古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

阿良川天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市阿良川240
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧阿良川村鎮守
             
・例祭等 お元日 初天神日(春祭り天神) 125
 加須市志多見地域にある「むさしの村」南側に東西に流れる埼玉県道128号熊谷羽生線を行田方面に1㎞程西行し、十字路を左折する。会の川の南側を沿うように同県道128号線は走っているのだが、県道自体が自然堤防跡ではないかと思われる位に、南北の地との標高の差が特に南側面との標高差が45m程違って高い。現存している志多見砂丘と呼ばれる河畔砂丘の西端部に当たるのかもしれない。故に県道を左折直後、斜面を下るように進み、その後は周囲一面広がる水田地帯を眺めながら暫く南下すると、進行方向右手に阿良川天神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                
阿良川天神社の正面鳥居                    
『日本歴史地名大系』 「阿良川村」の解説
 東は下之村、南東は道地村(現騎西町)、西は串作村など。当村の南西、串作村境から道地村境に至る長さ一・五キロ、幅平均一一メートル、堤敷一〇メートルほどの通称阿良川堤があった。寛永二年(一六二五)羽生領代官大河内金兵衛が、利根川・荒川からの水を防ぐ水除堤として築造したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九四)八月付棟札に神領として「志多見荒河(中略)此郷何三分一」とみえる。羽生領に所属(風土記稿)。
        
         正面鳥居の脇には「明治四十三年八月 洪水記念碑」が建っている。

『明治43年の大水害』は、1910年(明治43年)8月に東日本の115県を襲った大水害である。85日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要、中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになり、関東だけで死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出約5000戸を数え、東京府だけでも約150万人が被災する大惨事となった。
        
            
周囲一帯田園風景の中にポツンと鎮座する社
 加須市は地形的に大部分が低地帯で、平坦面であるため、古くから「暴れ川」利根川や渡良瀬川、荒川など、河川と共に歴史を重ねてきた「水の町」で、過去、多くの水害に悩まされてきた。そのたびに民家は流失し、人畜の死傷も甚だしく、田畑等の損害も甚大であり、その惨状は筆紙に尽し難いほどであっろう。
 
参道途中、左側に祀られている庚申・道祖神の石碑   石碑の並びに祀られている石碑二基
  左から庚申塔・道祖神・道祖神・庚申塔        左から庚申塔・御嶽大神     
        
                    拝 殿
 天神社  加須市阿良川二四〇(阿良川字天神)
 往古、会ノ川が利根川の本流であったころは坂東太郎の名の通り流量も多く、そのため、流域では洪水による被害が頻繁に受けた。当地名もこのような利根川の様相に由来すると思われる。
 当社は弘安年間の創建と伝え、菅原道真公を祭神とし、内陣には天神座像を安置する。
『風土記稿』によると、江戸期は真言宗薬王山常徳寺が別当となり当社の管理に当たっていた。
 明治八年、上地から稲荷神社を合祀し、同四三年には千方の常徳寺裏にあった雷電神社を、翌四四年には同字の千方神社と同境内社の諏訪神社を合祀した。現在、旧雷電神社社殿に合祀社の四社が合殿として祀られている。
 昭和四一年、暴風雨により社殿が大破したため、同時に倒れた裏山の木を用いて、同四二年一一月氏子有志により再建された。
 戦前までは「天神様の分」と呼ばれた社領が二、三反ほどあり、名主であった福田家が管理をして、小作に貸し出し、その小作料を神社の費用に充てていたが、農地解放のため失った。以後、神社の運営に必要な費用は氏子全員で負担することとなり、年二回、祭礼前日の除草時に維持費として当番が集めている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿手前で向かって左側に祀られている     拝殿手前の向かって右側に一体だけある
     境内社・八坂社と神楽殿              牛の神使石像
       
                                      本 殿
 『新編武蔵風土記稿 阿良川村』には、北西串作村から阿良川村を経て東道地村に至る「堤」の存在を示す段があり、高さは「一丈」、つまり3m程の高さであったという。因みに『日本歴史地名大系』によるとこの堤は「阿良川堤」と表記されている。それでも、寛保28月(1742)未曾有の大洪水があり、利根川・荒川・入間川が氾濫し、堤防の決潰は広く96ヶ所に及び、その中の一つである加須市志多見の阿良川地内では、この堤約90mが決壊し、利根川を始めとする多くの諸河川の水が溢れ、被害は江戸までおよび、この地域でも洪水で多くの人が亡くなったという
『新編武蔵風土記稿 阿良川村』
堤 村の西南にあり、利根川本圍堤なり、高一丈、騎西・幸手二ケ領水溢の爲に設く、寛保二年洪水の時押破られしを、同時に京極佐渡守命を蒙りて修理せしと云。此堤は串作・道地の二村に續けり、

        
               本殿奥に祀られている合祀合殿
     中には雷電神社や稲荷神社・千方神社・諏訪神社の神名が記された碑あり。   
   拝殿の右側にある「富士講記念碑」    「富士講記念碑」の右側並びに祀られている
                         (?)・辨財天・辨才天の石碑三基
 氏子区域は旧阿良川村全域で、全戸が氏子となっていて、そのほとんどが農業に従事している関係から、榛名講・三峰講・石尊講が盛んに行われていた。但し現在榛名講は消滅し、三峰講の講員も天神耕地の者だけに限られるようになったという。
 氏子は「天神様」と呼び、単に「天神」又は「天満天神」と呼ぶこともある。また、近郊からは「阿良川の天神様」と呼ばれ、学問の神として信仰を集めている。
 また、
古くから洪水の度に疫病に襲われていたためか、当地では疫病除けの行事が盛んで、7月中には、11日から4日間も天王神輿の渡御が行われ、15日には下須戸地域の八坂神社からお水を受けて来る。これを「天王様の水」と称して、飲めば病気にならず、風呂に入れれば綺麗になるという。更に20日には疫病除けのため、百何遍を行っているという。
        
              社殿から境内、及び参道方向を撮影
                             


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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