般若秩父大神社
なお、本堂から100m奥に行くと「観音堂」があり、更に奥へと進むと「奥の院」があるが、鎖場もあるため、一種の登山をするつもりで、装備と体力と気力を持って臨む必要があるとのことだ。
この法性寺に1488年(長享2年)の秩父札所番付(長享番付)が残されており、室町時代の後期には秩父札所が定着していたと考えられている。これによると当時の秩父札所は1番から33番までの33ヶ所で20番以外は全て現在とは番付が異なっている。長享番付の1番は現在17番の定林寺、33番は現在の34番の水潜寺であり、現在1番の四萬部寺は長享番付では24番、現在2番の真福寺は番付外である。因みに長享番付での法性寺は、第15番で、今の番付(32番)と異なっていた。
その後、16世紀後半に百観音信仰の風潮がおこり西国・坂東に比べて歴史が浅く地域的にも増設の条件にも恵まれた秩父の札所が増設されて34ヶ所になり、番付も江戸からの参拝者の便を考えて現行の番付になったと考えられている。
般若秩父大神社の創建時期は明らかではないが、法性寺の近くに歓喜天(聖天)を祭ったのが起源と伝えられ、もと「聖天社」と称した。神仏分離後、秩父神社の祭神を観請し「秩父大神社」と改称されたという。
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町般若2690
・ご祭神 八意思兼命 知知夫彦命 天之御中主命
・社 格 不明
・例祭等 例大祭 4月15日(聖天神楽)
地図 https://www.google.com/maps/@35.9974929,139.019078,17z?hl=ja&entry=ttu。
小鹿野町般若地域に鎮座する日本武神社から埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を500m程南下し、「長若」交差点を右折する。その後道なりに西行1.6㎞程先で、進行方向右側に般若秩父大神社の広い境内が見えてくる。
広い境内の中央付近にポツンと立つ般若秩父大神社の鳥居
『日本歴史地名大系』 「般若村」の解説
赤平川右岸の山間地に位置し、西は山嶺を境に伊豆沢村、東は長留(ながる)川を境に長留村、南は贄川(にえがわ)村(現荒川村)、北は赤平川を境に下小鹿野村。近世初めは幕府領、寛文一一年(一六七一)常陸下館藩領となったが、天和二年(一六八二)幕府領に復する。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。田園簿では高二八四石余・此永五六貫九三一文とある。「風土記稿」によれば、家数一六三、村内は「上中下三部ニ別レテ」名主も三人置かれていた。
道路沿いに立つ社号標柱 鳥居の東側にある社務所
鳥居の東側正面には、拝殿や神楽殿が見える。
神楽殿
毎年4月15日の祭礼に神楽殿で奉奏される神楽は、横瀬村根古屋の神楽(武甲山御嶽神社里宮神楽)の神楽師から伝授された。神楽の曲目は、奉幣、翁ほか十四座が伝えられ楽は笛、大太鼓、小太鼓、鼓からなるという。
拝 殿
境内道路側に設置されている案内板
小鹿町文化財案内
1,聖天宮(秩父大神社本殿)
昭和三十四年八月二十四日指定有形文化財聖天様と親しまれるこの神社は創立時期は明らかでないが、法性寺の近くに歓喜天(聖天)を祭ったのが起源と伝えられ、もと「聖天社」と称した。神仏分離後、秩父神社の祭神を観請し「秩父大神社」と改称された。
現存する棟札には寛政八年(1796年)の再違と記されている。桁行1,6m、梁間1,3mで奥行1,3mの向拝が付く。欅材の入母屋造、柿茸きで四面に千鳥破風と唐破風が付き、柱、軒周りなどに精巧な彫刻と彩色が施され、装飾的な社殿建築である。
1,聖天神楽
昭和五十四年二月二十一日指定無形民俗文化財
毎年四月十五日の祭礼に神楽殿で奉奏される神楽は、横瀬村根古屋の神楽(武甲山御嶽神社里宮神楽)の神楽師から伝授された。神楽の曲目は、奉幣、翁ほか十四座が伝えられ楽は笛、大太鼓、小太鼓、鼓からなる。
地元では神楽の保存会がつくられ、祭礼には大人と共に小中学生も熱心に神楽を舞っている。
昭和五十八年三月三十一日
小鹿野町教育委員会
小鹿野町文化財審議委員会
案内板より引用
精巧に彫刻を施されている本殿(写真左・右)
境内社務所側に祀られている石祠群
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等