今泉鷲神社
・所在地 埼玉県東松山市今泉278
・ご祭神 日本武尊(推定)
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0110294,139.4341625,18z?hl=ja&entry=ttu
古凍鷲神社から一旦県道、国道254号線へと戻り、そこから国道を川島町方向に東行する。650m程進み、「流通センター入口」交差点を右折し、更に200m程先のT字路を右折すると「今泉公会堂」が右側に見えるが、その北側に隣接して今泉鷲神社の社叢林が目視でも見えてくる。
今泉公会堂には駐車スペースも数台分確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
正面鳥居の右脇にある社号標柱
正面にある鳥居は残念ながら改築中でネットが一面張り巡らされ、撮影することができなかった。
昭和の初め頃はこの一帯は一面うっそうと山林が広がり、氏子からは「鷲山」と言われていたという。当時当社を管理していたのは真言宗鷲宮山宝蔵寺で、「鷲宮山」と号していた。明治の初めの神仏分離令により宝蔵時からわかれ、明治の終わり頃に今泉村村社になった。
今泉・古凍・柏崎地域には鷺・鷲神社が3社、比較的隣接して存在する。創建由来はそれぞれ不明ながらも当地域では必要な事象等あったのであろう。
社叢林の中に鎮座する今泉鷲神社
古凍地域に古くから伝承されている祭りに「古凍祭ばやし」がある。
・ 指定日 昭和55年(1980年)1月10日(東松山市指定文化財-無形民俗)
囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがある。明治30年(1897年)代は古囃子が盛だったがその後中断し、昭和3年(1928年)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活した。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かる。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23年(1948年)に復活した。昭和29年(1954年)には屋台が新調されたが、昭和35年(1960年)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなった。現在は屋台を所有せず、トラックで代用している。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っている。
・上演日
4月15日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
7月15日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
拝 殿
鷲神社 東松山市今泉二七八(今泉字東町)
今泉の名は『小田原衆所領役帳』に見え、弘治元年(一五五五)に検地が行われたことがわかる。このころには既に村落が形成されていたものであろう。
当社の社叢は、今でこそ境内を覆うだけのこぢんまりとした杜であるが、昭和十年ごろまでは、その周辺一帯にまで広がる山林で松や杉の大木が林立し、氏子から「鷲山」の名で呼ばれていた。
社伝によると、当社は大永二年(一五二二)に鷲宮町の鷲宮神社から勧請したことに始まり、その後、天和元年(一六八一)をはじめとして江戸期に五度の社殿造営を行ったという。『風土記稿』にも「社内に天和元年の再興の棟札あり」と記されている。享保十二年(一七二七)には、宗源宣旨により正一位の神位を授けられた。
往時の別当は、真言宗鷲宮山宝蔵寺である。開山の忠祐が天正二年(一五七四)に示寂していることから、当社と同じころに創建されたものであろう。
明治初年の神仏分離により宝蔵寺の手を離れた当社は、明治三十二年に村社となった。
神仏分離の後、神職は野口儀助・沢田豊・沢田豊行と継いでいる。
なお、隣村の古凍でも鎮守に鷲神社を祀っており、当社の創建と何らかのかかわりがあると考えられる。
「埼玉の神社」より引用
今泉村
鷲宮
「村の鎮守なり、勧請の年代詳ならず、社内に天和元年再興の棟札あり、寶蔵寺持」
寶蔵寺
「新義真言宗、横見郡御所村息障院末、鷲宮山と号す、開山忠祐天正二年の示寂といふ、本尊は薬師を安ず」
『新編武蔵国風土記稿』より引用
拝殿の左側に鎮座する境内社 拝殿右側に鎮座する御嶽山・八海山・三笠山
大六天神社の石祠等 並びに板石神群
参考資料「新編武蔵風土記稿」「高坂丘陵ねっと」「埼玉の神社」等