古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平永天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永1197
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧下ノ村鎮守・旧村社
             
・例祭等 天神講 125日 春日待 415
 埼玉県道128号熊谷羽生線を「むさしの村」を越えて東行し、国道122号線との交点である「志多見」交差点を左折する。その後、国道122号線を750m程南下すると、進行方向右手に平永天神社が見えてくる。但し、この国道にはコンクリート製の中央分離帯があり、社に向かうため直接路地に移動することができないため、一旦通り過ぎてから、すぐ先にある「平永」交差点で右折し、迂回しながら社に向かうほかはないようだ。
 正面鳥居のすぐ左側に車両が数台駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                  平永天神社正面
『日本歴史地名大系 』「下之村」の解説
 明願寺(みようがんじ)村の西にある。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月水野清六郎(忠保)は、徳川氏から「下ノ村」で四五八石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿によれば田高三二二石余・畑高二一八石余。旗本水野領と川越藩領とあるが、寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名はみえず、国立史料館本元禄郷帳では水野ほか旗本二家と同松平の相給。松平家は川越藩主松平家の分家で、「風土記稿」では水野・松平と旗本富永領。
        
                 
平永天神社二の鳥居
        
                    拝 殿
 天神社  加須市平永一一九七(平永字本田)
 当地は合ノ川右岸自然堤防の南側に開けた所である。地名の平永とは、江戸期の地頭松舎人・水野十郎・富主膳ら三人の姓名にちなんで呼ばれ始めたという。
 当社の創建は、社記に「館林城主榊原康政の家臣松崎勘兵衛なる者、当地に住いてありしが、学徳に勝れ誠実にしてよく人を導きたれば、城主榊原康政これをいたく愛でて所蔵せる後陽成院御筆菅公像の掛軸を賜う。下ノ村(現平永)の里人菅公及び勘兵衛の徳を慕い、元和元年天神社を創祀す。下って明和三年社殿を再建し松崎家より件の掛軸の奉納ありたり」とある。
『風土記稿』に「天神社 村の鎮守とす、常泉院持」とある。また、「奉新建天神社拝殿・明和三丙戌年四月吉祥日・羽生領下ノ村別当常泉院寄寿」の拝殿棟札がある。
 明治九年に村社となり、同三十四年には社殿を再建し、村の鎮守として崇敬されたが、昭和二〇年の敗戦から三〇年を経て、当社への信仰は薄れてしまった。そのため、昭和五〇年正月、氏子は神社護持を改めて決議し、「祭祀復興・神域浄化・月例奉仕」を掲げ、昭和五三年に社殿を再興するに至った。
 古くは天神座像を安置していたが、昭和二〇年ごろ見当たらなくなり、現在は「天保十二年極月再興」の墨書のある台座だけ残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は、戦前は六耕地から成る平永全域であったが、現在は六耕地のうち本田耕地だけとなっている。ちなみに六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は当天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北願寺耕地は八幡社を祀っている。このうち、現在も祭典が行われている神社は、当社と上平耕地の住吉社だけである。
 
  社殿の左側に祀られている浅間大神の石碑      社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社。
                          並びに祀られている石祠は不明。
 
    駐車スペースの奥にある石碑類       並んで設置されている石碑二基
  左から本社建築之碑・石鳥居奉納之碑

 平永各耕地には石尊講があり、七月二〇日に講員は宿に集まり、庭に灯籠を立て、昼食は餡ころ餅、夕食は手打ちうどんを食べる風習がある。この日から八月三一日までは毎晩灯籠をつける。また、一〇年に一度は大山詣をする。
 七月一一日は常泉院の数珠を当社で回す百万遍があり、この日は大人も子供も集まる。
 七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
        
                 社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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