俵瀬伊奈利神社
しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走しました。その際、「令義解(りょうのぎげ)」という古文書に女医の記述があることを訴えたと言われています。この「令義解」を校訂し、後世に引き継いだのが埼玉の偉人「塙保己一(はなわほきいち)」でした。
こうして吟子は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となりました。
開業後は、診療活動に加え、婦人解放運動等の社会的活動も担い、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。大正2年(1913年)、62歳で永眠し、栄光と波乱に満ちた生涯を閉じました。
埼玉県㏋より引用
荻野吟子記念館は熊谷市俵瀬地区にあるが、その記念館近郊に伊奈利神社が鎮座している。俵瀬地区で生まれ、青年期まで過ごした吟子はこの社にお参りに行ったことがあったのだろうか。
・所在地 埼玉県熊谷市俵瀬489
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧俵瀬村鎮守
・例 祭 4月・10月 例祭
熊谷市俵瀬地区は、熊谷市の最北東部に位置し、利根川とその支流である福川が合流する地点の東側に、東西1.4㎞程、南北850m程の2河川に挟まれた地域に行政区域は形成されている。地区名「俵瀬」もその河川に囲まれた「俵型」の島が連なっているようなので、その地名が付けられたとも云い、また江戸時代、収穫した米の俵を船に乗せた場所という言い伝つたえもある。但しこの「俵瀬」という地名は、江戸時代正保年間の国図には見当たらず、元禄改定図が初見であり、正保以降(検地は寛文以降)に分かれた村で、「新編武蔵風土記稿」には天領として代官を置き、幕府が管轄していた地であった。
俵瀬伊奈利神社は、葛和田神明社から900m程東へ走って行くと、俵瀬コミュニティセンターに隣接して稲荷神社が鎮座している。俵瀬コミュニティセンター前には駐車可能なスペースも確保されており、そこに停めてから参拝を開始した。
俵瀬伊奈利神社正面
鳥居を過ぎると左側に石碑がある(写真左)。但し解析が難しく断念。そのまま社方向に進む中で、左側にある俵瀬コミュニティセンターを左手に見ながら(同右)二の鳥居方向に進む。
石段の先にある二の鳥居
利根川と福川に挟まれた俵谷地域。嘗てこの旧俵瀬村は、北に流れる利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水のたびに水が滞留しがちな「水場」の村であったようだ。ながらく水害と闘ってきた俵瀬の地の鎮守社ならではの配置に思えた。
紙垂等はないが、二の鳥居付近に聳え立つ巨木。
周辺にある巨木・老木は、嘗て体験していた幾多の水害等の被害を見てきたであろう、物言わぬ歴史の証人でもある。
拝 殿
熊谷市指定無形民俗文化財
「葛和田のあばれみこし 」大杉神社祭礼行事
熊谷市北東部、利根川沿いの葛和田(クズワダ)地区は嘗て、利根川水運の河岸として賑わいました。河岸に鎮座した大杉神社は、水難守護の神として信仰され、祭日には各地から数百の船が接岸したと云います
関東の奇祭としても知られる東のあばれ神輿「大杉様のあばれ神輿」の渡御で使われる神輿は、関東一重いもので2トンもあり、その神輿を地区内の若い衆が担ぎ、早朝から葛和田地区をはじめとする秦地区内(葛和田・大野・俵瀬)を練り回り、午後1時過ぎから利根川の清流でさらにもみ合い覇を競って除災を祈願します
この葛和田の大杉神社祭礼行事は、町の無形民俗文化財に指定されています。大杉神社は、古くから水難、悪疫守護の神として知られています。葛和田地区は江戸時代河岸場があり、水運に携わる人々が無事安泰を神社に祈願した祭札が「あばれ神輿」であり、その名残を今に伝えるものです。川のまち妻沼ならではの夏の風物詩が、東西のあばれ神輿なのです。
熊谷市デジタルミュージアムより引用
『新編武蔵風土記稿』俵瀬村の項に稲荷社が記載されているものの、「成就院持」としか記載されていない。また創建由来が他の資料等見つからず、間接的に「俵谷」地区に関連した歴史等を探すより考察方法がない。
『埼玉の神社』でも同様で、直接的な資料がないため、成就院の記載を引き「成就院は慶安四年(1651年)の草創と伝えている。当地が一村としての体裁を整え始めるのが寛永(1624-1645年)の末ごろと思われ、当社の創建も、別当成就院と前後して行われたものであろう。」と記されている。
また江戸時代には「稲荷社」と称し、明治初期に「伊奈利社」と改め、明治41年合祀政策により同大字の神明社、厳島神社を合祀し、大正2年には堤防工事に伴い利根川縁にあった当社を厳島神社の旧社地に御遷座と伝えている。
境内社 仙元社
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉県 HP」「埼玉の神社」「熊谷市デジタルミュージアム」等