古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中ノ目八幡神社

 当社の創建年代は不明ながら、社伝によると、旗本藤堂家の家臣の岡田氏が創建したと伝わっており、藤堂家の所領になったのが元禄年間(16881704)で、境内にある石灯籠に「享保十三戊申(1728年)」と刻まれていることから、1688年から1728年までの間に創建されたものと推測される。近くの天正寺が別当寺であった。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1909年(明治42年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。
        
            
・所在地 埼玉県加須市中ノ目4431
            ・
ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧中ノ目村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 224日 春祭り 414日 天王様 778
                 
例大祭 914日 秋祭り 1124
 中種足雷神社から一旦埼玉県道313号北根菖蒲線を西行し、「榎戸」交差点を右折、同県道38号加須鴻巣線を北上する。見沼代用水に架かる「榎戸橋」を越えた最初の信号のある十字路を左折、その後、550m程進んだ十字路を右折し、暫く進むと中ノ目八幡神社が左手に見えてくる。
        
                 中ノ目八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「中ノ目村」の解説
 見沼代用水左岸の自然堤防上に立地し、東は戸室(とむろ)村、西は上会下村(現川里村)。中ノ目は低湿地にある小島状の畑あるいは集落をさすという。検地は正保四年(一六四七)実施。検地帳(松永家文書)は九冊で次の耕地名が記載されている。川たな・上川たな・前川棚・下川棚・おし出・下押出・橋下・池ノ上・西うら・八まんうら・高根うら・砂原・三反地・五反地・六反地・竹のはな・堤下・みろく・神明脇・こしまき・藤ノ木・野中・雁ふち・戸室境・屋敷添。検地役人は国荷四郎右衛門などで、反別は上田一一町三反余・中田七町八反余・下田七町六反余、上畑九町二反余・中畑一〇町四反余・下畑一〇町六反余。
        
         鳥居のすぐ先で、写真一番左側に建つ享保十三年銘の石灯籠
        「享保十三年戌申霜月 武州騎西中之目村」と刻まれている。 
          まさにこの地域の歴史を証明する生き証人でもある。
       
                                       拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿 中ノ目村』
 八幡社 村の鎭守、天正寺持、
 天正寺 禪宗曹洞派、上会下村雲寺末、八幡山と號す、開山繁林長茂、元和七年三月朔日示寂、本尊藥師を安ず、もとは雲寺の隠居所なりしを、後一寺となりと、その年代は傳へず、

 八幡神社  騎西町中ノ目四三三(中ノ目字弥勒)
 当地は見沼代用水沿いに位置する。中ノ目は低湿地中の小島状の畑、あるいは集落を指すという。
 当社の創建は社記に「旗本藤堂肥後守の家臣であった岡田家が、故あってこの地に来り八幡様を祀り神社を建てたのが始まりである」と載せる。当地は元禄七年に藤堂肥後守の知行となっており、神社境内には「享保十三年戌申霜月」と刻む石灯籠が建っていることから、元禄から享保年間にかけての創建と思われる。
 別当は曹洞宗八幡山天正寺が務めた。天正寺は川里村大字上会下の雲祥寺の末寺で、もと雲祥寺の隠居所であった。
 神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年に村社になり、同四二年には押出の神明社・厳島社を合祀した。
 祭神は誉田別命である。一間社流造りの本殿内には二五.
五センチメートル八幡神座像を安置する。境内社は、当社で手習いをした子供による勧請の天神社、村内一同で火防盗賊除けのために勧請の三峰社、同じく村内一同で火防のために明治一〇年に創立した三宝荒神社と合祀社の神明社・厳島社の五柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               境内に設置されている案内板
 案内版にも記述されているのだが、八幡様は古くから「花火が嫌いな神様」といわれ、他の所で打ち上げても当社では決して行ってはならないとの禁忌がある。伊勢参りの下山祝いには、その都度花火が打ち上げられたが、この時も神社から離れた田を使っている。この禁忌は、八幡様の神使である鳩を花火の音で驚かせてはならないとすることから起こったという。
        
             境内に祀られている合祀社、詳細は不明



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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