正能諏訪神社
社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。延喜式神名帳では「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載され、小社に列格している。江戸時代までは「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48箇村の氏神でもあって、広く地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。
実は、この歴史ある社は当所からこの地に鎮座していたわけではなく、元は現在地より北方数百メートルの埼玉郡正能村(現:加須市正能)に鎮座していた。戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く消失した。『新編武蔵風土記稿 正能村』の「小名」には、その時の歴史の痕跡がしっかりと残されている。
「宮内 騎西町場久伊豆社元當村にありし頃、供免地のありし所故此唱あり、今も久伊豆神社河野穩岐此地を持とす」
「一夜塚 永祿五年謙信騎西の城を攻陥せし時、一夜に築て士卒屯せし地なるゆえかく唱ふと、或は戰死の屍を埋めし塚とも云ふ、」
その後、江戸時代に埼玉郡根古屋村(現:加須市根古屋)の騎西城大手門前に再建された後、寛永4年(1627年)ごろに現在地に遷座したという。
正能諏訪神社は旧正能村の作神で、創建年代等は不詳であるが、信州の諏訪大社より勧請したと伝えられている。別当は幕末まで真言宗竜花院が務めていた。現社殿は江戸時代終りごろの嘉永3年(1850)に再建された。明治維新後の明治40年には字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀している。
毎年7月27日の例祭に行われる「カマドッカエ」は、作神であるお諏訪様に鎌を奉納して五穀豊穣を祈る行事である。
・所在地 埼玉県加須市正能200—1
・ご祭神 建御名方命
・社 格 旧正能村鎮守
・例祭等 春祭り 4月27日 例大祭(夏祭り) 7月27日
秋祭り 10月27日
戸崎日吉社から一面長閑な田畑風景が続く農道を800m程東行し、埼玉県道305号礼羽騎西線に達する路地を右折、旧騎西町市街地方向に南下する。500m程進んだ先のコンビニエンスストアが見える交差点の先に十字路があり、そこを右折すると正能諏訪神社が見えてくる。
社の境内東側には適度な駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
正能諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「正能村」の解説
騎西町場および外川村の北にあり、集落は騎西領用水に沿う自然堤防上に立地する。慶長七年(一六〇二)の正能村の年貢銭納状(正能家文書)がある。元和七年(一六二一)の武州崎西領正能村地詰帳(同文書)によれば検地役人は私市城主大久保家の家臣で、田方は一七町五反余であった。田園簿によれば田高・畑高ともに一八一石余、川越藩領。ほかに竜花寺(院)領二〇石があった。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三九五石余、反別は田方一九町一反余・畑方一九町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに一六〇石余があった。検地は正保四年(一六四七)実施。
拝 殿
諏訪神社 騎西町正能二〇〇(正能字当開戸)
当地は新川用水に沿う集落で、かつてここには式内社の玉敷神社も久伊豆神社という社名で鎮座していたことがある。『風土記稿』には、小名宮内とあり、これは当地に久伊豆神社の供免地があったために付けられた名で、久伊豆社移転後もここは河野隠岐持ちであった。
当社の創建は明らかではないが、口碑によれば信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝える。
祭神は建御名方命であり、内陣には金幣を祀る。
別当は、幕末まで真言宗竜花院が務めていたが、明治期に入り神仏分離となり、以来神職が奉仕するようになった。初め河野家が、次いで森野家が務め、現在は新横家が継いでいる。
明治四〇年に字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀した。このうち、雷電社は現在も旧地に石宮が残っている。以前ここには松の大木が一本生えていたことから、この辺を一本木耕地と称し、雷が来る度に黒雲が松の上を覆い、よく雨を降らせたという。そのため、このあたりの地主三名は雷神に感謝し、明治一七年に石宮を建立している。
当社境内には、明治から昭和にかけて奉納された伊勢太々講の記念物が多い。例えば、石灯龍・狛犬・社号標・玉垣などである。
「埼玉の神社」より引用
拝殿向拝部、及び木鼻部の彫刻 境内には社の案内板も設置されている。
当地は玉敷神社との結びつきが強い。これは「埼玉の神社」の興で挙げた通り久伊豆神社が奉遷されここに鎮座していたことと、玉敷神社の神楽師に正能の氏子が当たることになっていることを考えてもうかがうことができよう。現在、玉敷神社に所蔵されている文政五年の神道裁許状(神楽役)を見ると、中に神楽役の青木左近藤原貞勝・青木右門藤原保道・青木主馬藤原正直の三名が記されているが、いずれも正能の者と思われる・なお、現在の神楽師の中にも青木姓が多いとのことだ。
境内にある丸正講先達富士登山成就記念碑
丸正講先達富士登山成就記念碑は、丸正講の青木先達家(正能)が、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもので、市有形文化財に指定されている。
丸正講先達富士登山成就記念碑の案内板
町指定有形文化財
丸正講先達富士登山成就記念碑
江戸時代、富士山に集団で登拝する信仰が隆盛し、富士講(浅間講)と呼ばれた。この講は先達を中心に組織され、そのひとつが丸正講の青木先達家(正能・青木浩家)であった。
青木先達家は、一行初山の行者名を名乗る半右衛門を講祖に、元禄十二年(一六九九)には富士登山三十三回の大願を成就、以後、二代誠行二山、三代三行鏡山、四代泰行清山と続き、五代正行信山、六代正行生山の頃には傘下に四、五千人を有する関東屈指の大講社となった。
ここに造立する碑(嘉永五年(一八五二)十月二十六日銘・総高四一二センチメートル)は、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもの。台石には建碑に関係した村名や人名が刻まれ、その影響力は五十里(約二〇〇キロ)四方に及んだという。(以下略)
案内板より引用
境内には石碑等並んでいて、その中に「水天宮」が祀られている。
この水天宮に関しては、「加須インターネット博物館HP」の中の「昔ばなし」において「新川(にっかわ)べりの水天宮」として以下のように紹介している。
「新川(にっかわ)べりの水天宮」
正能・諏訪神社に水天宮があります。水天宮はお産の神様で妊娠すると、安産を願ってお参りをしました。水天宮は、むかしは龍花院の南、ちょうど鐘楼堂近くの新川べりにありました。この神様は、第2次世界大戦の後、ここへ引っ越してきました。
むかしは川で溺れる人や水の事故で亡くなることが多かったようです。特に水の犠牲<ぎせい>になった人を探すのは大変難しく、どうやっても見つからないことがありました。そんな時、有り難いおまじないがありました。水天宮のお札です。このお札をお盆にのせ、川上から流します。不思議なことに、人が沈んでいるところに来るとお盆がグルグル回りだしたといいます。
こうして何人もの人が見つけだされたということです。しかし、川の改修で水の事故も減り、このお札もいつしか使われなくなりました。
諏訪神社の境内に立つ水天宮は、高さ約80センチほどの石の祠で、正面に「水天宮」と書かれている。江戸時代の安政2年(1855)、正能村の人たちによって建てられたとのことだ。
【戸崎八坂神社】
・所在地 埼玉県加須市正能88付近
・ご祭神 素盞鳴尊(推定)
・社格・例祭等 不明
正能諏訪神社のすぐ東側で、埼玉県道305号礼羽騎西線沿いにあるコンビニエンスの道を隔てた反対側に戸崎八坂社は鎮座している。江戸期には「牛頭天王社」として『新編武蔵風土記稿 戸崎村』に記載されていて、明治40年戸崎諏訪神社に合祀されたが、現在も元地(字下耕地)で祀られているという。
戸崎八坂神社拝殿
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
諏訪社 村の鎭守なり 〇牛頭天王社 以上寶光寺持
寶光寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、諏訪山瑠璃院と號す、開山空鑁、本尊不動は智證大師の作、長二尺の坐像なり 薬師堂
「埼玉の神社」による戸崎八坂神社の由緒(戸崎諏訪神社項から)
明治四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「玉敷神社HP」「埼玉の神社」
「加須インターネット博物館HP」「Wikipedia」「境内案内板」等