古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

城山稲荷神社

 本庄城は、武蔵七党・児玉党出身の本庄宮内少輔実忠が古河公方家を迎え撃つために、弘治2年(1556)に構築し、元の本拠地であった東本庄館から移動した。『児玉記考』によると、「本庄氏滅亡の前は大池形をなせる凹地をはさんで左右に城郭を構え」とある。本庄城は、当初、久城掘りの東側から現在の本庄自動車学校付近までの大規模な範囲にあった。本庄城址は、現在の本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺(久城堀西側)を指すが、この辺り一帯だけではなく、本庄城址とされる地域は、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であった。城の北の崖下には小山川が流れ、東の地は窪んでおり、西の地はまた少し土地が高く、南は宿(城下町)の裏に続く。元の本拠地であった東本庄館より北方に位置し、より国境に近い位置に築かれた。
 天正18年(1590)に後北条氏傘下として豊臣秀吉と対立し、小田原城へ籠城するも開城に際して自害した。同年527日には本庄城も落城しており、鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡した。本庄氏による本庄城在城期間は、実忠とその嫡子・本庄隼人正近朝2代合わせて34年であった。
 天正188月、徳川家康に旧北条領が与えられ、その家臣である信州松尾の小笠原掃部大夫信嶺が9月に本庄一万石を配領した。小笠原氏により本庄城は改築され、信嶺の養嗣子となった信之により、本庄藩が立藩したが、慶長17年(1612年)に古河へ加増移封され、これにより本庄藩は廃藩となる。以後、本庄城の城下町付近には本庄宿が形成されていくこととなった。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市本庄3544
            ・ご祭神 倉稲魂命(城山稲荷神社) ・応神天皇(八幡神社)
                 建速素盞嗚命・牛頭天王(八坂神社)
            ・例祭等 祈年祭 315日 例大祭 412日 八坂祭 715
                 新嘗祭 1124
 本庄市役所の東側で、台町八坂神社からは北側にある「城下公園」から徒歩にて移動するとすぐ西側に城山稲荷神社が見えてくる。この地域は、北側の段丘の直下を小山川が流れ、南東は久城堀で切断されるという地勢は、自然の要害であったため、嘗ては本庄城が築造されていた地であり、江戸時代初期に本庄城を領有していた小笠原氏の本丸の位置は、城山稲荷神社の南西部一帯と推定されている。
        
                  城山稲荷神社正面
 
 鳥居近くにある「本庄新八景 本庄城跡と    標柱の先に設置されている社の案内板
     城山稲荷神社」の標柱
        
      社の案内板に対して、参道の反対側に設置されている本庄城跡の案内板
 本庄城跡  所在地 本庄市本庄三‐五
 本庄城は、弘治二年(一五五六)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。
 本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(一五六七)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。
 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(一六一二)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。
 元禄十三年(一七〇〇)の城跡検地表には三町四反五畝二九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。
 なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
    本庄城跡の案内板のすぐ先にある「城山稲荷神社創建四百五十年記念碑」の石碑
 城山稲荷神社創建四百五十年記念碑
 城山稲荷神社が当地に鎮座されて四百五十年を迎える。
 今を去る弘治二年(一五五六)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄台地の北端、字天神林に城を築き、守護神として稲荷神社を勧請した。本庄城の築城を機に本城村も誕生した。
 天正十八年(一五九〇)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事無く開城した。
 新たに本庄領一万石の城主となった小笠原信嶺は、天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。
 その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。
 また、町が全国有数の繭の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍盛の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊り、サーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。
 現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治四五年(一九一二)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。
 平成十八年(二〇〇六)、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建四百五十年を祝して、ここに石製大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
          参道を進み、石段を下るその先に社殿等が見えてくる。
              県内には珍しい「下り宮」の配置
       
         境内の中央に威風堂々と聳えたつ城山稲荷神社のケヤキ」
 本庄市内で最大といわれる巨木。太い幹は空洞化しているものの、境内中央に堂々とした姿を見せている。樹勢は未だに旺盛な様子が見られ、強い生命力を感じさせてくれる。
        
                          
城山稲荷神社のケヤキ」の案内板 
 埼玉県指定天然記念物 
 城山稲荷神社のケヤキ
 昭和四十四年三月三十一日指定
 このケヤキは目通り六・三メートル、根回り十三・三メートル、枝張りは三十メートル四方に及び、姿態もみごとな樹で、この一本で神社の森をつくっているくらいである。
 樹令およそ四百年と推定される、ケヤキは戦時中特別なものを除きほとんど強制的に供出され、このような大木は、県下でも数少ない貴重なものである、弘治二年(一五五六)本庄実忠によって本庄城築城のとき献木されたと伝えられている。(以下略)
        
                ご神木の先に鎮座する社
 城山稲荷神社  本庄市本庄三—五—四四(本庄町城跡)
 本庄城は、弘治二年(一五五六)に、本庄宮内少輔実忠が築城したとされる平城である。
 利根川と烏川に削られた段丘上にあり、北側の段丘の直下を小山川が流れ、南東は久城堀で切断されるという地勢は、自然の要害であったが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の関東攻めによって落城した。 徳川家康の関東入国後、小笠原信嶺が新城主となったが、嗣子の信之が慶長十七年(一六一二)、古河城に移されて廃城となった。 現在、城跡は本庄市指定の文化財となっており、築城時に植えられたという欅の大木は県指定天然記念物になっている。
 当社は、本庄城の北東端にそびえるこの欅の大木の傍らに鎮座しており、社伝によれば、本庄城を築いた本庄実忠が、常々崇敬してきた椿稲荷明神を城の守護神として勧請し、城の丑寅(北東)の方角に社を建立して祀ったことに始まるという。 本庄氏は氏神として稲荷神を厚く信仰したといわれ、元の居城であった東本庄館跡をはじめ、本庄氏にかかわりの深い館跡の近くに稲荷社が祀られている例がしばしば見られる。また、天正十八年に新城主となった小笠原氏も、当社を厚く信仰して社殿を再興し、慶長三年(一五九八)には上州(現群馬県)赤城山麓から取り寄せた一〇〇本以上の松を境内に植樹したと伝える。
 江戸時代は、真言宗の慈恩寺が別当であり、現在の社殿は、天保十五年(一八四四)に再建したものである。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社の祭日は、祈年祭(315日)・例大祭(412日)・新嘗祭(1124日)及び、末社の八坂神社の例祭である八坂祭(715日)の年4回祭典を行っている。その中で、最も盛大に行われているのが、例大祭である。「大祭」とも称し、昔から「桜を楽しむ祭り」とされており、嘗ては42日であったのだが、昭和二十年代からは桜が満開となる十二日に行うようになり、参道付近には今でも露店が並び、相当な賑わいがあるという
 八坂神社は本庄宿時代には中山道の中央に市神様とし祀られていた。その後円心寺隣接の八幡神社内に移され、更に明治末期に八幡神社と共に城山稲荷神社境内に移り三社別々に祀られていたが、この度の社殿新築を機にこれを合祀し新社殿内に三神社を祀る事になった。
 八坂神社の例大祭は祇園祭り(天王様の祭り)として古くから伝えられてきたが、現在は本庄祇園まつりとして七月十五日に近い土・日曜日に全町参加の市民のお祭りとして盛大に行われている。本町には明和四年(一七六七年)造営の神輿が現在も残されており当時から神輿渡御が行われていた記録が残っている。
       
          社殿の左側斜面上には幾多の白狐像が奉納されている。 
 城山稲荷神社は、本庄宮内少輔実忠が本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したにが始まりであったが、本庄城が廃城となった後は、一般の住民の方々によって商売繁盛・養蚕倍盛の神として信仰されるようになっていった。養蚕が盛んであったころは、春に当社に供えてある繭や白狐像を借りて帰り、秋に新繭や新しい白狐を添えて返納する習わしがあり、今でも本殿の脇には多くの白狐像が置いてある。
 
     社殿の右側にある手水舎           手水舎の並びにある銭洗弁財天   
手水舎の奥には市指定文化財「ヤブツバキ」あり   嘗て湧水が噴出していたのであろうか。

 市指定文化財のヤブツバキは、戦国時代に本庄城主本庄宮内少輔実忠が西本庄の地にあった椿稲荷を現在地に移転したという社伝が残っている。 目通り周囲は1.2メートル。
また、社殿のすぐ左脇にある湧水は、氏子の間で、七夕の日に、女性がこの水で洗髪すると災い除けになるとの信仰・風習があるという。
       
                   静かな境内
 境内の一角には神楽殿がある。かつて「太々神楽講(だいだいかぐらこう)」があり、旧本庄町内や伊勢崎方面に多くの講社を持っていたという。特に例大祭では、五穀豊穣・養蚕倍盛・家内安全・商売繁盛などを祈願しに、先達に連れられた代参が大勢来て、金佐奈神楽本庄組が奉納する神楽も見物していったとの事だ。但しこの「太々神楽講」は戦前に解散となっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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