古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

傍示堂稲荷神社

              
        
                            ・所在地 埼玉県本庄市傍示堂
427
              ・ご祭神 宇気母智命
              ・社 格 旧指定村社
              ・例祭等 節分祭23日  祈念祭 48日に近い日曜日 
                   例祭 1019日に近い日曜日 新嘗祭 125
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2417068,139.2089125,17z?hl=ja&entry=ttu
 傍示堂稲荷神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、住宅地を越える最初の十字路の先、左側に「稲荷神社参道」の標石が見えるので、そのまま進むと正面に傍示堂稲荷神社の社叢が見えてくる。
 駐車スペースは入り口手前右側に少しあるので、そこに停めて参拝を行った。
       
         傍示堂稲荷神社正面      入口右側にある社号標と案内板
        
 稲荷神社 所在地 本庄市大字傍示堂四二七番地
 祭神 宇気母智命 外四柱

 当社は、文明二年(1470)本庄宮内少輔信明が小田原城主・北条氏直との戦ったとき戦勝祈願のため、伏見の稲荷大明神を当社に遷座したが、戦いは勝利をおさめたため、ふかく信仰した社であると伝えられている。現在の本社は、明治14年に再建、昭和56年現社殿を大改築をし、明治40年には、無格社御獄神社、八坂神社の二社を合祀、大正55月、本県より幣帛料供進社の指定があった。
 昭和613
月  埼玉県 本庄市                       案内板より引用
        
                  鳥居より社殿を望む
「五十子」という本庄市にある変わった地名を紹介したが、今回も同市内にある社の地名を紹介する。その名は傍示堂。やはりちょっと変わった地名である。
 地域名の「傍示」とは境界を示すことを意味するらしく、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。そして、境界に建てられた御堂のことを傍示堂と呼んだのだそうだ。武蔵国と上野国との国境線は何度か変更になったことがあるようだが、かつてこの場所に武蔵国と上野国との国境線があったこともあるようで、ここには市場があり、たいそう賑わったのだそうだ。
 
     参道途中左側にある神楽殿       神楽殿に対して参道の反対側にある神庫
       
                    拝 殿
       
          本 殿                      拝殿脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社 御由緒
 □縁起  本庄市傍示堂四二七
 傍示堂という地名は、中山道と三国街道との分岐点に傍示(道標)として蔵王権現の堂を建立したことにちなむものであるという。この堂は、神仏分離によって廃止され、その跡地は当社の社務所となっていたが、昭和62年に集落センターとして建て替えられた。
 大正三年に田沼延四郎がまとめた由緒書によれば、永禄年間(1558年〜1570年)に本庄宮内少輔信明が京都の伏見稲荷大社に戦勝を祈願し、北条氏直との戦いで勝利を得たので、
この地に同社の文霊を祀ったのが始まりであるという。また、同書はさらに、本庄勘解由康忠が天正のころ(15731592)内野姓を名乗って帰農した際、当社を一族の氏神として祀り、天保12年(184199日には村の五穀豊穣の守護神として現在の社地に社殿を再興したと伝える。
 しかし、実際に永禄年間に本庄氏が当社を創建したとすれば、当社を勧請したのは信明ではなく、その曽孫の実忠でなければならない。この点で、右の由緒には問題があるが、いずれにせよ当社の創建には本庄氏が深くかかわっており、村の開発に伴って代々名主を務めた内藤家の氏神、更に村の鎮守へと信仰を広げていったものと思われる。氏子の間に伝わる「内藤家の屋敷内に祀られていた稲荷社を、村の鎮守として現社地に遷した」との口碑も、それを裏付けているものであり、『風土記稿』も「稲荷社村の鎮守なり、村民の神」と期している。
                                    境内案内板より引用
 
     社殿奥に鎮座している石祠群        石祠群の隣にも境内社が鎮座
「風土記稿」によれば春日社は稲荷神社に合祀されていて、また庖瘡社、蔵王権現社も境内社として鎮座しているというが、どの祠であるかは分からなかった。
       
                  拝殿からの一風景
 江戸時代には傍示堂は五料(ごりょう)道との追分(分岐点)で、厩橋(前橋)6里、五料関所へ2里の道でした。沼田や伊香保へも通じていた。五料道は、五料関という関所のあった五料宿(現在の群馬県佐波郡玉村町)でこの先の中山道・倉賀野宿で分岐してきた日光例幣使街道と繋がり、現在の地名で言うと群馬県伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市を経て日光東照宮に繋がっていた。
 傍示堂地区に真言宗智山派円満寺があり、そのお寺の伝えによると「永禄年間に開基は本庄宮内少輔信明の後胤市郎右衛門政則にして、開山を本庄氏出身隣策和尚と称す」との記述がある。傍示堂稲荷社は本庄信明の勧請により、また同社附近に居住する内野氏は本庄実明の後裔と伝えられ、安土・桃山時代末期に帰農して、一族の氏神として内野氏敷地内で祀られたという。
 
        
     

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