古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小園壱岐天手長男神社

天手長男神社(あめのたながおじんじゃ、あまのたながおじんじゃ)は、長崎県壱岐市にある神社で、式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社でもあり旧社格は村社とされている。主祭神は天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命の3柱で、天忍穂耳尊には「尊」がついている為、他の2柱より位は高いようだ。
 福岡県宗像市に鎮座する宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」として創建、後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとあり、『一宮記』では天思兼神を祭神としている。なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている。
 宮司の先祖が壱岐国石田郡(長崎県壱岐郡郷ノ浦町)よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社より勧請したものと伝えられるが、同町宗像神社同様に地形的にも遥かに遠い壱岐島と埼玉県寄居町が、神社で結びついている。 
        
             ・所在地 埼玉県大里郡寄居町小園132
             ・ご祭神 天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命
             ・社 格 旧上・下小園村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 419日、津島祭 720日前後の日曜日
                  秋祭り 1019
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1150661,139.2211803,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町小園地区に鎮座する壱岐天手長男神社は、国道140号バイパスを寄居町方向に進み、玉淀大橋(北)T字路交差点を左折、国道254号にて荒川を越えて、鉢形陸橋を越える手前のY字路を左に進み、東武東上線の踏切が見える手前の十字路を左折する。道なりに進み、波羅伊門神社を左手に見ながら尚も道なりに進むと「壱岐天手長男神社」の縦看板が見えるので、その先のT字路を右折すると右方向に社叢が見えてくる。ナビで住所検索して出発したが、詳しい場所まではたどり着けなかったので、縦看板を見つけた時は感動したことを覚えている。
 駐車スぺースは鳥居前にかろうじて1台分の確保ができたので、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                小園壱岐天手長男神社正面
        
                  鳥居周辺の様子
 壱岐天手長男神社の主祭神は「天忍穂耳尊」「天手力男命」「天鈿女命」の3柱であるが、ここで注意して頂きたいのが、この3柱のうち、何故か「天忍穂耳尊」のみお名前の最後に「尊」を用いていることだ。「尊」も「命」も「ミコト」と読み、神様や貴人の名前の下につける敬称であるが、記紀に関すると『古事記』では全て「命」に統一されているのに対して、『日本書紀』では「尊」を最も貴いものに、「命」をその他のものに対して使い分けているとの事だ。冒頭の内容文に『天忍穂耳尊には「尊」がついている為、他の2柱より位は高いようだ』と書いたその根拠はその事でもある。
        
                    神楽殿
        
                    拝殿覆道

 男衾郡上・下小薗村
 天手長男明神社
 下村にあり、社内に蔵する棟札に、明暦元年九月吉祥日、奉造立天手長男大明神とあり---
 神明社
 是も下村にあり、前社同年の棟札あり、以上二社共に上下二村の鎮守にて、折原村神主相馬播磨持。
                               『新編武蔵風土記稿』より引用 
 壱岐天手長男神社  寄居町小園一三二
 荒川右岸の段丘上に位置する小園の地は、武蔵七党の猪俣党に属した尾園氏の所領に比定されている。開発の年代は明らかではないが、石田家と松村家の先祖によって行われたとの伝えがある。
 口碑によると、当社は、石田家の先祖がこの地に土着した折、かつての在所であった壱岐国石田郡(現長崎県壱岐郡郷ノ浦町)に鎮座する壱岐国一ノ宮天手長男神社より勧請したことに始まる。「手長」の意味は『宗像大菩薩縁起』に「異国征伐ノ御旗竿也」とある。流造り見世棚の本殿には、勧請時に壱岐国から移したと伝える自然石を奉安している。
『風土記稿』には「天手長男明神社」と載り「社内に蔵する棟札に、明暦元年(一六五五)九月吉祥日、奉造立天手長男明神とあり」と記している。元治元年(一八六四)には宗源宣旨を受けている。
 明治九年に村社となり、同四十一年には字宮前の村社神明社とその末社の八幡社と春日社を合祀した。神明社は、当地の開発にかかわった松村家によって勧請されたと伝える社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
       
左手側に並ぶ末社等               神武天皇遥拝所
 末社長屋に関しては、左から八幡神社、春日神社、津嶋神社、稲荷大明神、雷電神社、琴平神社が鎮座しているという。
 
        
市杵嶋姫命の石碑               仙元大日神
       
             社殿奥に聳え立つ御神木(写真左・右)
 総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社は、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座しているのだが、小園・折原地区近くにもその「鉢形」という地名は存在(鉢形城は特に有名)している。
 ところで、寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。
 対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたという。
 壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同名神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在している。
        
                             長閑な雰囲気の漂う社の一風景
 石田家に関して、参考資料としていくつかの文献を紹介したい。
 日本書紀垂仁天皇三十四年条に「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」と表記され、古代氏族系譜集成には「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)」と見える。
 上記の五十日足彦命は越国(現在の北陸地方)の開発に尽力したとされる皇子であり、越の国の君となり、臣を従えて穀物・農具をもたせ、民を率いて開墾し、漁猟を教えて国造りに尽くしたとの記述がある。
 また大里郡神社誌に「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中(1861年~1864年)の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」とあり、当村に昔より石田一族が多く定住し、文久年には「園明王壹岐石田神社」という名称として石田一族の氏神として鎮座しているとの事だ。更に壹岐国一の宮より勧請した年代は文久年代より遥かに昔との推測も成り立つようだ。
        

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