古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大麻生赤城神社

            所在地 埼玉県熊谷市大麻生字下郷1098
            ・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
            ・社 格 旧村社 大麻生下郷鎮守
            ・例 祭 祈年祭 2月19日 例祭 4月19日 新嘗祭 12月16日
            *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。 
 大麻生赤城神社は埼玉県道47号深谷東松山線と国道140号秩父往還道が交わるT字路を左折する。埼玉県道47号深谷東松山線は荒川の北面左岸で「押切橋」陸橋となる為、陸橋手前の信号を斜め左側方向に曲がらなければ、国道140号秩父往還道にぶつからないので、そこは注意が必要だ。
 国道140号秩父往還道を広瀬方面に進み、大栄神社を左側に見ながら、尚も道なりに直進すると、「赤城山 正光禅寺」が左手に見え、その手前に隣接する大麻生赤城神社の鳥居が見えてくる。
 
駐車場は正光禅寺の駐車スペースを利用して、そこに停めて参拝を行う。
 
 国道沿いに鎮座する社で、社号標柱(写真左)が見え、その奥に鳥居(同右)が見える。
 参拝後に知ったことだが、大麻生赤城神社境内には、大麻生村の道路元標が設置されていたとの事。因みに道路元標とは、道路の起終点を示す標識で、明治44年(1911)に、現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、大正8年(1919)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていたという。
 
                        大黒天の石碑とその前にある杉(写真左・右)
                 大黒天の石碑右側には庚申塔が並ぶ。
 しめ縄の類であろうが、紙垂がない。風や雨によって落ちたものだろうか。因みにしめ縄に紙垂を飾る場合、何枚飾るのが良いのか以前調べてみたところ、通常4枚ほどだが、決して決まった枚数はないとの回答が多かったと記憶している。
        
               参道。神橋も途中に見える。
 大麻生の地名由来としては、「アソ」とは水の浅いところを指し、湿地の意味があり、荒川流域の低湿地から、この地名が生まれたと推測されている。「アソ」を漢字で「麻生」と書くのは当て字で、麻(アサ)が生えていたことに由来する地名ではないと考えられている。また大麻生は「オオアソ」と呼ぶ場合が多く、地元では「オアソ」とも呼んでいるようだ。
        
                                        拝 殿
○赤城神社(熊谷市大麻生一〇九八(大麻生字下郷))
 当社の創建は、棟札によると、寛文十三年(一六七三)に正光寺の僧風山(同寺四世の清厳文益和尚と推定)により行われたという。これにちなむ口碑に、僧風山が巡錫の途中、下野国河内郡(現宇都宮市)の二荒権現に詣で、その分霊を受けて寺の守護神として一社を営んだのが当社の始まりであるとの伝えがあるが、赤城神社と二荒権現とのかかわりについては明らかでない。『新編武蔵風土記稿』によると正光寺は禅宗臨済派、幡羅郡國済寺村の國済寺の末寺と記されている。当社は正光寺に隣接して建てられており、村の鎮守として祀られるようになってからも正光寺が神仏分離まで当社の祭祀をつかさどっていた。
 江戸時代の大麻生村は、上郷、中郷、下郷の三地区からなっており、それぞれに鎮守とする社が祀られていた。これらは、明治に入るといずれも村社となったため、大麻生の村内には村社が三社もできてしまった。そこで、政府の合祀政策に従って一村一社とすべく、各社の世話人が協議した結果、下郷の鎮守であり、大麻生全域に檀家を持つ正光寺と縁の深い当社に村内のすべての神社を統合することが決議された。しかし、結果的には上郷・中郷の住民の十分な理解を得ることができず、氏子区域内の藤木稲荷神社・天神社・五幣稲荷神社・大久保稲荷神社の四社を合祀したにとどまった。
 祭神は大己貴命と豊城入彦命で、本殿内には、創建時の棟札と天明二年(一七八二)の神祇管領調製の霊璽などが納められている。
                                   「埼玉の神社」より引用

 
       社号を記した扁額                本 殿
       
                社殿の奥に聳え立つご神木

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