古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

六万部住吉神社

「作神」は「さくがみ」と読み、水稲農耕を主とする日本では民族信仰として農神をまつる習俗で、記紀には稲霊(いなだま)の〈倉稲魂(うかのみたま)〉や穀神の大歳神(おおとしのかみ)の名がある。
 京都など西日本では「ツクリガミ」といい、正月7日早朝に降(くだ)ってこられるといい、冬には山の神、春から秋にかけて田の神となるという。東北地方ではサクガミは農神(のうがみ)ともいい、316日に降り、916日に天上するといわれ、山の神ともいっている。また養蚕の神である「オシラサマ」もこの神と関係深く、同じ時期に昇り降りされるといわれている。作神は「エビスサマ」とか大黒様だといっている土地もあり、岩手県下では農神様は穀物の種を持って降ってこられるといって、早朝に木の葉を焚(た)いて合図の煙をあげる所がある。
 口碑によれば、六万部住吉神社の創建には、六万部村の開発に従事した大久保某が、上清久村より移住するに際して、摂津国一宮住吉大社の分霊である大久保家の守り神を当地の「作神」として祀ったのが始まりであるという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部992
             
・ご祭神 住吉三神(底筒男神 中筒男神 表筒男神)
             
・社 格 旧六万部村仁丁町鎮守・旧村社
             
・例祭等 お獅子様 426日 祭礼 826日 お日待 1019
 久喜市六万部地域内に鎮座する社は、字ごとに鎮守社があり、その地区(耕地)もそれぞれ近距離に位置する。南北に長い六万部地域において、西に位置する本村には大神宮社 中央部谷田向の愛宕神社、北部の新田・関ノ上の鎮守社である六所神社と参拝したわけであるが、南部仁丁町鎮守の住吉神社が地域内の最後の社となる。
 谷田向愛宕神社の南側にある変則的な五叉路を「仁丁町通り」方向に右折し、500m程南行すると、進行方向右側に六万部住吉神社が見えてくる。駐車スペースらしき空間が道路沿いにあり、そこの一角を一時的にお借りしてから参拝を開始した。
        
                    幟柱二基が道路沿いにあり、ここから参拝を行う。
        
      参道は途中から右側に折れ曲がり、そこから正面に鳥居や社殿が見える。
 鳥居の手前で左側に「伊勢参宮記念碑」が立ち、その手前と右側脇には力石が計4個ある。
        
                正面鳥居から社殿を撮影
 六万部地域において、1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた唯一の社であるのだが、やや愛宕神社や六所神社に比べて小ぶりの感は否めず、外観等も改築はされているようではあるが、歴史的な重みをあまり感じることも出来なかったのが少々残念。
        
           境内に祀られている境内社。左より天満社、稲荷社
        
                    拝 殿
          不思議な事に拝殿正面右側には半鐘が掛かっている。
 住吉神社  久喜市六万部九九二(六万部字仁丁町)
 六万部地域は備前前堀川の左岸の低地・台地に位置する。『風土記稿』によれば、六万部の地名の由来は、かつて地内の法華塚に六万部の供養塔があったことによるといい、慶安四年(一六五一)に上清久村より三十数軒が移住して一村になったという。また、村内の神社については、「六所明神社 末社八幡 稲荷〇神明社 末社三峯 稲荷〇愛宕社 末社稲荷〇住吉社 以上四社は、共に村民の持ちにて、村内の鎮守なり 末社稲荷 天神」とあり、当社は村民持ちの四社のうちの一社であったことがわかる。
 口碑によれば、当社の創建は六万部村の開発に従事した大久保某が、上清久村より移住するに際して、摂津国一宮住吉大社の分霊である大久保家の守り神を当地の作神として祀ったのが始まりであるという。本殿内には「武蔵国埼玉郡貳丁町村 正一位住吉大明神幣帛 元文三年(一七三八)七月十七日神祇管領兼雄」の銘がある白幣が奉安されており、当社が吉田家より極位の神階を受けていたことがわかる。その後、当社は明治五年に村社に列した。
 現在、当社で最も古い年紀銘を有するのは、本殿内奉安される阿弥陀如来像で、その厨子には「□元禄第拾三庚辰年(一七〇〇)十月十六日□□□□□ 為本願悉地内□ (梵字)奉造立住吉大明神御本地」とある。

                                  「埼玉の神社」より引用

 拝殿左側には大木の切株が一株見える。「埼玉の神社」には社の略図も載せているのだが、社の正面で、一対のイチョウが嘗てあったらしい。このイチョウは市指定保存樹木でもあったところから、恐らくはご神木でもあったのであろう。筆者の勝手な憶測で恐縮でもあるが、もし、その一対のイチョウが聳え立っていた当時の社の風景はどうであったであろうか。歴史の重みを感じる大木の存在は、現在の社の風格をも変える程であったかもしれない。
        
            綺麗に手入れされている(?)正面鳥居周辺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「Wikipedia」等

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