前河内日吉神社
・所在地 埼玉県比企郡吉見町前河内1
・ご祭神 日吉大神 大山咋命
・社 格 旧村社
・例 祭 例祭 4月15日 秋祭 12月14日
江網元巣神社から埼玉県道33号東松山桶川線を東方向に進み、「大串」交差点手前左側で県道沿いに前河内日吉神社は鎮座している。社の右隣には前河内集会所があり、集会所と社の間に駐車スペースがあるので、そこの一角に車を停めたから参拝を行った。
因みに「前河内」と書いて「まえごうち」と読む。
境内西脇に設置されている社号標柱
前河内日吉神社正面
境内は規模は小さいながらも手入れが行き届いている。
拝 殿
拝殿の前にある一対の天水桶。この天水桶は古くからある雨水を貯めておくタンクで、寺社に於いては主に防火用水として用いられてきたものだ。
日吉神社 吉見町前河内一
社伝によると、当社は文亀二年(一五〇二)に近江国の日吉神社から勧請したという。
社蔵資料として宝暦六年(一七五六)の社殿棟札がある。これには「祭主高橋内記源照朝」「願主江戸下谷各■籐八郎」「世話人筑井平四郎・恩田伴七・福田杢右衛門・高橋武兵衛」らの名が見える。また、元文四年(一七三九)から宝暦五年(一七五五)までの十七年間をかけて、神官が氏子から毎年二季の初穂を取り集めて金二〇両を調え、社殿の造営費に充てた旨が記されている。
『風土記稿』には「山王社 村の鎮守なり、最勝寺持」とある。これに見える最勝寺は真言宗の寺院で、江戸初期の草創と伝えられる。
恐らくは、別当の最勝寺とは別に、先の棟札に「祭主」としてその名が見える高橋家が社人として日常の祭祀を司っていたものであろう。内陣に奉安されている金幣の墨書には「大正拾年奉納当社社掌高橋泰全」と記されている。
現本殿は宝暦六年造営当時のものと思われ、重量感のある堂々とした三間社流造りである。その形式から三柱を祀ったものと考えられるが、棟札には「日吉大神・大山咋命」の二柱を伝えるのみである。なお昔この地は下総国佐倉藩の所領であった時代があり、藩主により惣五様(佐倉惣五郎の霊)が当社に祀られたという伝承がある。
「埼玉の神社」より引用
本殿。本殿左側には御札所がある。 本殿右側に鎮座する合祀社等。
若宮大神・火(大)穴大神・八幡大神、天神社
参拝を終えて何気に振り返ったところ、瓦に不思議な紋があった。「菊水紋」である。
「菊水紋」の始まりは鎌倉時代、後鳥羽上皇にある。徳に菊を好んでいた上皇は、持ち物に文様として取り入れており、これが代々使われていくうちに皇室の紋章となったという。その後、後醍醐天皇より恩賞として菊紋を下賜された楠木正成が、そのまま用いるのは恐れ多いと、信奉する水分神社の流水紋と合わせた『菊水紋』を創ったとされ、その後楠木氏・和田氏の代表家紋として定着したという。
楠木氏は通説によれば橘氏の後裔といい、本姓橘氏としているが、正成以前のことは詳らかではなく、鎌倉時代には河内金剛山観心寺領の土豪であったともいわれている。商業活動に従事した隊商集団の頭目であったという説もある。
一方、楠木という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから土着の勢力という従来の説にも疑問が出始めている。
元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に「 くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」 という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意味とされ、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったと推定している意見もある。
『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井・忍・岡部・滝瀬ら武蔵猪股党の武士団と並んで将軍随兵とあり、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士のひとつだった可能性も否定できない。武蔵国内の在地勢力は北条氏が冷遇したためか、党的武士は、早くから北条得宗家の被官となって、播磨や摂津・河内・和泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の観心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領であり、正成の家は得宗被官として河内に移住したものでないかという説もなかなか説得力はある。
案内板等にも詳しい由来がない。何か社と紋が関連する説話等知っている方がいたら、その点に関してご教授の程宜しくお願いしたいと切に思う。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等