大野伊奈利神社
大杉神社の鎮座する「荒宿」は、特に「宮元」と呼ばれ、祭礼の一切を取り仕切る大頭、補佐する小頭を含め、十二名の当番が出されます。宮元では当番が毎年六名ずつ入れ替わり、前の年に小頭を務めた人が、翌年の大頭となります。祭りには当番の他に、葛和田・大野・俵瀬の各地区の人々をはじめ、大頭経験者などで組織された大杉神社祭礼行事保存会、祭り愛好者の団体である大杉神社愛好会などが参加されます。
*大杉神社祭礼行事「葛和田のあばれみこし」PDF参照
・所在地 埼玉県熊谷市大野751
・ご祭神 豊宇気毘売命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
大野伊奈利神社は、弁財厳島神社隣の保育所、十字路を利根川方向に北上し、土手にぶつかる手前のT字路を右折すると、左手に社の鳥居や境内が見えてくる。社は利根川の土手に対して南側に面して鎮座しているので、北側は広大な利根川の土手が広がっている。
正面朱塗りの一の鳥居
居上部の笠木等は通常のサイズだが、柱が短い為、頭でっかちのような形となっていて、不安定感は否めない。もしかしたら嘗ては通常の鳥居だったのが、水害等の災害が原因で、両方・もしくは片方の柱が折れたのではないか。その教訓を残すため、敢てこの状態で維持・保管しているかもしれない。勝手な想像で恐縮だが。
地形からしても、なにより水害防除が求められる地とみられ、「埼玉の神社」には「伊奈利社を(利根)川の側に勧請することによって、水害から村を守ろうとした開拓者の心情が推察される」とある。
社殿に通じる石段前にある二の鳥居
大野伊奈利神社は石段上に鎮座している。
土手沿いの社故、自然堤防上に鎮座したのであろう。
拝 殿
大野伊奈利神社の冒頭の解説で「大杉様の祭りは、葛和田・大野・俵瀬の三地区の祭り」とこの地域間独特の祭りと記述されている。
「同じ文化・伝統を共有する隣接地域」の意味すること、要約するにこの地区は嘗て一つの大きな区(葛和田)だったのではなかろうか。「俵瀬伊奈利神社」は新編武蔵風土記稿において、元禄年間に分村下との記載があり、分村前は、南・東側は「埼玉郡」、利根川を挟んで北側は「上野国」であることから、西側に隣接している「葛和田村」に含まれていたと考えたほうが妥当だ。また同風土記稿には、葛和田村・小字に「大野」と書かれている。風土記稿で小字の記載方法は地域北側から記述されているようなので、そうするとこの「大野」は現在の大野地区の可能性が高い。『埼玉の神社』にも「宝暦六年(1756年)の伏見稲荷からの分霊証書に『武州 大野村鎮守』とあることから、当時既に『大野村』という名称が使われており、葛和田村から実質は独立していたことがわかる」とも記載されていている。
石段の右手側に境内社・三峯神社と石祠 社殿左側にある青面金剛と庚申塔、馬頭尊、
馬頭観音。祠の中にも馬頭観音あり。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等