道程で病死した。その病死した肢体を(百姓が)盗んで上野国へと持って行って葬った・・・・
 ありうることであろうか。第一に東國の百姓が、会ったこともない未知の人物である彦狹嶋王の遺体を盗み上野國に葬ったというのは実に奇妙な話である。
 第二に百歩譲って盗まれた側の対応がお粗末である。彦狹嶋王が率いていた軍兵のすべてが盗まれた側も全く気付かず、そのまま放置するであろうか。大和王権に繋がる貴種であることは間違いない。ところが気づいたとしても、取り戻したことや、その後の顛末等も含め、国史である「日本書紀」の文面からは何も対応した形跡が見られない。日本書紀は天武天皇の命により、30年余の年月を経て編纂された国史であり、その文章自体、一文・一字にも何度も編集され完成された書物である。それ故にこの文面には疑問が残る。
       
         神門脇に佇む八幡・雷社        拝殿脇には祠あり
              
                参道を進む途中にある八坂神社
 羽生市下村君地区には「おかえり」といわれる里帰りの神事が古くから伝えられている。羽生の鷲宮神社で明治40年頃まで行われていたという。その神事において誰が里帰りをしていたかというと、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で、彦狭島王の子であり毛野氏の祖である「御諸別王」(みもろわけのおう)の娘と言い伝えられている。どこへ帰っていたかというと、加須の樋遣川(ひやりかわ)にある「御室社」だった。先頭に神主、姫の代わりの神輿をかつぎ、御鏡と赤飯を乗せた馬を引き、鷲宮神社から御室神社へ里帰りをしたという。
「御室社」が鎮座する墳丘は諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明されたようなものだと思われる。
 陵墓候補地として、年代的には一致しないとの見解もあるようで、群馬県内にも御諸別王の墳墓と伝承される古墳は複数存在し、現在では、御諸別王の陵墓ではなく、この地の有力者の墳墓と考えられているようだ。だが少なくともこの樋遣川から下村君一帯のどかな田園風景の中に佇む古墳群には、そんな古代ロマンがあふれているということだ。
            
        庚申塚の隣には男根の形をした石棒もあり。安産の神様として、
             近郷近在の人々から信仰されているという。
        
           静寂の中にも厳かに鎮座するイメージが似合う社
 利根川の堤防を除いては、平坦地の多い当地だが、この神社は、小高い塚の上に鎮座している。伝承・伝説の真偽はさておき、風格のある社である事は確かである。


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