高本高城神社
この社の規模は大変小さいが延喜式式内社論社となっている。
・所在地 埼玉県熊谷市高本562
・御祭神 高皇産靈尊
・社 挌 延喜式内社論社 旧村社
・例 祭 例祭 4月10日
高本高城神社は南市田神社の南方に位置する。大里中学校を右手に見る道を真っ直ぐ進み、しばらくすると右側に一面の田園風景の中にこんもりとした高城神社の社叢が見えてくる。但し専用駐車場も駐車スペースもないので路上駐車し急いで参拝を行った。
道路沿いにある高城神社社号標
高本高城神社の正面は東西方向に向いているが、境内の鳥居、社殿は南北方向に造られている。それ故参道に対して横を向いている配置となっている。但し基本的に神社の参道から社殿は真っ直ぐ正面に向くことは良くないといわれているので、決して構図的には悪いわけではない。
参道から境内方向を撮影
鳥居の正面を撮影。奥行きがないので撮影しづらい。
高本高城神社 拝殿
高本高城神社の旧社地は本村の北方であったが、村民居住の後の方に当るので、今の地(本村巽の方)に遷座すると云う。また、安政2年(1855年)神職、徳永某古鈴一個を境内より掘出した。青黒の銅にて古色を帯び、片面先邪志国、片面高城神社とあると云う。
高本高城神社の扁額
「式内社調査報告」では所在地を「大里郡大里村高本」としており、地図に表示された場所は現在「保健センター」の近く(相上に鎮座する吉見神社の丁度川を挟んで反対側)であり、土手に石碑が建っている。昭和45年に河川改修のため現在地に遷座された。
拝殿左側にある境内社
写真左側から瀧祭神社、水神宮、天神宮、天満宮、牛頭天王等。この瀧祭神社は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社であり、共に旧村社。祭神が瀬織津姫であるところから境内にあるこの石祠の御祭神も瀬織津姫であろう。
旧大里町、現在熊谷市高本地区の高本高城神社は旧高本村の村社だが、新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代後期の時点で、大里郡高本村の村社は御霊明神社だった。現在は御霊明神社は存在しないので、高城神社に合祀されているのかもしれない。
御霊明神社は鎌倉権五郎景政を祀っていた。戦さで片目になったとの伝承がある平安時代の武士である。近隣の東松山市の正代御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)も鎌倉権五郎景政を祀っている。
鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。この景政の武勇伝が産鉄民と結びついて、鎌倉権五郎は産鉄民が祀る神になったという。俗にいう御霊信仰である。では何故この御霊信仰が鎌倉権五郎景政と結びつくのだろうか。
境内社の並びにある板碑
周囲をコンクリートで補強されている。
本来の御霊信仰とは、〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であり、特にそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。〈御霊会(ごりようえ)〉と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。
御霊会の初見は清和天皇の時代,863年5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。
八坂神社の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈梢園御霊会〉(略して梢園会)であって,社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。
また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。
ところで鎌倉権五郎景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。鎌倉坂ノ下に御霊神社はこの鎌倉権五郎景政を祀る古社であり、 相模の国に数多くある御霊神社の一つと考えられている。
この社は元々鎌倉党の5氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖霊を祀る神社であり、五霊神社といったものがいつの間に、語韻が似ていることから御霊神社になったとも云われている。また鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を祀ることから、権五郎神社ともいわれ、「ごんごろうさま:ごんごりょうさま」「ごんごろうじんじゃ:ごんごりょうじんじゃ」がいつの間にか、「ごりょうじんじゃ」になったとも云われている。不思議と京風の怨霊信仰の形態や風習は伝わっていないことは、鎌倉景政が怨霊になったとか、非業の最期を遂げた等、書かれていないことからも明らかだ。
国学者である柳田国男は山に住む神の目が一つであることを指摘している。何より片目であることが重要な事で、山童(やまわらわ)の目も河童とちがって一つであり、それは「目一つ坊」でも「目一つ五郎」でも変わらず、東日本では片目の木像が多く残されているという。
この木像は景政伝説と関係していることが多く、眼病平癒を祈願する御霊信仰と結びついていただけではない。景政の主人が源義家(八幡太郎)だったために、さらには八幡信仰へとつながり、のちに上杉謙信までが景政の後裔と名乗ることになる。史実では後三年の役の戦いによって片目になってしまっただけなのだが、この片目であることが神寵と結びつく隠れた理由があったのではないかと国男は考えていた。
「めっかち」という言葉がある。片目を意味する元来差別用語だったらしいが、この言葉の意味は非常に深い。最初の「め」は言わずもがな「目」のことだが、では「かち」とは何をさしているのだろう。それはほかならぬ「鍛冶」のことだ。鍛冶は火と水の工芸で、かつては目を痛める職業でもあった。日本全国に鎌倉景政や、雷(いかずち)、さらには天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祭る神社が広がっているのは、おそらく鍛冶職人(たたら集団)の分布と関係していると国男は見ていた。一目小僧や目一つ五郎は、そうした神の零落した姿である。
一つ目神の追求から、国男は次に別系統の神社への連想を紡ぎだしている。野州(下野と上野)には一目を損じた垂仁天皇の皇子、池速別命(いこはやわけのみこと)を祭った神社が多い。ほかに柿本人麿を祭る「人丸神社(大明神)」も多く、人麿がこの地で手負いとなって逃げるときにキビ畑で目を傷つけたという言い伝えが残っている。だが、野州の「人丸神社」はそもそも柿本人麿を祭った社ではなく、「一目(ひとめ)神社」の転訛(てんか)ではないかと国男は疑っている。
さらに九州には日向(ひゅうが〔現宮崎県〕)などに多くの「生目(いきめ)神社」が残っており、ここでは日向景清(かげきよ〔すなわち平景清、別名、悪七兵衛景清〕が祭られている。盲目となったと伝えられる平家の猛将、景清を祭る神社も、眼病の平癒祈願と関係している。
つまり、このような神社はすべて一つ目神信仰がのちの御霊信仰と結びついて発達を遂げたもので、ここには神主を神へのいけにえとしてささげた古代の儀式が、一つ目神自体を祭る信仰へと変わり、さらにはそれが一つ目の御霊を祭る信仰へと推移した経過がたどられている。
高本高城神社 遠景
また鎌倉権五郎景政の「五郎」にも意味がある。この「五郎」は御霊の音が似ているために「五郎」→「御霊」と転化したのではないかとの説だ。ウィキドペディア「御霊信仰」には以下の記述がある。
(中略)鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。柳田国男は、曽我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。
玉本高城神社の参拝記録を淡々と書くつもりが、御霊信仰、鎌倉権五郎景政とあらぬ方向にまで発展してしまったが、想定外の事項を考えることもまた一興であり、楽しいものだ。