青山愛宕太神社
なお、仙元山の中腹には周囲の自然を活かした「仙元山見晴らし公園」が整備されていて、この公園の目玉でもある、町に向かって滑り降りていくすばらしい眺望とスリルを誇る全長203mの「ローラーすべり台」は、有料ながら子どもから大人までみんなで楽しめるすべり台で、更に展望台からは小川町の全景が見晴らしの丘公園から一望できる。
・所在地 埼玉県比企郡小川町大字青山2134
・ご祭神 火之炫毘古命
・社 格 不明
・例祭等 例大祭 10月15日前後の日曜日
国道254号線を小川町市街地方向に進み、「道の駅おがわまち」を越え、「本町二丁目」交差点を左折する。その後、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、槻川を越え更に南下すること1㎞程先の「アドニス小川カントリー倶楽部」の看板がある細い路地を右斜め方向に進むのだが、車両はその周辺の路上にて駐車している。その後、右手には庚申塔や馬頭観音・地蔵尊が整然と並ぶ石碑群を見ながら上り斜面を徒歩にて進むと、右手に青山愛宕太神社の鳥居が見えてくる。
北側参道に並ぶ庚申塔や馬頭観音・地蔵尊等 北側の参道から徒歩にて参拝
の石碑 緩やかな上り斜面の先に社は見えてくる。
本来、社殿に対して正面方向に参道(石段)があり、急坂を下ると県道30号線に直接ぶつかるような配置となっていて、しかもその正面入り口は狭く、しかも鳥居や社号標柱等もなく、当然のことながら専用駐車スペースもない。当初は正面からの撮影を試みたのだが、県道の車両が意外と多く、残念ながら断念。そこで、北側から社に通じる舗装された道からのアプローチとなった。
県道30号線から急斜面の立ちあがった小高い山頂に鎮座する社
青山愛宕太神社の創建年代等は不詳であるが、当社地の裏山は「鉄穴」を意味する「神名」と呼ばれていることから、鉱山採掘に関わる火の神として祀られたのではないかといわれている。
拝 殿
氷川神社 小川町青山一三一二(青山字根木)
地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
各地域の鎮守に対する信仰も厚く、沼ノ入の愛宕神社は、火の神・火防の神として崇敬されている。現在はほかに家内安全・商売繁昌や合格祈願等も行う。大祭は十月十五日の前後の日曜日で、福引やカラオケ大会を催してにぎやかな祭りである。
「埼玉の神社」・青山氷川神社の項より引用
社殿の向かって左側にある神興庫
神輿のようなものが安置されている。当地の祭りに使用されたものであろうか。
境内西側にある「愛宕太神社記念碑」とその右側にある「青山城の井戸石」
青山城の井戸の石をこの神社に移動したのであろうか。
愛宕太神社記念碑
参議院議員 上原正吉書
愛宕太神は火之炫毘古命にして出雲
の国より青山村に御来神と伝えられ
万民安堵火伏の神として二百三十年
前より広く崇敬されしも明治末期神
社統制により氷川神社に移管され尓
来五十三星霜を経て今日に至る
昭和三十八年八月地区民挙って再鎮
座を発起し奉賛会を組織して新築完
成をみたので之を永く後世に伝える
と共に地区民の幸福と繁栄を記念し
茲に記念碑を建設するものなり
昭和三十八年十一月吉日
北側参道入口を参道側から撮影
青山愛宕太神社から直線距離にて南東方向750m程の山頂部には町指定史跡である「青山城跡」がある。青山城は仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部に築かれていて、北端最高所に主郭を置き、南尾根に二郭、南東尾根に三郭を配している。少し離れているが小倉城とは尾根続きであり、戦国時代には松山城を守る支城としての役割があったようだ。
町指定史跡 青山(割谷)城跡
小川町大字青山字立厳二二九二-二ほか
平成四年三月二十五日 町指定
青山(割谷)城跡は、青山と下里の大字境に位置し、青山側では青山城、下里側では割谷城と呼ばれています。
城跡は尾根を巧みに利用し、標高二六五メートルの山頂部に築かれた本郭を中心に、南西に二の郭、南東に三の郭をコの字状に配し、それぞれの郭は深い堀切で画されています。本郭の南東側および二の郭の東側には通路状の帯郭が残されています。一方、北側は小規模な郭と堀を配するのみとなっています。
板碑の石材である緑泥石片岩の分布域にあり、堀切はこの岩盤を掘り抜いて造られ本郭周囲の一部には石積みが残っています。城跡の下里側の麓近くには、板碑石材の採堀と加工を行っていた割谷採掘遺跡があります。
江戸時代に書かれた『関八州古戦録』には永禄六年(一五六三)に「松山城へは上田安楽斎、同上野介朝広を環住なさしめ青山・腰越の両砦と共に堅固に相守らせ」とあり、松山城の支城であったと伝えられています。
東二・六キロメートルには小倉城跡があり、北に四ツ山(高見)城跡、北西に中城跡、西に腰越城跡を臨むことができます。また麓を流れる槻川に沿った道や現在の八高線に沿った道を見下ろす地理的な要所に位置した城跡です。
「青山(割谷)城跡」案内板より引用
参考資料「埼玉の神社」「境内石碑文」「青山(割谷)城跡掲示板」「仙元山見晴らし公園HP」等