古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上清久白幡雷電神社

 かつて葛飾郡大川戸村(松伏町)は大河戸御厨(伊勢神宮領)の地であった。吾妻鑑卷三に「寿永三年正月三日、武蔵国崎西・足立両郡の内にある大河土の御厨あり、外宮に寄進す」とあり、建久三年伊勢大神宮神領注文写に大河土御厨給主外宮権神主光親と載せている。
その後、平安時代末期に藤原秀郷流である下野国都賀郡三毳崎太田村(藤岡町)出身の大田行広がこの地を本拠地としたため大河戸氏と称したという。
『尊卑分脈』
「大田大夫行尊―大田大夫行政(改宗行)、弟大田四郎行光(或行政子)―行方(号大河戸、下総権守、母秩父太郎重綱女)―太郎広行、弟清久二郎秀行、弟高柳三郎行基、弟大川戸四郎行平(神人の頸を切るにより大田庄を召放たる)、行方の弟大河戸次郎行広―小次郎行朝―四郎行茂―兵部光基」
 大河戸行方(重行)には4人の子供がいて、長子広行が大河戸氏を継ぎ、その三人の弟はそれぞれ本貫とした地の名をとり、おのおの清久氏(次郎秀行)、高柳氏(三郎行基)、葛浜氏(四郎行平)を名乗った。
 清久郷を領して清久氏の祖となった二男次郎秀行は、頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(京都府福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができ、幕府の御家人として活躍したことが記録されている。また清久氏の館は、現在の常徳院と上清久白幡雷電神社がある楕円形の台地付近に構えられていたと伝えられている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久668
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 雷除祈願 41日 初山 71日 例祭 1125日 他
 上早見千勝神社から埼玉県道146号六万部久喜停車場線を西行し、「六万部橋(東)」交差点を右折する。その後、進行方向右手奥に埼玉県立久喜特別支援学校が見えてくる先の路地を左折したそのすぐ東側に上清久白幡雷電神社は鎮座している。
        
               
上清久白幡雷電神社正面附近
     社号標柱があるその北側にある白壁は、
常德院持ちの白幡山墓地である。
        
               
上清久白幡雷電神社正面鳥居
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。

         静まり返った境内          参道左手に設置されている案内板

 常徳院は「曹洞宗 白幡山権現寺」と号し、当院から雷電神社にかけての境内は楕円形の小高い台地の上にある。周囲は構え堀のごとく水路がめぐり、戦前までは白幡沼と呼ばれる広大な湿地帯が南東方向に広がっていた。
 中世には奥州へと伸びる鎌倉街道(奥大道)が南北につらぬき、また武蔵国と下総国の国境であった川口の渡し(旧利根川)を北方4kmに臨んでいた。天然の要害・交通の要衝を兼ねたこの地に、平安時代末期から南北朝時代までの約170年間、在地領主であった清久氏が館を構えていたとされている。
 清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野国の小山氏・下総国の下河辺氏とは同族にあたる。大河戸御厨(松伏・吉川・三郷・八潮)を治めた大河戸行方(重行)の子息で太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏を〈加須〉、四郎行平は葛浜氏〈羽生〉をそれぞれの領地名から名乗った。治承五年(1181)大河戸四兄弟は三浦介義澄に伴われて源頼朝に拝謁、「皆勇士の相を備えている」と頼朝に気に入られたと『吾妻鏡』に記されている。清久次郎秀行は頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘京都府福知山市を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができる。
 また『太平記』には中先代の乱(1335)で北条氏に従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
 その後は阿波国(徳島県)に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582)中富川の戦いで十河存保に従って長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子で知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。
 常徳院に残る永仁六年(1298)銘の板石塔婆や応安元年(1368)銘の宝篋印塔の残欠などは清久氏一族の供養塔とされ、旧本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代末期から南北朝時代の造像で清久氏の守本尊と伝わっている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
 白幡權現社 白幡光明雷王大權現と號す、古へ足利高興白幡を納めしより、かく號せし由をいへど、高興の名聞くことなし、傳への訛りしならん、祭神は雷電神本地十一面觀音、立像にて丈七寸餘、行基の作、常德院の持、
什物 雷槌一本 龍ノ牙一 石一 弘法大師、雨乞の石と云、
 常德院 禪宗曹洞派鷲宮村靈樹寺の末、白幡山權現寺と號す、開山起屋庭宗天正十五年四月七日示寂、本尊彌陀は慈覺大師の作にて、立像一尺餘、此外聖德太子自作の壽像及虛空藏、且運慶の作、毘沙門天春日の作、千壽觀音を安ず、當寺境より白幡權現社地の邊、淸久次郞城蹟なりし由、今もこの邊を掘れば、矢の根など出ることありと云、

 雷電神社
 祭神 別雷命―気象と五穀を護る神
 神社起源、由来
 言い伝えによればその昔、行基菩薩が、この地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社といわれる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奧州を平定した義家は、戦のお礼に源氏の白幡を奉納したという。
 雨乞、雷除、虫封じ、子孫繁栄の祈祷神社と知られ「光明電王宮・白幡権現社」と称し、地元近隣はもとより、遠方の人々からも大いに信仰された。明治初年の神仏分離令により、雷電神社と隣の常德院に分離された。 義家白幡奉納伝や地名が白幡であることから、地元や近隣の人々から白幡さま白幡神社と呼ばれた。(十一面観音像は常德院に祀られている)
昭和二十年代頃までは、社寺の三方は田んぼと沼(白幡沼)
に囲まれ、神社は小高い台地の杜のなかに鎮座していた。周囲は開発され今は昔日の面影はない。
 最後の雨乞
 大正十三年夏、日本全国は大干ばつにみまわれ、この地方も深刻な被害があり七月十九日から一週間の雨乞が行われ、満願の二十五日雷鳴とともに恵みの雨が降り農作物は甦り豊作となったと云われている。 (徳富蘇峰揮毫記念碑あり)
 白幡城と赤幡城
 むかし、沼に囲まれた白幡城の対岸に赤幡城があり、ある時戦いがおこり白幡側が不利になった時、突然大蛇が現われ、赤幡側の舟と兵を攻撃し白幡側が勝利したと言う。(旧久喜市の唯一の民話)
 境地末社  浅間神社、厳島神社、弁財天社(以下略)            境内案内板より引用
        
                    本 殿
 
   社殿左手奥に祀られている弁財天社      社の手前に設置されている弁財天碑

 かつて、氏子・崇敬者の間で「雨乞い組合」が結成される程、当社への信仰は厚いもので、旱魃が続くとしばしば雨乞いが行われたようだ。中でも大正13年7月の雨乞いは、6月初旬から降雨がなく、深刻な状況の中で行われた。7月25日を満願の日と定め、19日から一週間にわたり祈願を続けた。この時の祈願は、当社で神職が降雨を祈ると同時に常德院でも住職が本堂で読経をし、若い者たちは褌(ふんどし)一つで当社の裏手にある弁天様の池に入り、バケツでその水をくみ出して本社めがけて浴びせかけるというものであったという。
        
               弁財天社の隣に祀られている厳島神社 
       
               本殿奥に祀られている浅間神社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等 
        

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