古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三芳野神社

『通りゃんせ(とおりゃんせ)』は、江戸時代に成立したと見られる日本の童謡(わらべうた)で、遊び歌として知られ、その遊戯もいう。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられている。神奈川県小田原市南町の山角天神社、および同市国府津の菅原神社と共に埼玉県川越市の三芳野神社が舞台であるという説があり、共に発祥の碑もある。
 童歌「通りゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台といわれている。元来この社は、川越城築城以前の平安時代初期の大同年間(八〇六~八一〇)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社であり、地元の方々からの崇敬も高かったのだが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれるようになった。 城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められていた
 しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門(現在の川越市立第一小学校の正門付近)より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかった。
 反対に、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。 そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まっていったという。
 筆者の子供時代にはおなじみの童謡「通りゃんせ」であり、当時は何も考えず(当たり前であるが)に童謡として、または子供の遊びとして使用していた歌であったのだが、大人になり改めて歌詞を調べてみると、様々な解釈や説がなされていて、本当の意味が分からないのは筆者だけではないと思う。そのようなモヤモヤとしてすっきりと頭に入らない歌詞を頭に思い描きながらの今回の参拝であった。
        
             
・所在地 埼玉県川越市郭町22511
             ・ご祭神 素戔鳴尊 奇稲田姫命
             ・社 格 旧三芳野十八郷惣社・旧県社
             ・例祭等 例祭 42425日 天王様 5月中旬の日曜日 
                  大祓 
630日 新嘗祭 1123
 川越氷川神社から南東方向に数百m程しか離れていない「川越城・本丸御殿」から道を隔ててほぼ東側に隣接している三芳野神社。川越氷川神社の南西側で、歩いてもそれ程遠くない場所には有名な「菓子屋横丁」があるのだが、そこに行きたい気持ちをグッと堪えながら三芳野神社に参拝に行く。川越氷川神社の参拝客の多さに比べて、三芳野神社や川越城・本丸御殿は観光客や小学校の学習教室の児童はいたのだが、全体的に落ち着いた雰囲気の中、参拝に赴けた。
        
                  三芳野神社正面
 社名である『三芳野』という名称は、平安時代中期に在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡、みよし野のさと」、また鎌倉時代の中後期に後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学である『とはずがたり』に「正応二年、すだ川(隅田川)の橋とぞ申し侍る、この川の向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、時の国司・里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めらる」という地名が川越の旧地名であったことによるという。
        
              手入れの行き届いた長い参道が続く。
 また、当社社務所に貼り着けてある「⑧そもそも、三芳野天神って」という掲示板があるが、個々には三芳野という地名の解説がされてある。
《三芳野の三は御であって神聖な意を含み、芳は吉であって〇しい状態を示し、野とは広い平地のことです。この地に、天上界から降臨した「天つ神」である、素戔鳴尊とその后神・奇稲田姫尊を祭ったことが、三芳野の天つ神の社即ち三芳野天神社です。のち菅原道真公の神霊を配祀しました。》。*〇は解読不可能な所。
 我々は「天神(雷神)」と聞くと、すぐに平安時代での菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のこと思い返してしまうが、本来の天神とは国津神に対する天津神のことであり、この「天神信仰」の原型はご皇室の祖先神が天下る時期に相当する弥生時代頃(もしかしたら縄文時代に遡る可能性もあり)の古い時代から存在していたであろうと筆者は考えている。
 
  参道中ほどに設置されている社の案内板     暫く歩くと石製の鳥居が見えてくる。
        
               参道途中の右側にある社務所
 
社務所の正面窓面に貼られている社の解説書面    初雁公園基本計画図まで張られている。
 
拝殿前で参道左側に鎮座する末社・大国主神社    参道右側に鎮座する末社・蛭子神社

 末社・蛭子(えびす)神社は、寛永二年(1625)徳川家光命により、川越城主・酒井忠勝建立。神号額「蛭子社」(川越博物館保存)裏面に享保十九年(1734)の年紀が記され末社は同形・同寸法の為、大黒社と共に、天保十三年(1842)、再建されたと考えられているという。
 一間社流造・見世棚造 
 埼玉県 指定文化財 平成四年三月三十一日 指定

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 河越城并城下町』
 天神社 本丸の東の方巴堀の外にあり、三芳野天神と號す、社領二十石の御朱印を賜はる、緣起を閲に足立郡大宮町の氷川大明神は大社にて、國中の鎭守なれば爰に勸請すと、又云中古神託ありて法華の法味に滿足するゆへ、淨土に往來して極樂自在なりとありけるゆへに、本地堂に觀音を本尊として地藏を脇立とす、後に示現の告ありて十一面觀音を本體とす、不動毘沙門を脇立とす、又深秘の神體なりとて古き銅の扇あり、其圖は左に出せり、又いつの頃か北野天滿天神を勸請して、此社内に祝ひこめり、これは北野の本地と同體なれば、かくの如く相殿として祀りしならん、大猷院殿の御時しばしば此社へわたらせ賜ひ、其次をもて御放鷹又は騎射など御覧ありしとなり、又その頃の事にや、江戸西丸御普請ありしとき、六月の初より八月の末まで御座を當城へうつされけり、其頃當社は初雁を聞の名所にて、年ごとに雁の來ることその時をたがへずと聞し召され、人を三所にわかちをかれて、終夜きかしめられけるに、例のごとく初雁北の方より飛來り、三聲おとづれて南の方へゆきしと言上しければ、奇特の事なりと仰せられけるとぞ、抑爰を雁の名所と云事は、【伊勢物語】業平中將東國へ下りけるとき武藏國入間郡三芳野の里に來りて、ある女にあはんと云ける、女の母なん藤原なりけるによりて、中將にゆるさんとて歌を讀てやる、三芳野のたのむの雁もひたふるに、君が方にぞよると鳴なる、中將のかへしに、わが方によると鳴なる三芳野の、たのむの雁をいつかわすれん、といへるによりて、當所を雁の名所といへるなり、當社の宮居はもとわづかなるつくりなりしが、大猷院殿御遊歴ののち、酒井讃岐守忠勝に仰せて、造營の事をはからせ給ふ、よりて寛永元年二月の中頃より事始ありて、同き十一月下旬に至て功を竣れり、こゝに於て同二年二月廿四日遷宮の式行はる、導師は大僧正天海なりと云、以上の
は民部卿法印道春が撰ぶ所の緣起にみえたり、別當はすなはち高松院なり、

 三芳野神社(おしろのてんじんさま)  川越市郭町二-二五-一一(川越字郭町)
 川越は武蔵野台地の東北端に位置し、荒川低地に突き出した高台のため、古くから要害の地とされ城郭が築かれてきた。特に江戸幕府は江戸城に最も近い出城として重要視し、松平伊豆守信綱は寛永一五年から慶安年間にかけて城郭の拡張整備並びに城下町の町割りを進めた。
 城は古くから初雁城ともよばれ、当社は三芳野天神と号して域内本丸近く天神曲輪に鎮座していた。当社の由緒を伝えるものに慶安二年松平信綱の奉納による『三芳野天神縁起』があり、九つの物語を絵に表している。これを要約すると次のようになる。
(一)川越の地名は、昔鷲宮明神が太刀と琴を持った男女二神を伴って、川を渡られたことに由来する。(二)「伊勢物語に載る三芳野の歌は、当所の初雁の杉を詠んだものである。(三)・(四)時代が下るにつれて、祭神も種々に変化し、奇瑞を表し、一般の信仰も高まって来る。(五)年代は不詳であるが北野の天神も合祀する。(六)・(七)・(八)当地は放鷹や騎射に適していたため、たびたび将軍が訪れ、当社への参詣もあり、初雁の物語を聞き、大変奇特だとして、寛永元年には酒井讃岐守に命じて当社を再興させる。寛永二年には、天海僧正が導師となって遷宮式を行う。(九)松平伊豆守が城主の時、神田を寄進する。
 明治中ごろの祀官熊谷直就は、この慶安縁起を基に、中世の記録類『北条五代記』『永享記』、近くは社記・神宝などの史料を駆使し“熊谷縁起” ともいえるものを、編年体で著している。
この文書によると大同年中の建立後、長徳元年武蔵国司菅原修成が北野天神を勧請(一説には長禄元年太田道灌勧請とある)、正平二四年新田左衛門尉泰氏が三芳野出陣のおり戦勝を祈願し銅製五本骨の扇を奉納する。この銅扇は『永享記』に「御神体は、銅の五本骨の扇を納め奉り、御宝前の厳飾にも、みな扇を絵に書たり」とある。

 長禄元年太田道真・道灌親子は古河公方方への防衛線の一環として川越城の縄張りを行い、同時に当社を城内の守護とし、別当広福寺を建て社の管理を任せ、天神を相殿に祀ったという。なお文明三年江戸城築城にあたり、道灌は喜多院鎮守日吉山王社と当社を江戸に分霊し、山王社は赤坂に、天神は平河にそれぞれ鎮祭したと伝えている。
 川越城主は時の流れに従い更迭されるが、当社は代々崇敬されて連歌・和歌の奉納もあり、また社領等の奉納により社頭の隆盛をみる。天正一八年北条氏の後を関東に入国した徳川家康は川越城を重視し重臣酒井重忠を城主とし当社へ二十石の朱印状を与えている。
 元和九年徳川家光は神鏡を奉納すると共に城主酒井讃岐守忠勝に社殿再営を命じ、二年後の寛永二年二月二四日喜多院天海僧正が導師となり遷宮祭を行う。以後幕府直轄の神社として庇護され、寛永二〇年広福寺は三芳野山高松院広福寺と改称、喜多院の末となり、明治二年廃寺になるまで別当職にあった。
 明暦二年川越城拡張に伴い、江戸城二の丸東照宮空宮を当社から南の田郭門外に移築、天神外宮を造営し一般の参拝を許した。
 明暦以後も寛文一一年から弘化四年の大修復に至るまで一四回の修理が行われる。当社が今日の姿となったのは明暦二年の修営によると伝え、社殿は権現造りの形を取り、現在、県指定文化財となっている。
 寛永二年以来幕府の庇護を受けてきた当社は大政奉還、廃藩置県等の煽りを受けて後ろ盾を失い、城内建造物も明治四年ごろから順次取り壊しが始まり、別当高松院も廃され、当社と共に城内に鎮座していた八幡宮も当社へ合祀し、社名も「三芳野神社」と改称し、明治四年郷社となり二年後には県社となる。この段階で主祭神は素戔鳴尊・奇稲田姫命、配祀神に菅原道真公、合祀神を誉田別命と定められる。
 また、川越市西方的場にも三芳野天神が祀られている。この社は的場山法城寺の域内にあり、寺縁起によると、寺は三芳野天神・若宮八幡の別当を務め正観音を安置し、三芳野塚の麓にある的場は本来三芳野と呼ばれて三芳野塚、三芳野池と呼ぶ名が残り『伊勢物語』にいう三芳野はこの地であると記す。『風土記稿』には「境内にて謂ゆる三芳野天神是なり、此神体を中頃今の川越城中へ移す」とある。『川越歴史小話』は「的場の地が三芳野の里をさし、平安末期三芳野塚上に天神を勧請三芳野天神と称した。中世、太田道灌は川越城築城に当り域内天神社を移す一方、的場には渡唐天神の神体が祀られた」としている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
 拝殿脇に設置されている「三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社付明暦二年の棟札」の案内板
        
                    本 殿
        
                落ち着いた雰囲気のある社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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