三品白髭神社
この「磐座」の語源は、「神々が占める座」という意味から起こったものと考えられ、神を「依代」とした磐座に降臨させ、その神威を持って祭祀を行っていた。
時代とともに、常に神がいるとされる神殿の建設が進むにつれ、祭祀自体は神社で行うようになっていたが、この磐座を元に建設された神社も多く存在し、境内に注連縄が飾られた霊石として残っている場合もある。
現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。
・所在地 埼玉県大里郡寄居町三品219
・ご祭神 清寧天皇 猿田彦命 天児屋根命 保食神 大山祇命
大日孁貴命
・社 格 旧三品村鎮守 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月20日 例祭 10月20日 新嘗祭 11月27日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0981573,139.1741538,16z?hl=ja&entry=ttu
寄居町三品地域は秋山地域の西側にあり、地域の西側には南北に秩父往還道が通り、南側に東秩父村大内地域と接している山に囲まれた山間地域である。
途中までの経路は秋山羽黒神社と同じく、鉢形城公園から埼玉県道294号坂本寄居線を東秩父村方向に2㎞程西行し、「釜伏山参道」の標柱付近のY字路を右折すると秋山羽黒神社方向に行くが、そのまま県道沿いに進む。その後350m程進んだ先のT字路を左折し道幅の狭い長閑な農道を進んでいくと、「三品公会堂」の看板が見えるのでそこを右折すると三品白髭神社への参道が右手に見えてくる。
三品白髭神社鳥居
三品白髭神社及び三品公会堂は鳥居左側に通る道路を右側に回り込む先にある。
三品白髭神社正面
『大里郡神社誌』によれば、「古は森山と称し、境内は松檜等の森林なりしと云ふ、今尚大森山と唱へり、現境内千三百十七坪」「白髭大明神と称せしが、明治十年より白髭神社と改称す」と記されている。
石段を登ると拝殿が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 男衾郡三品村条』
「白髭社 村の鎮守なり、本地十一面観音を安ず、村内修験常徳院持、」
拝 殿
白髭神社(もりやま) 寄居町三品二一九(三品字高柳)
三品は、外秩父山地の北麓に開かれた山村である。当社は、この三品の集落に挟まれるような形で横たわる丘陵の中腹に祀られている。老樹の生い茂るこんもりとした森であるこの丘陵は、遠方からでも望むことができ、人々から「森山」と呼ばれている。
社の傍らには、周囲一五メートル・高さ五メートルほどの巨大な岩石がそびえ立っている。「畠山重忠乗り上げの岩」として今に伝わるこの岩石は、神が社殿に祀られる以前の斎場を示すものと考えられ、この磐座を懐に抱いた「森山」全体が里人から信仰の対象として崇められたのであろう。
一般に渡来系氏族にかかわる社といわれる白髭神社が、なぜこの地に祀られたのであろうか。これについては、渡来系氏族の大山忌(おおやまいみ)寸の居住地であった男衾郡大山郷が、一説に当地北方に位置する寄居町折原の地に比定されており、その鎮守に白髭神社が祀られていることから、この社とのかからりが考えられるが、その史料を欠き、明らかにできない。
『風土記稿』は、当社を「白髭社 村の鎮守なり、本地十一面観音を安ず、村内修験常徳院持」と載せている。これに見える別当常徳院は、当社北西に居を構える三志奈家で、神仏分離に際し、復職して神職となり、明治四十一年まで当社の祭祀を司っていた。
「埼玉の神社」より引用
社殿正面には「正一位白鬚大明神」の扁額 本 殿
「埼玉の神社」による当社の信仰は、「森山」に対して古くからあった山岳信仰が基となり、近年、修験常徳院の活動により高められていったものであるという。
雨乞い信仰は、その代表的なもので、当社境内にある「奉雨請祈念村中安全 文政四巳年(1821)六月吉日」と刻む地蔵尊はそれを象徴している。日照りが続くと、まずこの地蔵尊を担ぎ出して里に下ろし、三品川の中に網を入れて浸す。しばらくそのままにしておいた後、川から引き上げ、再び当社まで担ぎあげた。その地蔵尊の乾き具合によって、天候を占う。すなわち、早く乾くと雨の望みはないが、遅いと近いうちに雨の恵みがあるというものであった。この行事も、明治二十九年に熊谷に測候所が設置されて天気予報が普及するにつれ、次第に行われなくなったという。
また、氏子の家々では屋根に瓦を用いることを忌んだ。これについて『大里郡神社誌 神異神話神助』は「往古神體木造の衣冠の彩色に井桁及び瓦の紋形ありしと云う、爾来氏子は居宅の屋根に瓦を用いず、又井戸等を設くることを厭ふ、神禁を犯すときは神罰ありとなし、今尚懼れ慎みつゝあり、又氏子村落には三本足の雉子、巴形の芝草、三本葉の松等を生ずと云う」と述べている。但し、昭和27年の社殿再建の時に草ぶきから瓦葺きにしたことを機に、氏子の家々でも瓦を用いるようになったという。
三品白髭神社の傍らには畠山重忠にまつわる、周囲15m、高さ5m程の巨大な岩石があり、「畠山重忠乗り上げの岩」と伝わる。
左側が白髭神社の社殿、右側に見える大岩上に鎮座する社は高山石尊神社
巨石群の基壇上に鎮座する境内社・高山石尊神社
『大里郡神社誌』には「高山神社は日本武尊を祀り、明治四十五年二月二十四日同所字高山より移転す」と記載がある。
今回事前の予備知識もなしに秋山羽黒神社近隣の社という事で、住所を登録して訪問したことも悪かったが、予想していた以上の巨石と巨木に圧倒された。紙垂等はなかったが、近郊にある磐座(いわくら)と比べても遜色ないか、それ以上の迫力がそこには存在していて、思わず手を合わせてしまう位の、所謂「神聖さ」というべき何かが周辺一帯に漂っていた。
勿論「石」は所詮「石」でしかない。無機質な物体である事には違いないが、昔の人だけでなく、今現在生を受けている我々日本人ならば、こういう巨大な自然物に神聖なものを感じて、崇めたくなるのではなかろうか。実際そういうものを目の当たりにすると何となく理解できてしまう。
寄居町にこんな立派な磐座があるとは、筆者にとって、予想外の驚きであり、これだからこそ神社を通じての歴史散策はやめられないのであろう。
巨石の間から聳えたつ大杉のご神木(写真左・右)。こちらには紙垂がしっかりと巻かれている。
よく見ると巨石の重さに負けない位の根の力で、石を払いのけようととしている。
何というパワー、何という生命力であろうか。
境内巨石群の右側手前には折原郷土カルタに表記されている「し 重忠が 残す三品の ひずめ石」の立看板があり(写真左)、その蹄跡を探したのだが、一向に分からず、高山石尊神社の後ろ側にある巨石のなだらかな面にそれらしき跡があった(同右)。但し筆者の勝手な解釈であることはお断りしておく。
大体馬上でこのような高い場所に登ることすら難しいのに、そこで練習すること自体おかしなことである。この逸話自体がどの程度信憑性があるかも謎であり、「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」にも畠山重忠関連の記載がないのも事実である。
因みに「新編武蔵風土記稿」にはこの巨石は一切記載がされていない。これほどの規模で目立つ存在でありながら一言も記載されていないのは不思議である。
拝殿右側で石に挟まれた空間に鎮座する境内社 社殿の左側近隣に祀られている石祠
岩下稲荷神社 天神社
当地は、かつて米麦のほかに養蚕が盛んな地であった。当時養蚕守護の神として、当社の境内に祀られている岩下稲荷神社は、信仰を集めていたという。
境内に設置された「折原郷土カルタ」の立看板(写真左・右)
立看板に書かれている「太鼓が祓う」とは、この地区で古くから伝承されている「三品石尊太鼓」である。「三品石尊太鼓」は、 三品地区にある「高山石尊神社」のお祭りの.呼び太鼓として昔から伝承されてきたものであり、 早いテンポで力強く. 太鼓を打ち込むのが特徴であるという。現在鉢形城公園で開催されている「寄居北條まつり」の際も市街地で太鼓の演奏を行っている。同時に獅子舞も伝承されているようである.
三品公会堂付近から見る社の風景
社の東側を右回りに降りて路地で一般道と合流したところには、八坂神社と馬頭尊等の石仏群が並んで祀られている。
道路の脇に並んで祀られている八坂神社と馬頭尊等の石仏群
この八坂神社と馬頭尊等の石仏群がある場所は、位置的には社に対して南東方向にあるのだが、そこから直接石段等を設置して一本の参道を造らず、わざわざ回り込むように参道を造ったのには何か意図とすることがあったのであろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「寄居町HP」「埼玉の神社」「現地立看板」等
