広瀬浅間神社及び広瀬山王社
・ご祭神 木花咲耶姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
広瀬浅間神社は、熊谷市小島にある「熊谷さくら運動公園」を起点にすると所在地までの説明が行いやすい。この運動公園北側に接している「さくら運動公園通り」という名称の道路を熊谷市方向に進み、左手に熊谷工業高校が見える中、直進する。手押しボタンの信号がある先の十字路を右折し、すぐ斜めにある道を左折してそのまま直進すると広瀬浅間神社がほぼ正面に見えてくる。
広瀬浅間神社に接する広瀬東西集会所が南側にあり、そこには1台分駐車で来るスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
道路沿いに鎮座する広瀬浅間神社
社号標柱には「村社 富士浅間社境内」と刻印されている。
熊谷市広瀬地区は、秩父鉄道「広瀬野鳥の森」周辺が行政地区となっており、国道140号北側に鎮座アするこの地域は、その北東部端部となっている。当初筆者がこの社を参拝する時、この地区名からおおよその位置を想定してから、パソコンで位置確認するが、全く違う位置に鎮座しているので、びっくりした思い出がある。やはり事前の位置確認は必要だ。
一般住宅が周囲に立ち並び、また社に隣接した東側には工場がある。こじんまりとした社という印象。
鳥居と正面参道。その先には社殿が鎮座する。
広瀬の地名由来について、『大麻生郷土史稿』に載る宝暦十一年(一七六一)七月二十六日名主市太夫の「村名・社寺・百姓書上げ」には、久安元乙丑年(一一四五)大和国広瀬郷河野村の広瀬郷右衛門という人が当地に移り住んだ。折しも長雨で荒川が増水し、広い瀬となっていたので、出身地をしのんで名付けたとある。
熊谷市のホームページ等で現在解説する地名由来としては、「瀬とは、川の流れが浅くて早いところの意味であるから、広瀬とは、川の流れが(ここでは荒川をさす)広く、浅く、はやいところのこと」との事だ。熊谷市広瀬地区は標高36m程度の沖積平野が広がるなだらかな地域でもある。「広瀬」の「広」は「平」とも読める為、地形上の名前としては適当であろう。
拝 殿
『風土記稿』には「浅間社 村の鎮守、村持、下同、山王社 天神社」と村内三社の記載がある。また『明細帳』には、大正二年に村社である浅間社に、山王社と天神社を合祀した記事が見られる。『大麻生郷土史稿』に載る宝暦十一年(一七六一)七月二十六日名主市太夫の「村名・社寺・百姓書上げ」には、この村内三社の創建を次のように記している。
浅間社は、承久元己卯年(一二一九)六月、駿河国より富士浅間大神を遷す。元文三戊午年(一七三八)地頭より富士浅間免の地、中田五畝二十二歩を寄附される。氏子は宿新田東で、別当は南光院である。
社殿の手前左側には広瀬浅間神社 富士塚がある(写真左・右)
社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。 富士塚の一角には石祠と天手長男神社の石標あり。
秋山寿蔵碑
秋山忠右衛門(1792-1882)は広瀬郷に生まれた教育者で、熊谷の寺小屋「玄染堂」にて学を修め、後に広瀬郷の名主となる。以後、地方自治に尽くし、その功績により年寄役を任じられ、苗字帯刀を許される。私塾を開き、門人360余名を数える。広瀬の浅間神社境内に、文久元年(1861)秋山忠右衛門が71歳の時に門人により建立された秋山寿蔵碑がある。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
【広瀬山王社】
・所在地 熊谷市広瀬字山王宮塚
・ご祭神 大山咋神(推定)
・社 格 不明
・例 祭 不明
広瀬山王社は広瀬洗顔神社から一旦国道140号バイパスをひろせ野鳥の森駅方向に西行する。「ひろせ野鳥の森駅入口」交差点のすぐ先にある「運動公園前」交差点を右折し、最初のT字路を左に曲がると、すぐに左右に曲がる路地にぶつかるので、そこは右に曲がる。舗装されているとはいえ道は細く、車両の交差時には注意が必要。左回りのイメージで進むと、こんもりとした社叢というより古墳のような林が見えてくる。因みにグーグル等道路地図には「日吉山王宮」などと記されていることもある。
周辺には駐車スペースは全くないので、北側に運動公園の駐車場があり、そこに停めてから徒歩で現場まで行く。
広瀬山王社遠景
広瀬山王社は「広瀬古墳群」の一つで、25mの円墳である「広瀬4号墳」とも呼ばれている。
〇広瀬古墳群と宮塚古墳
広瀬古墳群は、広瀬地区の妻沼低地、荒川左岸の自然堤防上に所在する古墳時代後期(終末期を含む)に造られた古墳群です。古墳群は大きく二群に分けられ、現在11基が確認されており、墳丘を残す古墳も多く見られます。
東の浅間神社の社が墳丘にのる古墳を含む2基と、西の宮塚古墳及びその周囲8基の古墳で構成される群に分かれますが、前者は東に占地する石原古墳群に続く古墳群としても見ることができます。
宮塚古墳は、全国的にも珍しい墳形の上円下方墳であり、一辺17~24mの方台の上に、直径8.5~10mの饅頭のような円形の墳丘がのる形で、その特異性から昭和31年に国指定史跡に指定されました。また、この古墳には埴輪の樹立が見られず、墳形の特徴からも古墳時代の終末期(飛鳥時代)の7世紀末~8世紀初頭頃に築造されたと考えられ、数ある熊谷の古墳の中でも最終段階の古墳と考えられています。上円部には河原石が散乱していることから葺石が葺かれていたと考えられるほか、その規模の小ささから横穴式石室ではなく、火葬骨を入れた蔵骨器を安置した石櫃のような埋葬施設が想定され、併せて、墳墓の規制がなされた大化2年(646)に制定されたいわゆる「大化の薄葬令」以降という時期であることも考えると大変興味深いものです。
*「くまがやねっと情報局」より引用
広瀬山王社入口にある鳥居 左回りに上がると社殿に到着する。
墳頂に鎮座する社殿 階段には至る所に川石等置かれている。
古墳築造時はどういう形態だったのだろう。
山王社は、山王宮塚という所に文亀元辛酉年(一五〇一)近江国滋賀郡坂本より遷す。氏子は高橋廓である。当初宮塚古墳に鎮座していたが、大正2年に広瀬浅間神社に合祀されている。当社は合祀された後に新たに祀り直したものと思われる。
ところで広瀬山王社から100m程西側には国指定史跡である「宮塚古墳」があり、南南西方向200m弱には「広瀬2号墳」も見える。
宮塚古墳 広瀬2号墳