古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小島諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市小島4414
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 春祭り 43日 大祭 827
 本庄市小島地域は、元小山川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。
 この地域は、本庄市街地から西側に位置し、古代のある一時期は上里町全域と児玉郡神川町の一部を合わせた区域である賀美郡に属していたらしい。
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる、
        
                  
小島諏訪神社正面
 途中までの経路は小島唐鈴神社を参照。小島唐鈴神社の参道入口の一の鳥居から南下し、「小島4丁目」交差点を右折、埼玉県道392号勅使河原本庄線を北西方向に進む。ちなみにこの県道は、旧中山道であり、国道17号から県道に降格された路線で、起点である上里町大字勅使河原から終点の本庄市諏訪町の「日の出」交差点に至るまで、国道17号および高崎線に並行しているとの事だ。
「小島4丁目」交差点から県道沿いに300m程進み、路地を右折する。道幅の狭い道路と住宅がそれなりに並び、四方見通しがきかないため気をつけながら北上すると、正面にこんもりとした如何にも古墳らしき塚とその塚全体を囲む社叢林が眼前に広がり、その入り口には真新しい小島諏訪神社の鳥居や狛犬が見えてくる。
 
  鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     鳥居の手前で左側にある由緒の案内板
        
                            石段上に鎮座する小島諏訪神社
                    社殿前で右側には五重の石塔が立っている。
       
                  
小島諏訪神社社殿 
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 諏訪社 長松寺持 下同じ、〇稲荷社二 〇牛頭天王社 〇愛宕社 〇智方明神社 村民持、
 長松寺 新義眞言宗、江戸護持院末、唐鈴山藥師院と號す、開山宥海正保四年十月十六日化す、
     本尊藥師、

 諏訪神社 御由緒  本庄市小島四--一四
 ▢御縁起(歴史)
 小島は、利根川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。地内には、多数の古墳(旭・小島古墳群)が存在していたが、昭和三十年代後半からの急激な宅地造成によって、その数も激減してしまった。
 当社は、そのうちの一つの円墳上に祀られる。創建については伝えられていないが、地内の今井達雄家には、享保十二年(一七二七))に長松寺の住僧慶尊が新兵衛と名乗る者に宛てた文書が保管されている。その内容は、享保十二年より長松寺が諏訪大明神の別当となり、願いにより畑一反一畝一一歩の年貢上納を行うが、「神前之義」は新兵衛らが行うようにというものである。これに続いて、「寛永五年(一六二八)新兵衛ト改名ス、明暦四年(一六五八)此所へ移ル、万治二年(一六五九)此所へ諏訪大明神鎮座ス」と記されている。
 今井家には新兵衛と名乗っていた伝承はないが、同家は古くから「お諏訪様」と呼ばれている。口碑によれば、当社の氏子 の先祖たちは信州から移住した時は台地の下に住んでいたが、中山道整備に合わせて台地上に屋敷を構えるようになり、諏訪神社も今の場所に鎮座することになったという。前記今井家文書に「元禄十一年(一六九八)面地ヲ買置」と書いてあるのも注目される。
 明治に入り、長松寺の管理下を離れた当社は、無格社とされた。(以下略)
                                                                    案内板より引用
        
              社殿の左側に祀られている稲荷社
        
  鳥居の右側に並列し祀られている六基の庚申塔や二十二夜塔、一番右側には
御手長大明神。

 社の氏子は『明細帳』によれば「氏子六十七人、内戸主十四人」と載るように、古くからの一四戸が氏子であるという。ゆえに、氏子区域は、字元屋敷の中でも社の南側の一部の範囲に限られている。
 この限られた氏子を三組に分け庚申講を結成していた。一年の最後の庚申の日に持ち回りの宿に集まり、「庚申祭り」と称して床の間に猿田彦のお姿を描いた掛軸を下げ、その前にお供え物をしてから揃って手を合わせ、その後、料理を御馳走になりながら皆で酒を酌み交わす。この庚申講は歴史が古く、社の鳥居脇には享保七年(一七二二)の庚申塔をはじめとして、各年代の庚申塔が六基立っている。
 六基の庚申塔の一番右側には廿二夜塔が立っている。上記の男性が集まる庚申講に対して、氏子の女性だけで二十二夜講を結成し、かつては、毎月二十二日の日中に宿に集まり、二十二夜様の掛軸の前にお供え物を上げ、お茶を飲みながら雑談していたというが、今は春・秋の年二回だけとなっている。
 社が鎮座している地名は字元屋敷という。この字名の由来として「本庄の地名」では、中世の豪族の屋敷があった場所という。古い集落があったと思われ、江戸時代になって中山道が村内を通過すると、街道沿いに集落が移動していったのではないかと思われる、と載せている。
        
                  小島諏訪神社遠景


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

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