古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

道地稲荷神社

 加須市旧騎西町は、県東部水田地帯の一画に在り、埼玉古墳群の地に近く、早くから開発されていた事が推測される。中世には武蔵七党の一派で「私市党」(キサイ又はシノ)の根拠地となった町であるが、戦乱に因り「野与党」の支配となり、「私市党」は衰えて、忍・熊谷方面にその勢力を留め、騎西町には、「私市城」と書く城名を残す城跡を留めている。
 ところで「野与党」も武蔵七党の一つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡(現・加須市付近)の野与庄を中心に勢力のあった武士団である。この党が播拠した地域は、武蔵国騎西郡と云われた、埼玉県東部地域で、北は埼玉郡の内、旧騎西町より南埼玉郡全域を含む八潮市迄の細長い挟狭な地域である。西側の境は、元荒川の上流、騎西町より・菖蒲町下栢間より分岐下流は、綾瀬川を境として東京都迄足立郡に接する。
 野与党系図には、騎西町の内・道智・道後・多賀谷・多名(種足)・高柳等の地名を苗字に冠した人々の名が出て来る。
 道智氏は、桓武平氏の始祖である「平高望」より6代目後裔である「野与基永」の次男頼意が道智氏を名乗ったといい、この道智頼意は、『東鑑』に「道智法花坊」という名称で登場している。
この氏の拠点は、騎西町大字道智中屋敷・稲荷宮と成就院付近と推測され、利根川の自然堤防上に位置し、後背地は耕地や住居に適した地形を供えている。道智氏の居住した痕跡は、「稲荷神社」や「成就院」があり、現在でも「中屋敬」「表屋敬」「裏屋敷」「鍛冶屋敷」と称する字があり、成就院には、鎌倉前期の寛元二(1244)年二月・鎌倉中期の弘長三(1263)年六月日期銘の板碑を見る事が出来る。
 因みに、道智法花坊(法華房)頼意と其の系の名に、道後(不明)・多賀谷(内多賀谷)・笠原(鴻巣市笠原)・道後氏(鴻巣市郷地)の名が見える。
        
            
・所在地 埼玉県加須市道地14753
            
・ご祭神 倉稲魂命
            
・社 格 旧道地村鎮守
            
・例祭等 春お日待 415日 天王様 77日・13日 
                 秋お日待 1015
 加須市道地地域は、騎西領用水左岸の自然堤防および流路跡に立地していて、騎西町場地域の北西、外田ヶ谷の東側にある。嘗ては「道智」とも書き、武蔵七党・野与党の道智氏の本拠地といわれている。
 途中までの経路は、内田ヶ谷多賀谷神社を参照。この社の西側で騎西領用水を越えた先にある「田ヶ谷小学校前」交差点を右折、旧国道122号線を北上し、130m程先にある十字路を右折すると、進行方向右手に道地稲荷神社が見えてくる。
        
                           道地稲荷神社正面 
          綺麗に整備された境内、及び参道の一の鳥居のすぐ先に見える二の鳥居
『新編武蔵風土記稿 道地村』
【東鑑】に道智次郎・同三郎太郎承久三年六月十四日宇治川合戰に打死と載せたるは、當村に住せし人にや、又遠藤氏の系圖にも、武藏國道智二郎と云名見ゆ、當國七黨系圖に道智法花坊とあり、此法花坊は當所に住せしものなるべし、
 道智氏の名は「吾妻鏡」建久元年(1190)一一月七日条に道智次郎、承久三年(1221)六月一八日条に三郎太郎、野与党系図(諸家系図纂)に頼意(道智法華房)とみえ、入洛した源頼朝に付き随っており、幕府御家人であった。承久の乱に際して、道智三郎太郎は六月一四日の宇治橋合戦で討死している(「吾妻鏡」同月一八日条)。
        
                          二の鳥居の先の境内の様子
 道地稲荷神社は、氏子の方々から「稲荷様」と称され、農家の守護神として信仰されている。特に養蚕が盛んなころは養蚕家から厚く信仰され、年三回の養蚕(春蚕・夏蚕・晩秋蚕)の掃き立てが始まる前に、お稲荷(とうか)様(陶製眷属像)を蚕が当たるようにと借り出し、蚕棚・神棚などで祀り、出荷のころに神社に神札とともに返納した。この行事は行田市利田(かがた)の稲荷神社に倣ったものであるが、養蚕が廃れるに従い消えていったという。
        
                    拝 殿
 稲荷神社  騎西町道地一五〇三(道地字稲荷(とうか)宮)
 当地は内田ヶ谷と境をなす騎西領用水の北に広がるこんもりとした台地で、道智とも書き武蔵七党野与党の流れをくむ道智氏の拠る所であった。道地は台地上に開けているため、灌漑用水は地内にあった溜め池を利用していることから、旱ばつ時には騎西領用水を水車でくみ上げねばならないという所もある。
 当社は社記によると、往古干損の憂いがあったため、村民たちで謀り、京都の伏見稲荷社より神霊を勧請し五穀豊穣を祈り祠を建立したことに始まるが、勧請の年月を今に伝えていない。『風土記稿』には、村の鎮守で、真言宗稲荷山成就院万福寺を別当としていたことが載る。
 明和五年九月覆屋を新たに造営し、明治二年正月別当成就院最後の奉仕として拝殿を再建している。
 大正四年、宮面の古伊奈利社が本殿へ、上内出の愛宕神社・鷲宮社・八坂社・天神社、天沼の大六天社が境内社として合祀された。このうち現在確認できるものは古伊奈利社・愛宕神社・大六天社、及び大六天社内に納められている八坂社(神輿)である。これ以外のものは社殿裏側にある一一社の石祠群に含まれている模様である。
 主祭神は倉稲魂命で、一間社流造りの本殿内には正一位稲荷大明神神璽二柱のほか、彩色された狐にまたがる茶枳尼天像を安置しており、このうち一つは合祀された宮面の古伊奈利社のものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿左側手前に祀られている稲荷大明神の石祠等  拝殿手前右側に設置されている案内板
        
                    本 殿
 氏子区域を細かく説明すると、上内出が一、二組。稲荷宮前、裏・中屋敷前、裏・下道地の計7組に分けられる。大正4年の神社合祀前は、愛宕社は上内出、大六天社は下道地のそれぞれの鎮守社であった。
 また、
この地は水の便に恵まれないため、旱ばつに遭うと必ず「雨乞い」が行われた。愛宕神社旧社地に弁才天が祀られている池があり、旧別当成就院にある「雨乞い石」と呼ばれる直径20㎝の丸石を借りて来て、この池の脇に置き、皆で池の水を掛けた。この行事も用水が整備されるにつれ行われなくなったという。

 この地は旱ばつで悩まされている地でありながら、同時に洪水多発地帯でもあったようだ。『加須インターネット博物館HP』には、この地域に残されている洪水に纏わる伝承を載せている。
 「明神様のお使い」
 明治四十三年の夏。この地方一帯を大水が襲いました。外田ヶ谷は周りが堤で囲まれていたため、入り込んだ水はたちまち村内に溢れました。
 手を拱いているうちにも水嵩はどんどんと増し、押し入れの中程まで達したときです。突然現われた一匹の大蛇。濁流にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいきます。
 ちょうど三間樋あたりでしょうか。堤を数回横切ると、遠くへ消え去ってしまいました。
 後には幾条かの切れ目が生じ、水は堤の外へと流れ出しました。やがて轟音と共に堤は切れ、水はみるみる引いていきました。
 おかげで村は、大きな被害から免れることが出来ました。村人はこの大蛇こそ明神様のお使いと、深く感謝したということです。
*この昔話は外田ヶ谷地域に伝わるものだが、隣の道地(どうち)地域には、この昔話の続きがある。「暫くして、道地の愛宕様(あたごさま・現在は稲荷神社に合併)の沼に、どうした訳かこの大蛇が棲みついてしまった。祟りを恐れた村人は、毎日酒や米をお供えして、やっとのことで沼から出ていってもらったということだ」。
 
  社殿の右側に並んで祀られている境内社    
愛宕社・大六天社の並びに祀られている
     左から愛宕社・大六天社             弁天社の石祠
 天王様は末社八坂社(現在は神輿として境内社・大六天社内に納められている)の祭りであるが、氏子たちは本社の祭りとして認識しており、にぎやかに行われる。7日は、子供天王と称して子供が神輿を担ぎ地畿内を回る。13日には、この地に住む中年層によって結成される交友会によって担がれ、地域内を回る。この祭りは地域全体を挙げての祭りで、古くは芝居等も行われたが、現在はカラオケ大会に変わっている。 
       
                 静まり返っている境内
 この社の運営費用は昭和59年から各家一律の金額を納める方法となっているが、それ以前は、家の格などで金額を決めた時代の名残で、家ごとに違っていた。古くはこのほか神社持ちの田があり、これを貸し付けて小作料を神社の経費に充てていたが、戦後の農地解放で全て失った。また、戦後間もない時、国家神道的雰囲気に対する反発から社の運営に窮し、境内地の一部と林を伐採し、これを売却して急場をしのいだが、それ以来、鎮守の社(もり)の景観は一変してしまったという。
 嘗て豊かな鎮守の森に囲まれていたこの社の風景は如何ばかりであったろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「加須インターネット博物館HP 

 

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