古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原島伊奈利神社

 国道407号は、栃木県足利市から埼玉県入間市に至る一般国道で、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫していて、「妻沼バイパス」は埼玉県熊谷市妻沼から同市石原までの区間指定されている。妻沼から石原までの区間中、熊谷警察署前交差点では、東京都の日本橋と新潟県を結ぶ国道17号と交差し、直進すると秩父や山梨県に向かう国道140号(起点)に代わる。但し便宜上妻沼バイパスという名称が使用されることはあっても、国道407号線としては、最初からこちらが現道であり、バイパスという表現は正確ではなく、正式な標識にバイパスとは表記されていないようだ。
        
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所在地 熊谷市原島1331
             ・ご祭神 倉稲魂命
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             ・例 祭 初午祭 旧暦2月初午の日曜日 4月上旬 「オシシサマ」
 原島伊奈利神社はその熊谷警察署から妻沼に北上する国道407号線(妻沼バイパス)沿いにある家電センターを目印に直進し、「水道庁舎前」交差点を左折すると、すぐ先に原島伊奈利神社の鳥居や参道入口があり、参道の奥に社殿が鎮座している。
 冒頭に説明した国道407号線に関して、「熊谷警察署前」交差点は国道17号と国道140号、並びに国道407号の3つの国道が交わり、渋滞も常時頻発している場所だけに、良くも悪くも県北地域における重要な交差点でもある。
 社殿右隣には前原島自治会館兼社務所があり、そこには適当な駐車スペースがあるため、そこに駐車してから参拝を行った。
        
            道路の角地の一角に鎮座する原島伊奈利神社 
                 正面一の鳥居と社号標柱
 
        石製の一の鳥居              木製で朱色の二の鳥居
        
      二の鳥居の社号扁額には「正一位 村社 伊奈利神社」と書かれている。
 熊谷市のホームページ「熊谷市Web博物館」では「原島」の地名語源として以下の紹介をしている。
「原島」語源
埼玉県地名誌では、原島の「原(ハラ)」は原野の意味ではなくて、ハリ(墾)の転化であろう。シマ(島)は、村落の意味があり、つまり-開墾地(原)に居住すること(島)によってこの名が生じた。
アイヌ語(harasyumaハラシヌマ)で広い石原のことをさす。この地もかつて荒川の流域であり、広い河原であったのだろう。
江戸時代には、徳川氏の直轄地となり、この時代を通じ、旗本知行地として終始した。
        
                     拝 殿
新編武蔵風土記稿大里郡原島村条
「禅宗曹洞派福王寺、本尊毘沙門は熊谷次郎直実の女玉津留、千代津留姫二人の守本尊なりと云」
新編武蔵風土記稿大里郡代村条
古は原島と一村なりしが何の頃か別れしと云ふ。薬師堂の本尊は熊谷次郎直実の女玉津留守護仏なりしと云ふ。禅宗曹洞派東善寺は代島山と号す、開山叱洞長牛は慶長十七年寂せり」
 原島氏は在名にて現存していないようで、代島山は代島氏の開基にて、原島氏の本名は代島氏ではなかろうか。
 また「埼玉の神社」による伊奈利神社(原島)の由緒として以下の記載がある。
『風土記稿』原島村の項にも「三島社 小名今泉の鎮守なり、稲荷社 前原島の鎮守とす、天王社 窪ヶ谷戸の鎮守なり、天神社 以上四社吉祥寺の持」と記されているように、古来、原島には鎮守が三社あり、それぞれ別の廓(村組)の人々によって祀られてきた。当社は、右の文にあるように、前原島の鎮守であり、三社のうちで規模が最も大きく、氏子数も一番多かったことなどの理由から、明治六年九月には原島村の村社になっている。
 当社の由緒については、『明細帳』には「創立不詳」とあり、氏子の間にも創建にまつわる話は何も伝わっていない。ただし、本殿には、神璽と共に伏見稲荷から当社別当の吉祥寺に宛てた分霊証書が納められており、その日付が安永四年(一七七五)四月二十七日となっていることから、江戸時代の中期には既に現在のような姿で祀られていたものと推測される(以下略)。
 
    社殿の左側手前に鎮座する合祀社             本 殿
  左から神輿殿・荒神社・八幡神社・神輿
       
             社殿の左奥にあるご神木か(写真左・右)
 
      社殿裏の石祠がある。詳細は不明    社務所県集会所の奥には厳島神社(辨財天)あり。
        
                               稚蚕共同飼育場の建設記念碑
 郷土こぼれ話・伊奈利神社 原島 )というホームページを確認すると
祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と言い、稲の精霊が神様になったものです。五穀豊穣・商売繁昌・家内安全・養蚕繁昌等のご利益があると言われています」
初午祭は旧暦2月の初午に近い日曜日に行われ、繭の形をした御札や篠竹に繭玉の団子をつけたものが配られます。養蚕繁昌の
伊奈利神社願いの表れです。稲荷大神様が稲荷山に鎮座座されたのが初午の日だったと伝えられ、盛大に行われています」
 と記載されている。
 原島地区は養蚕の盛んな地でもあり、当地に隣接する社務所兼前原島自治会館は、元来稚蚕共同飼育所として昭和39年に建てられたものと建設記念碑には述べられている。

 一昔前の日本では養蚕が盛んで農家では現金収入が得られる副業として養蚕していた家があり、それゆえ蚕神の信仰があった。筆者の本家である深谷市横瀬地区でも数十年前は養蚕を行っていたと、実母から聞かされていた。昔の農家では屋根裏に蚕小屋を作って養蚕が行われていたが、ネズミによって蚕の卵や幼虫、さなぎ等が食べられてしまう被害が少なくなかったことからネズミの天敵である猫を飼って対策をしていたようだ。こうしたことから猫は蚕神の神使とされ、猫の絵が描かれた御札や絵馬を頒布する神社や狛犬ならぬ狛猫のある神社が現代にも残っている。
一方、蛇はというと白蛇は弁財天の神使として知られ、そして弁財天の神使である蛇がネズミを食べることから弁財天もまた養蚕の守護神とされているそうである。原島伊奈利神社に隣接する社務所県集会所の奥には厳島神社(辨財天)が鎮座しているが、その鎮座理由も養蚕と関係があるのだろうか。
                            

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