古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

日出安駒形神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市日出安9701
             
・ご祭神 大日孁貴神
             
・社 格 旧日出安村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 714日 例大祭 1015
 戸崎八坂神社から埼玉県道305号礼羽騎西線を南下して新川用水(騎西領用水)に達する丁字路を左折、用水沿いの道幅の狭い道を900m程東行し、路地を右折すると、日出安集会所とその東並びに日出安駒形神社が進行方向左手に見えてくる
 社の西側に隣接する日出安集会所には広い駐車スペースあり。
        
               日出安駒形神社正面一の鳥居
            鳥居の左側にある石碑は「伊勢参宮記念碑」
『日本歴史地名大系』「日出安村」の解説
 正能村・外川村の東にあり、集落は騎西領用水右岸の自然堤防上にほぼ東西に連なる。田園簿によれば田高一九五石余・畑高二九七石余、川越藩領。ほかに根古屋村金剛院領三〇石、保寧寺領一〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六一〇石余、反別は田方二五町余・畑方三六町余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに二四六石余があった。
 
   手入れの行き届いた参道の両側      朱を基調とした両部鳥居である二の鳥居 
      には赤松林が並ぶ。
 嘗て当社の別当は旧根古屋村金剛院。この金剛院は、新義真言宗にて、旧山城国(現京都府)醍醐報恩院の末山という。この醍醐寺は真言宗醍醐派、別名当山派といわれ、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されている修験道の一派であるため、金剛院が別当として管理していたこの社の鳥居が両部鳥居であるのも納得できよう。
『新編武蔵風土記稿 日出安村』
 駒形權現社 村の鎭守なり、根古屋村金剛院持、もと金剛院は當社の傍にありしが、文祿の頃根古屋村へ移れりと云、已に寺領も當村にあり、當社も慶安五年の御朱印を賜ふ、神體は古き木塊の如くにて詳にのべがたし
『新編武蔵風土記稿 根古屋村』
 金剛院 新義眞言宗にて、山城國醍醐報恩院の末山なり、神光山大日寺と號せり、慶安年中寺領二十五石の御朱印を賜はれり、當寺は私市城築營の頃、日出安村より引移せりとされど當寺に所藏せる古器蓋の裏に、文祿五年住僧私源の時引移せしとあるは、城築營後のことならん、弘源は騎西町場寶乗院の開山にして、慶長年中寂せり、

 二の鳥居の右側で、道路沿いには「天保九年銘日出安邑扶助田記念碑」があり、加須市指定史跡に指定されているが、丁度参拝時間がお昼過ぎの休憩時間で、何台もの業者のトラック等が道路沿いに駐車されていて、撮影が困難であった。案内板も設置されており、その内容はここに明記する。因みに『加須インターネット博物館HP』の「昔ばなし」の項には、【39 日出安村の「扶助田」】として昔話調で内容で紹介している。
 町指定史跡
 天保九年銘日出安邑扶助田記念碑
 碑面上部に「積金贖質田記」(金を積み、質田を贖う記)とあり、以下にその由来が漢文で記されている。天保九年(一八三八年)正月造立。
 この頃日出安村では質入や売却した田畑が数百畝にも及んだ。これを憂えた篤志家らは、質金を蓄え生活に困窮する村民に貸し与えた。また、村民も日々節約し農業に励み、数年後には田畑を買い戻すことができた。その為、天保六・七年は全国で凶作による食糧難に苦しんだが、ここでは村を逃げ出す者がいなかった。そして同九年、生活に余裕のある人々が私財を出し合い、五十畝の麦田を設けることとした。これを扶助田とし、その収入をもって困窮する者を救い、零落者(落ちぶれる者)が出ないことを目指した。
 なお、当碑の書と撰文は幸手宿の儒者、金子竹香である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 駒形神社  騎西町日出安九七〇(日出安字中耕地)
 日出安は騎西町の北部、新川用水(騎西領用水)右岸に位置する農業地帯である。当社の境内は、八二〇坪と広く、脇を新川用水が流れる静閑な地にあるため、氏子の憩いの場となっている。
 当社の創建については、口碑に「上杉謙信が根古屋城を攻める時、乗って来た馬が死んだため、その馬を悼んで祀ったもの」と伝え、『明細帳』には「往古陸前園胆沢郡水沢町鎮座駒形神社の分霊を祭ると古老の口碑に有せり」とある。なお、この社の祭神は、往古駒形神あるいは神馬ともいわれ、馬を保護し、その病を治し給うとして厚く信仰された。
 慶安五年には五石の朱印を受けている。
 現在、祀職は新槙家が二代にわたって務めているが、神仏分離以前は現在根古屋にある金剛院が別当を務めていた。金剛院は、かつては当社と境内を同じくしていたが、いかなる理由からか慶長年間に根古屋に移ったという。
 なお『明細帳』による祭神は大日孁貴神で、内陣には三本の幣束と一体の神像(石造の座像)とが納められている。明治四〇年八月八日に字新道下の神明社と字中の稲荷神社が合併を許可されているが、実際には合祀は行われなかった模様である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある社の扁額       拝殿手前に設置されている社の案内板
 
                                   本殿(写真左・右)
 当社には特別な信仰やご利益はないが、昔から鎮守様として祀られている。この駒形様は相撲が好きだといわれ、かつては八幡講相撲と称して七月一四日の夏祭りには草相撲が行われていた。この八幡講相撲は幕末か明治の初めになくなったというが、拝殿内にある安政四年に奉納された絵馬から当時の様子を偲ぶことができる。
        
             境内に祀られている石祠四基と奉納碑


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
                  
  

拍手[0回]