上仁手諏訪神社
・所在地 埼玉県本庄市上仁手212
・ご祭神 建御名方命
・社 格 旧上仁手村鎮守
・例祭等 歳旦祭 1月7日 祈年祭 4月3日 例大祭 11月3日
新嘗祭 11月27日
国道17号線を上里町方向に進み、「若泉2丁目」交差点を右折する。国道462号線に合流後北行し、利根川に架かる「坂東大橋」を越え、群馬県に入った最初の「坂東大橋北」交差点を右折する。群馬県道296号八斗島境線に合流後1㎞程東行し、右斜め手前方向に進む道を道なりに進むと、利根川の堤防が見える手前で、進行方向右手に上仁手諏訪神社が見えてくる。
道路沿いに鎮座する上仁手諏訪神社
本庄市の上仁手地域は本庄の最も北端に位置する地域である。現在利根川が南部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後、寛永年間の大洪水により、烏川の流路が南側に移って上仁手村は現在の群馬県側になったが、行政上は武蔵国に属している。
『日本歴史地名大系』 「仁手村」の解説
かつては烏川の流路にあたり、慶長九年(一六〇四)代官頭伊奈忠次が同川に取水口(仁手堰)を設けて備前渠用水を開削した。寛永年間(一六二四〜四四)以前は上野国那波郡に属していたが、烏川の変流によって武蔵国所属となったとされる(上野国志)。幕末の関東川々御普請所絵図によると、利根川とみられる流路の南岸に元仁手、対岸に下仁手・上仁手があり、その北の島村(現群馬県境町)と長沼村(現同県伊勢崎市)との間に武蔵・上野の国境が引かれている。
境内の様子
境内に聳え立つご神木(写真左・右)
ご神木の根元には戸隠神社の石祠がポツンと祀られている。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 元仁手村』
元仁手村は古當所及び上下仁手を合せて仁手村と唱り、正保の頃も楢然り、延寶五年五月中川八郎左衛門檢せし水帳に、上新田・下新田と載たれば、此頃より三村に分れしにや、既に元祿改の國圖に、仁手村及仁手村内上仁手村・仁手村内下仁手村と分ち記せり、元の字を添しは何の頃なりや詳ならず、當村及沼和田・山王堂・都島・杉山・新井等數村古上野國那波郡に屬せしが、寛永年中洪水の時、烏川の瀬替りてより當國に屬せし由、【上野國志】に記せり、
『新編武蔵風土記稿 上仁手村』
利根川 村の南を流る、川幅近村に同じ、
諏訪社 村の鎭守、圓融寺持、下同じ、〇稻荷社
圓融寺 新義眞言宗、上野國那波郡堀口村滿善寺末、無量山と號す、阿彌陀を本尊とす、開山宥尊は寶永三年正月十六日示寂 觀音堂 地藏堂
諏訪神社 本庄市上仁手二一二(上仁手字北土手)
鎮座地の上仁手は、利根川北岸の群馬県側に位置する。かつては対岸の本県側の元仁手や下仁手と地続きで一村をなし、仁手村と称していたが、利根川の度重なる氾濫により同村が分断されて、現在のようになったという。この仁手村については、天正八年(一五八〇)に最後の鉢形城主北条氏邦が、長谷部備後守に出した「印判状」に、近くの栗崎・五十子(いかっこ)などとともに塩荷の押え所として載ることから、当時、武蔵から上野国へと至る重要な渡河点であったことがわかる。
当社の創建については、口碑に「天正年間(一五七三〜九二)に北条氏の家臣であった茂木隼人の一族が来住し、氏神として祀った」とある。北条氏の鉢形城内にも諏訪大明神が城の鎮守として祀られていたことから、茂木氏が当地に来住するの当たり、城内の諏訪神社を勧請したものであろう。
『風土記稿』上仁手村の項には「諏訪社 村の鎮守、円融寺持」と載り、江戸期には、真言宗無量山円融寺が別当であった。この円融寺は、当社の北隣に本堂を構えていたが、明治十八年に焼失し、廃寺となった。
本殿には、正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から拝受した「正一位諏訪大明神幣帛」の筥(はこ)や、各々に梵字の墨書きされた多数の小石を納める桶などが奉安されている。
「埼玉の神社」より引用
社殿の奥に祀られている養蚕神社の石祠
よく見ると、養蚕神社の左側隅には稲荷社の石祠もある。
氏子区域は大字上仁手で、氏子数は五〇戸余である。古くから養蚕育成の先進地として知られ、養蚕の盛んな土地であったが、昭和四十年始め、隣接する群馬県伊勢崎市八斗島に工業団地が造成されたことから、次第に工場へ勤めに出る氏子が増えてきている。
氏子が今も続けている行事に二の午に行う「初午祭」があり、当地では、明治18年の折の大火災が、二の午の夜に起きたことから、毎年二の午に初午祭りを行う習わしになったという。かつては当日早朝から、多くの氏子が当社境内の稲荷社へ繭玉団子を供えた。また、各家の屋敷稲荷でも赤い幟を立てて祭りを行っていた。養蚕農家の中には、養蚕倍盛を祈願し、一日を農休みにして、自分の家の稲荷社へ参拝者を呼び寄せ甘酒を振る舞ったりした。但し、このような行事も、昭和四十年代半ばからの養蚕の衰微に伴い、現在は行われていないとのことだ。
社のすぐ北側には悠然と利根川の大河が流れる。(写真左・右)
古老の話によると、当地は水害を被りやすい位置にあり、水難者がしばしば出る事から、昭和初年までは、八月のお盆に、川施餓鬼(かえあせがき)が行われていた。氏子は、麦藁で編んだ小船や紙灯籠を作り、夕方になると、利根川の川辺から蝋燭を灯して流したものであった。川面を照らしながら静かに流れていく様子は、何か物悲しく、大変に風情があったという。
利根川の堤防から見る社の遠景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄の地名」「埼玉の神社」等