上新田日枝神社
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市上新田104
・ご祭神 大山咋命
・社 格 旧上新田村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
高倉日枝神社から一旦埼玉県道114号川越越生線に戻り、同県道との交点である「高倉派出所」交差点を左折し、800m程進んだ変則的な十字路を左折する。通称「鉄砲道」と呼ばれる道路を南西方向に1.7㎞細進むと、進行方向右手に上新田日枝神社は鎮座している。
実のところ、上新田地域は鶴ヶ島市南西部に位置し、北は東武越生線北側に沿って坂戸市森戸地域と接している。西大家駅北側に鎮座している森戸国渭地祇神社と直線距離にしても600m程しか離れていない。
上新田日枝神社正面
鳥居の先にある一対のイチョウの大木は、大正御大典記念植樹であるという。
『日本歴史地名大系』 「上新田村」の解説
[現在地名]鶴ヶ島市上新田・高倉
町屋村の北東にあり、北は入間郡森戸村(現坂戸市)。高麗郡松山領に属した(風土記稿)。慶安二年(一六四九)の川越領高倉之内上新田村検地帳(高篠家文書)があり、中新田村・下新田村と同様に高倉村内の地を開墾して成立した新田とみられる。高倉上新田ともよばれた(元禄七年柳沢保明領知目録)。慶安二年の検地帳によれば畑二八町六反余・屋敷地四町七反余。名請人二四名、うち村内居住者二二名で全部が屋敷持だが、これらの百姓たちは村外の名請人二名の分付百姓となっている。検地当時は川越藩領。元禄二年(一六八九)から四年の年貢割付状(高篠家文書)では高一四九石余。
境内の様子
まさに「村の鎮守様」というイメージピッタリなお社
ところで「鉄砲道」とは不思議な名称である。調べてみると、埼玉県道114号川越越生線から西に向かう一直線の道路は、古来「中新田鉄砲道」の名で呼ばれていて、江戸時代に、夜間竹槍の先に提灯を付けて立て見通し、測量をして作った道と語り継がれる道である。この道は下新田・中新田・上新田各地域を一直線に貫いているという。
道路沿いの民家にも、所々に一時代前の臭いと懐かしさが残っている道である。
拝 殿
日枝神社 鶴ケ島町上新田一〇四(上新田字会立東)
当地は初め高倉村に属していたが、明暦二年の検地水帳に「武州高麗郡高倉内上新田開検地水帳」とあることから、このころ開発された村であることがわかる。また、当地は水田に適さず畑作地として耕作され、時折襲う日照りに村人の苦労は多かった。
当社の創立も村の開発とほぼ同じころと思われ、近江一の宮の日吉大社より勧請したものである。日吉大社は、古事記の大年神の系譜に「次に大山咋神、亦名は山末之大主神、此神は近淡海国の日枝山に坐す。」とあるように、古くは日枝山に鎮まる山神であった。山神は生活を支配する神で、水ともかかわりを持ち雷神としての性格もあったと考えられ、当地において、このような神威を持つ神を勧請したことは、干損地で生活する村人の切実な祈りがあったことがうかがえる。
鎮座地は初め村の西に当たる字山王前で、村鎮守として古くは例祭を九月二九日と定めていた。また、境内には槻が数株あり、大きなものは周囲一丈九尺もあったと伝える。
明治四年九月、当社は山王前から現在地に遷座し、同五年に村社となった。移転理由は、鎮座地が氏子居住地からやや離れているため祭祀に不便を感じたからと伝えている。なお、遷座に際しては、本殿に担ぎ棒を付けて氏子が力を合わせ神輿のように運んだという。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
『新編武蔵風土記』には上新田村(現大字上新田)山王社について「村の鎮守にて例祭は九月二十九日、村持なり、社地に槻数株あり、其の大なるもの囲一丈九尺許り」と記されている。また『入間神社誌』には「字山王前、林地八畝二十四歩、一村共有地鎮座」と記されている。現在の上新田字会立東104番地鎮座の日枝神社は、元は上新田村の西方山王前に祀られてあった。
嘗て、この社で不吉な人身事故があったと言う。事の真偽は遠い時代のことで定かでないが、場所替の理由としてこのことが人々に語り継がれている。明治4年(1871)9月字山王前から字会立東の現在地に遷し祀られたとの事だ。
拝殿の左側に祀られている境内社・三峰社 拝殿右側には境内社・稲荷社を祀っている。
「鉄砲道」沿いに立っている庚申塔
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「鶴ヶ島デジタル郷土資料HP」等