古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上清久長宮神社

 新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部、上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある。
 上清久長宮神社は上清久地域の北西部に鎮座し、すぐ北には新川用水が流れている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久333
             
・ご祭神 息長足姫命
             
・社 格 旧上清久村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 419日 天王様 715日に近い日曜日
                  
秋祭り 1019
 六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行する。東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を左折し、北上すること1㎞程で「上清久」交差点に達し、そこを左折する。埼玉県道151号久喜騎西線を暫く西行すること500m程で、上清久長宮神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
 境内には本村集会所があり、駐車スペースも確保されている。
        
                 上清久長宮神社参道
 社は県道沿いに鎮座しているが、参道は南側にも伸びていて、古い鳥居の台座が道路脇に置かれていることからも、嘗てはこの場所に鳥居が置かれていたのではなかろうか。
 
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。
        
                 上清久長宮神社正面
              開放感のある明るい社という印象
 11世紀末の平安時代末期頃、久喜市域には清久(きよく)次郎秀行という武士がいた。この清久氏は鎌倉~南北朝時代に現在の久喜市上清久一帯で活躍した武士団である。藤原秀郷の子孫大河戸行方(重行)の二男秀行が、当地「清久」に居住して清久氏を名乗り、現在の久喜市清久に居住したと伝わっている。秀行は源頼朝に仕えた御家人で『吾妻鏡』等の書物や書簡等にもその名が見られる。
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
「古へ當所に清久次郎といへる人住せし故起りし名にて、【太平記】清久山城守など見えたるも、當所に住せし人ならんと云へり、」
『秋田藩太田系図』
「太田四郎行光―大河戸下総権守行方―清久二郎秀行(兄太郎広行)―小二郎左衛門尉秀綱(弟鬼窪五郎行盛)―次郎胤行―弥二郎秀胤―又次郎左衛門尉祐行―小次郎左衛門尉秀言。胤行の弟下清久四郎師綱―四郎二郎行氏(弟寺崎四郎三郎行茂)―小次郎行綱―孫次郎国行」と。尊卑分脈に「大河戸行方―清久三郎秀行―三郎兵衛尉秀綱―弥二郎秀胤」
『清久村郷土誌』
清久次郎・根拠を此処に定むるや、その臣瀬田五郎をして加吾宿(水深村字籠宿)の地を、藤本太郎をして藤本(上清久村字藤本)の地を、小河原某をして赤旗(下清久村鎮守赤幡社)の地を開かしむ。元弘三年北条氏滅亡するや清久氏また滅びて、瀬田・藤本・小河原某等皆農に帰す。
吾妻鑑卷二十五』
・承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に清久左衛門尉。同年八月二日、清久五郎行盛・子息太郎は下向す
吾妻鑑卷四十』
建長二年三月一日、清久左衛門が跡
吾妻鑑卷四十一』
建長三年正月二十日、北条時頼の随兵に清久弥二郎秀胤
吾妻鑑卷四十三』
建長五年八月二十九日、下総国下河辺庄の堤防修築の奉行に清久弥次郎保行
太平記卷十三』
中先代蜂起の時、北条時行に従ふ兵に清久山城守あり
太平記卷二十四』
康永四年八月二十九日、足利尊氏天龍寺供養の従兵に清久左衛門次郎
        
                    拝 殿
 長宮神社  久喜市上清久三三三(上清久字長宮)
 清久の地名は『風土記稿』によれば当地に清久次郎と名乗る人物が居住していたことに由来するという。建長年間(一二四九〜五六)と推定される某陳情(中山法華経寺「双紙要分」裏文書)に武蔵国清久とあるのが文献上での初見であるが、上下に分村した時期は不明である。当社は上清久村の西端に鏡座し、すぐ北には新川用水が流れる。
 当社の創建については伝えられていないが、当社が鎮座する耕地(村組)を本村と呼ぶことから、村開発の早い時期から村の鎮守として祀られていたと考えられる。
『風土記稿』上清久村の項に「長宮明神社 村の鎮守にて、祭神は大己貴命なり、鷲宮・久伊豆・長官の三社を相殿とす、光明院の持、末社 稲荷三宇 荒神 疱瘡神」と記され、別当を務めた光明院は、「同宗(新義真言宗)にて、下総国前林村東光村の末、瑠璃山地蔵寺と号す、本尊地蔵を置く」と載る。
 三間社春日造りの本殿内には、元文二年(一七三七)に神祇官領吉田家から「正一位長官大明神」の神位・神号を拝受した際の幣帛が奉安されている。元文四年(一七三九)の稲荷大明神の石祠や宝暦堅六年(一七五六)の石灯篭等が境内に建つことから、この時期に村の経済が発展し、それが当社の信仰に結びついていった様子がうかがえる。
 明治に入り当社は光明院の管理を離れ明治三年に村社となった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は江戸期には大己貴命を祀っていたが、明治に入ってからは『郡村誌』に「祭神未詳」と載り、『明細帳』には」息長足姫命(神功皇后)を祀ると見え、現在に至っている。こうした変遷の理由は明らかではないが、氏子らは一貫して当社を「長宮様」と呼んで厚く信仰してきたという。
        
  鳥居の脇には常夜灯の石が二基あり、左から「文化九申二月 初午」「文化七年牛九月」
       と刻まれていて、その右側の石祠は稲荷大明神と刻印されている。
       
         参道を挟んで
常夜灯や石祠が並ぶその反対側には、左から
 「力石」「社殿改築記念碑」「手水舎」「奉造〇〇燈篭」「稲荷大明神」が並列している。

 毎年7月15日に近い日曜日に行われる上清久の「天王様」祭りについては、八坂神社に安置してある御幣台の裏面に元文3年(1738)戊午歳五月吉祥日と墨書きされているのが発見されていることから、この時期より祭りが行われていたと推測されていて、明治以前は、毎年旧暦67日から15日まで行われていたが、その後、現在の日に行われている。
 元は旧騎西町の私市(騎西)城内に祀られていたが、城攻めに遭った際に新川に流され、地内の千勝橋に掛かっていたのを村人が見つけて、橋の袂に祀ったのが天王社の始まりであるという。
 三耕地が一年交代で当番を務め、三名で天王組と称する人たちが祭りの準備を行う。
 祭り当日は、八坂神社を出た神輿が、若者たちの手で上清久地内の各耕地を威勢よく曳き廻す。また、山車3台が曳き廻されるが、これらは地区内の邪気をはらうということだ。昼には、人形を乗せた山車が運行するが、夜になると提燈五百数十個をつけた提燈山車が「提灯祭り」と称して地内の主要道路を曳き回し、午後十時には解散となるという。
        
                 社殿から鳥居の先の参道方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「
Wikipedia」等

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