古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中曽根南市田神社

  中曽根南市田神社の北側50m位に東西に流れる通殿川(づうどの)は延長3.7km、流域面積 7.9km2の荒川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市中曽根~小泉に設けられていて、起点から県道257号線に沿って南下し、熊谷市津田で和田吉野川の左岸へ合流する。地元の人々は通殿川を[づうどの]ではなく、[つうどの]や[づどの]と呼んでいる。[づどの]とは頭殿の読みであり、通殿と同じく中世の地頭領を意味する言葉で、近世には官位名として使われた。例えば掃部頭殿(かもんのかみとの)や頭殿(かうのとの)である。
 この通殿川の周辺地域には、不思議と頭殿や通殿といった地名が多く存在し、また社も意外に多く分布している。

 現在の流路や周辺の地形から推測すると、通殿川は近世以前は荒川の派川だったと思われる。荒川が氾濫したさいの洪水流が、村岡付近から流れ込むことによって、次第に通殿川の流路が形成されたのだろう。村岡よりも上流の荒川右岸には、近世になるまで堤防は無かった。この荒川は寛永年間(1630年頃)の瀬替えによって、熊谷市久下から大里町玉作の方へ向かって新水路が開削され(開削ではないとする説もある)、和田吉野川へ繋ぎ替えられたわけだが、それ以前から荒川と和田吉野川は、通殿川を経由して繋がっていたといえる。
 すぐ南側には郷社吉見神社が鎮座する相上地区もあり、そういう意味からも南市田神社が鎮座する中曽根地区は、大里郡と吉見郡とを河川を通じて繋ぐ重要な地だったのかもしれない。

                             
              ・所在地 埼玉県熊谷市中曽根140
              ・御祭神 瀬織津姫命
              ・社 挌 旧中曽根村鎮守・旧村社
              ・例 祭 祈年祭 221日 春季例祭 4月中旬 
                   秋季例祭 10月中旬 新嘗祭 11月23日
  中曽根南市田神社は国道17号、佐谷田(南)交差点を右折すると埼玉県道257号冑山熊谷線となり、その道路を南下し久下橋を過ぎて最初の信号を右折する。市田小学校が左側前方に見える交差点を左折し道なりに真っ直ぐ進むと左側にJA市川があり、そこの駐車場の左側奥に南市田神社は鎮座している。
 また専用駐車場はなく、隣接する「JA市川」の駐車場を借りて参拝を行った。
                       
                         社号標柱から正面の参道を撮影
            
                               一の鳥居
 
     一の鳥居と二の鳥居の間にある神橋                   二の鳥居
            
                *(2022年3月参拝時)新しく案内板が設置されていたようだ。
 南市田神社
 市町村合併が明治二十二年(一八八九)に実施され、市田村が誕生した。このことにともない中曽根、小泉、屈戸、手島、沼黒、吉所敷、天水、津田新田に鎮座していた各社を遷座統合して明治四十三年(一九一〇)に市田村の中心的な社として創建された。社地は、中曽根の村社であった五社神社の境内が選ばれた。中曽根地区は市田村の行政的な中心地であった。
 社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に「北市田」の小名があり、これに対して南にある市田の一を表して、神社名がつけられた。(以下略)
                                                            案内板より引用

                 
       二の鳥居の先、右側にある神楽殿                 厳かな雰囲気のある境内                
                                                                         拝 殿
 南市田神社 大里村中曾根一五〇
 明治二十二年、中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田・高本・上恩田・中恩田・下思田の一一か村を合併し、市田村が誕生した。村名は『和名抄』に見える市田郡にちなむものであった。
 当社は、明治四十三年にこれら旧村の内の中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田に鎮座していた各社を遷座統合し、市田村の中心的な社として創建された。社地については、中曾根の村社であった五社神社の境内地が選ばれた。これは、中曾根地区に市田村の役場が置かれ、行政的な中心地であったことによるものである。社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の小名があり、これに対して南にある市田の意を表している。ちなみに、この「北市田」は、江戸初期の荒川開削以前は市田村と陸続きであったという。
 遷座統合によって、氏子数は増したものの、境内地の広さは三三五坪と従来のままであった。このため、例祭などの執行に支障を来すようになり、ついに大正二年に境内の西側の田畑三五五坪を整地し、新たな境内として編入し、総面積は六九〇坪に広められた。更に同三年には社殿を中央に移し、名実ともに地域の中心的な社としての体裁を整えた。なお、統合の中心となった五社神社については『風土記稿』に「村の鎮守なり、金胎寺持」と載る。金胎寺は当社東側にある真言宗の寺院で、名主茂右衛門の先祖によって開基されたと伝える。
                                                       「埼玉の神社」より引用

 
                         
                                本 殿
  南市田神社が鎮座する熊谷市中曽根地区は平安時代中期に編集された和名抄には大里郡市田郷を載せ、「以知多」と訓じていて地名としての歴史は古い。南市田神社はその名の通り、市田村(明治22年に誕生)の南半分の村々にあった神社を合祀した神社ではなかろうか。南市田神社に祀られている瀬織津姫も、その時に遷座されたのだと思われる。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社は、共に村社であり、祭神が瀬織津姫である。

 一方中曽根村の村社だった五社神社には、久々能知命、火御産需命、埴山比古命、金山比古命、弥都波売命という、五行の神(木・火・土・金・水を司る神々)が祀られていた。この五行とは陰陽道での宇宙を構成する要素である。なお、下恩田の諏訪神社に末社として金山大権現(明治23年に秋葉山神社と合祀して建立、再興か?)が祀られているが、その祭神は金属を司る金山比古命である。さらに小泉村の村社だった八尾明神社の祭神は、八ツ尾の大蛇だとの伝承があった。
            
                                                社殿の左奥にある末社群             
 この末社群は左から不明、天満宮、八坂神社、八坂神社、牛頭天王宮、不明、不明。特に左側の石祠は三つ星の神紋があるが、もしかしたらミカ星(天津甕星)かもしれない。勝手な妄想だが。 
            
                                                 中曽根南市田神社 社殿からの眺め
 ところで中曽根南市田神社の祭神である瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞(おおはらえのことば)に登場する神だが、「古事記」にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていない。大祓詞では、瀬織津姫の名前は、後半の「遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ」という部分に出てくる(「比売」は「姫」の万葉仮名的表記)。
            
 「大祓詞」の内容をごく簡単にまとめると、「神々が、世の中にある罪や穢れを、遠く山の上まで行って集めてきて、川の流れに流してやると、瀬織津姫が大海原の底にいる神様にまでリレーのバトンのように渡していって根の国(あの世、黄泉の国)に送りかえしてくれる。罪や穢れがなくなってこの世が清くなる。」という意味であり、瀬織津姫は日本の神道の「お祓い」や「祓え」の考え方をつかさどる重要な役割を果たす女神である。俗にいう祓戸四柱神と言われる神々だ。
・ 瀬織津姫、山中から流れ出る速川の瀬に坐し、人々の罪穢れを海原まで流してくださる神。
・ 速開津姫(はやあきつひめ)河と海とが合わさる所に坐し、罪穢れを呑み込んでしまう神。 
・ 気吹戸主(いぶきどぬし)海原まで流された罪穢れを、根の国の底の国まで吹き払って下さる神。
・ 速佐須良姫(はやさすらひめ)根の国の底の国に坐し、気吹戸主神が根の国の底の国まで吹き払った罪穢れを流失させる神。

 瀬織津姫命は、祓神や水神として知られているが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。

 また変わったところではこの瀬織津姫は桜の神とも言われる。
 昔「桜の木の下には死体が沢山埋まっている」と聞いたことがある。桜の木の妖気に似た美しさの源は埋められた死体の養分からできている、とよく表現されるようだ。


 話の本筋から少々脱線した所もあるが、とにかく謎の多い神である。

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