古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

石橋若宮八幡神社

〇新編武蔵風土記稿による石橋八幡神社の由緒
(石橋村)若宮八幡社
 村の鎮守にて定宗寺持、相傳ふ當社は、古へ松山の城主上田氏の臣、山田伊賀守を祭りし社にして今も此社の下に、伊賀守の形骸を蔵めし石棺ありと云、又土人の話に明和の頃にや、村民善右衛門と云者、伊賀守の子孫なればとて、試に此地を穿ちしに、果して石棺を得たり、其蓋に伊賀守の名仄にみえしと云、伊賀守のことは、郡中腰越村城蹟の條にも出たれば、照しみるべし、法名は是心院道悟日眞大居士と稱せり、又云伊賀守が子三人ありしに、御打入の後各召出れ、旗下の士となり、長男は故ありて致仕し、當村へ来り住せり、其子孫世々農民となり、かの善右衛門家衰へたつきもならざりしゆへ、後攝州大坂の邊へ移りしと、今村内に其別家と云者、三軒殘れりと云、山田系譜を見るに伊賀守の長男仕を致せしこと見えず、土人の傳ふる所疑ふべし  
                
              ・所在地 埼玉県東松山市石橋2240
              ・ご祭神 誉田別尊
              ・社 格 旧石橋村鎮守・旧村社
              ・例祭等 歳旦祭 11日 祈年祭(春祭)415
                   例大祭(秋祭) 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0281255,139.3704967,17z?hl=ja&entry=ttu  
 石橋若宮八幡神社は唐子神社(下唐子)の近郊に鎮座している。同じく埼玉県道344号(高坂上唐子線)を上唐子地区方向に進み、「水道庁舎入口」Y字路交差点の手前、道路沿いに社の一の鳥居があるが、駐車スペースがないため、ゆっくりと参拝を楽しむのであれば、「水道庁舎入口」Y字路交差点の先で最初のT字路を右折すると左側に石橋若宮八幡神社の二の鳥居、社殿に続く参道が見え、その奥の古墳頂上に社が鎮座している。但し右折する道は見落としやすいので注意は必要だ。二の鳥居の先右側には社務所か集会所のような建物もあり、駐車スペースも確保されているので、そこに停めて一の鳥居を目指す。
 一の鳥居までの参道は意外と長く、二の鳥居まで150m程ある。やはり神社参拝における駐車スペースの確保は必須条件で、事前準備の必要性を再確認した。
             
                二の鳥居から神社正面から撮影
 規模は決して大きくはない社だが、参道周辺等、日頃の手入れが行き渡っている様子で、地元の氏子等に大切にされている神社なのだと感じた。但し二の鳥居であるため、最低限の礼儀として一の鳥居から参拝を行う。
        
               道路沿いに面して屹立する一の鳥居
 鳥居の手前で一礼する。一の鳥居の先から神域に通じる領域に近づく。そういう意味において鳥居が複数存在しているのは、神の領域に近づくにつれ、人々を徐々に厳かな気持ちに誘うため、または自覚させるための装置的な存在ではなかったのではなかろうか。今ではこのような長い参道は無くなってしまった社が多く、鳥居のすぐ目の前に社殿が鎮座する社もある。社自体もこじんまりとしてしまい、神に対する厳かな気持ちや日頃の感謝の念も失われつつある。残念なことだ。             
        
             
         鳥居を越えて更に撮影。古墳の墳頂部に社殿が鎮座している。
 因みに二の鳥居は朱色の木製の鳥居であり、鳥居の全てが「朱色」であるわけではない。朱色の鳥居は印象に残りやすいということはあるかと思うが、それだけでなく、朱色は生命の躍動を現すと共に、神様の力を高める役割りと古来災厄を防ぐ色としても重視されてきたものともいう。
        
          階段始点左側には石橋若宮八幡神社の由緒の案内板あり。
境内掲示による石橋八幡神社の由緒    
御祭神    誉田別尊(応神天皇)
 倉稲魂命   武御名方命
 菅原道真   別雷命
 素盞鳴命   軻遇突智命
・御由緒
 当所石橋の八幡神社は誉田別尊(応神天皇)を主祭神を齋きまつり明治四十年三月二十三日字附川稲荷神社、城山五社大神、上宿愛宕神社を合祀せる古社なり。
 昔大神は深く内外の政治に大御心を用いられ、文学を奨励し殖産興業を盛んにし数多の池溝を開き灌漑の便を計り又大船を作り交通の道をも開かれ当時国内は勿論韓国との交通甚だ頻繁となし海外の文化を導入し謙譲忍耐和衷協同の徳をもって国家を安泰し国民を安んじ給えり。
 されば大神は厄除開運の御神徳とともに文教及び産業の守護神として万人齋し尊崇する中に当社は私たち祖先のにより慶長元年村内守護のために此の地の古墳上に社殿を造営し相模国鎌倉の鶴岡八幡見より神霊を合祀し代々祭祀怠らず厚き神護の下営々として村づくりにいそしみ来たれり。
爾来星霜移り社殿の老朽甚だしく再建の議澎湃として起こり昭和四十八年十二月十六日竣工浄闇の裡に壮麗清浄の神殿に神霊を奉安し盛大に奉祝今日に及ぶ而して今や神威益々赫々の光を発し氏子崇敬者を鎮守し給え御神徳の洪大なるを偲ばしむ。
・文化財
 史跡 若宮八幡古墳一基 埼文指第一七九号昭和三十九年三月指定
・主たる祭事

 歳旦祭 一月一日 祈年祭(春祭) 四月十五日 例大祭(秋祭) 十月十五日
                                       案内板より引用
        
                     拝 殿
 案内板によれば、石橋若宮八幡神社は「慶長元年村内守護のために此の地の古墳上に社殿を造営」したと記されている。また別説では松山城主上田氏の家臣山田伊賀守を祀った社とも伝えられ、穴八幡・若見文八幡社と称されてきたという。
 今も社殿の下には伊賀守の遺骸を納めた石棺が埋められているといい、『風土記稿』には、明和のころ(
176472)、山田伊賀守の裔、善右衛門が社殿の下を掘ったところ、石棺が確かにあり、その蓋に伊賀守の名がかすかに読み取れたとの記事が残っている。このような伝説が形を整えたのは、江戸時代の中ごろのことではないかと思われ、古代築造の若宮古墳の石室・石棺に山田伊賀守の伝説が結びつけられたものなのであろうか。
             
                  墳丘上から参道を撮影

「埼玉の神社」によれば、石橋若宮八幡神社が鎮座する石橋地域は、縄文中期・平安期の集落跡である岩の上遺跡、縄文前・中期及び古墳後期の塚原遺跡、縄文後期・弥生中期の雉子山遺跡、古墳後期の附川古墳群・青鳥古墳群など、実に遺跡が多い地域との事だ。
 社の境内にも古墳が存在し、若宮八幡古墳と呼ばれ、県史跡の指定を受けている。この古墳は、横穴石室を持った前方後円墳で比企地方の後期古墳を代表するものの一つである。
 若宮八幡古墳の石室は、胴張りを持った特徴ある形をしているが、このような石室は七世紀ごろ急速に松山台地に伝播し、この時期の石室構築の主流になったと推測されている。

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