上早見千勝神社
・所在地 埼玉県久喜市上早見583
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧村社
・例祭等 春例大祭 4月12日 秋祭り 7月25日
前項上清久長宮神社と同様に、六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行し、東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を更に直進する。埼玉県道146号六万部久喜停車場線と県道は変更となるが、900m程道なりに進むと、進行方向左手に上早見千勝神社が見えてくる。
上早見千勝神社正面
『日本歴史地名大系』による 「上早見村」の解説
久喜本町の西に位置し、北は久本寺(きゆうほんじ)村(現鷲宮町)、南東は下早見村。南は新川用水を境に江面(えづら)村。騎西領に所属(風土記稿)。現市域に現存する最古の検地帳である元和七年(一六二一)の武州騎西領上早見村地詰帳(野房家文書)によると、畑三三町余が打出され、分付百姓の記載もみられる。検地奉行は私市(きさい)城の城主大久保氏の家臣。正保四年(一六四七)にも検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一九九石余・畑高二八五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では反別は田方二三町三反余・畑方三二町八反余、ほかに新開高三五石余、田方一町六反余・畑方二町三反余があった。
参道途中に設置されている案内板 社号標柱には「武蔵国上早見」と刻まれている。
鳥居は参道を進み、境内との境に建つ。
参道周辺には綺麗に玉砂利が敷かれ、手入れも行き届いているようだ。
千勝社の創建時期等は不明であるが、かつて埼玉郡上早見村(明治合併以後は大字上早見)の村社であり、1950年(昭和25年)時点での境内地面積は293坪であった。1909年(明治42年)7月2日に行われた合祀では、浅間社(字本田)・十二社(字本田)・神明社(字本田)・天神社(字本田)・厳島神社(字本田)・稲荷社(字本田)が集められている。
鳥居の手間で、参道右側に祀られている境内社・稲荷神社
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上早見村』
千勝社 觀喜院の持
觀喜院 新義眞言宗、久喜町光明寺の末、無量山と號す、本尊不動
聖天社 阿弥陀堂 〇金勝寺 同末、如意山と號す、本尊隨求明王
千勝社 御由緒 久喜市上早見五八三
□御縁起(歴史)
上早見村は古くは下早見村と一村であり、上と下に分村した時期は伝えられていないが、元和七年(一六二一)の「武州騎西領上早見村地詰帳」(野房文書)が現存するので、分村はこれ以前と思われる。
当社は、上早見村の字新田に鎮座する。『風土記稿』上早見村の項に「千勝社 歓喜院の持」と載り、歓喜院については「真義真言宗、久喜町光明寺の末、無量山と号す、本尊不動」とある。本寺である光明寺は白鳳十年(六八一)に行基が開基し、建長四年(一二五二)に法印賢信が中興開山したと伝わる古刹であり、境内には久喜町の鎮守である千勝社を祀っていた。恐らくは、新田開発が進められる中で、歓喜院の住職が本寺に祀る干勝社を当地に勧請したのであろう。その年代については定かではないが、久喜町の千勝神社が永正十四年(一五一七)に足利政氏により勧請されたと伝えられることから、これ以降のことと思われる。
本殿には、明和七年(一七七〇)に神祇管領吉田家から「千勝大明神幣帛」を拝受した際の祝詞が保管されている。
当社は、明治に入り歓喜院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。現在、歓喜院の本堂内には本尊と並んで高さ二六センチメートルほどの木製虚空像菩薩立像が祀られている。これは、江戶期に当社に祀られていたが、明治初年の神仏分離により歓喜院に移されたものと伝えられる。
案内板より引用
綺麗に整えられた境内及び参道一帯
参考資料「新編武蔵府独港」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等