古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

篠津久伊豆神社

 埼玉県は河川が多い県である。利根川、荒川の二大河川が東西を貫き、その豊富な水量故に多数の支流が県下の隅々まで行きわたっている水の県である。ある統計調査によると県の全面積中で河川の占める割合(3.9%)が埼玉県は日本一で、湖沼や用水路などを含めた水辺の割合では滋賀県、茨城県、大阪府に次いで4番目となるそうだ。それ故か水辺に関連した地名も多数存在する。
 さて篠津の地名は『埼玉県地名誌』によれば、元荒川左岸、渡津より起こったものと考えられ、津は船着き場の意で、付近一帯に篠が生えていたため篠津と呼ばれたと考えられる。いわゆる水辺に関連した地名だ。江戸時代の篠津村は川越藩領の後、旗本領に属していた。明治22年に町村合併で誕生した篠津村は、野牛村、白岡村、寺塚村、高岩村が合併したものである。以後白岡町に合併するまでの65年間存続したという。                                               白岡市 ホームページ参照                                                                        

            
            ・所在地 埼玉県白岡市篠津1798
            ・ご祭神 天穂日命 大己貴命 大山祇命
            ・社 格 旧篠津村鎮守 旧村社
            ・例祭等 祈年祭 328日 春祭 329日 例大祭 4月中旬
                 二百十日祭 91日 秋祭(お日待ち) 1018日 他 
 篠津久伊豆神社は白岡市篠津地区に鎮座している。埼玉県道78号春日部菖蒲線を白岡市役所から久喜市方向に進み、途中篠津神山(東)交差点を右折し最初の交差点を左折する。T字路にぶつかるのでそこをまた右折し、しばらく進むと左側に「篠津久伊豆神社」の看板が見えるので、そこを左折すると突き当たりにその社が鎮座している。
            
                           篠津久伊豆神社正面
 篠津地域は、上宿・横宿・宿・中妻・下宿・神山・馬立の七つの耕地が耕地(地区)がある。当社の氏子区域は、この篠津の七つの耕地全域であり、当社の境内は、そのうちの中妻にあたる。また、篠津に隣接する西八丁目の住民のうち、上宿から分地した人々は当社の氏子であるともいう。近年の転入者の増加により、氏子数もかなりの数となっているが、戦前からの住民である氏子約四分の一は農家を続けており、地域の特産物である梨やぶどうなどを生産している。
 
     広々として手入れの行き届いた境内           鳥居を過ぎると左側にある案内板

  篠津の久伊豆神社と山車  所在地:南埼玉郡白岡町大字篠津
 久伊豆神社は、康治元年(1142)に建てられたと伝えられ、祭神として天穂日命、大己貴命、大山祗神が祀られている。
 現在の本殿・拝殿は、江戸時代末期に建造されたものと思われ、特に本殿四方に巡らされた「神功皇后三韓出兵」「天の岩戸」「飛龍に波」「鷲」などの彫物は、江戸伽藍彫刻の力作である。篠津地区は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社は、その守護神として崇敬されていた。また、この地区は江戸時代の日光街道(春日部宿)と中山道(鴻巣宿)を結ぶ街道の宿場として栄えたところであった。
 また、地区内の上宿、横宿、下宿、宿神山の各耕地には、それぞれ特徴ある山車が保存されており、この山車は江戸時代末期に製作されたもので、唐破風欅白木彫などその彫刻はすぐれている。これらの山車は、7月15日の天王様(須賀神社の祭礼)に飾り付けられ、今でも祭りを盛りあげる大きな役割を果たしている。                                                昭和58年8月 白岡市
                                                        案内板より引用
  篠津久伊豆神社が鎮座する篠津地域は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社はその守護神として崇拝された。またこの地域は江戸時代の日光街道と中山道を結ぶ街道の宿場町として栄えた場所であり、あるいは紅花の産地として篠津が反映し、その経済力を背景に当社の社殿が再建され、安政元年(1854)より5年の歳月をかけて本殿と拝殿が建設されたという。
           
                                拝 殿
 『新編武蔵風土記稿 篠津村』
 久伊豆社 村内の鎭守にて、眞福寺の持、下同じ、 雷電社 〇辨天社 青雲寺の持、下同じ、〇八幡社 〇諏訪社 〇愛宕九ヶ所明神合社 九ヶ所の祭神は詳かならず、〇妙見社 〇富士淺間社 青雲・眞福寺の持、〇稻荷社 村民持
 青雲寺 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、瑠璃山醫王院と號す、世代の内慶秀明暦三年四月寂すとのみ傳へ、この以前のことを傳へず、本尊不動、 藥師堂 藥師は丈二尺餘、行基の作、 太子堂 門前にあり、鐘楼 享保中鑄造の鐘を懸く、○眞福寺 同末、竹林山地藏院と號す、も世代の内賢譽、元祿二年正月二十二日示寂と云ひ、以前のことは傳へず、本尊大日、 姥神社 地藏堂

             
                                 本  殿
           
  重量感溢れる荘厳な本殿であり、また本殿の三面に飾られている彫刻は江戸伽藍彫刻の力作で、彫刻は天保13年(1842)生まれの立川音芳の作である。音吉は彦根藩家臣の家から江戸の仏師に養子となり、佐野の立川芳治の下で宮彫を習得した。その後、篠津久伊豆神社の彫刻を依頼され、当地に住むようになった。                                    
 
  社殿の奥には境内社が数多く祀られている。左側から稲荷大神社、諏訪大神社、榛名神社が並び(写真左)、その隣に(同右)左側から雷電宮・諏訪神社、八幡宮、八幡宮(写真では一基しか見えないが)が鎮座。
 
 また社殿の向かって右側には境内社、九ヶ所神社・疱瘡神社(写真左)、そして五穀大明神(同右)を祀っている。

  さて篠津久伊豆神社の境内に大きな富士塚があり、浅間神社が祀ってある。山崎浅間神社の項でも紹介したが、初山とは、赤ちゃんの額に初山の印を捺して、健康と長寿の願いを込め、疾病の退散を念じる行事で、毎年7月1日に富士山に見立てた小高い山にある浅間神社にお参りする初山祭りが行われるらしい。
           
                       境内南側に鎮座する浅間神社

 また境内の前に大きな山車倉庫があり、そこには「白岡町指定文化財第4号 篠津天王様の山車・宿耕地」と「白岡町指定文化財第5号 篠津天王様の山車・下宿耕地」と記された標柱がある。
           
                        篠津天王様の山車専用倉庫
 7月になると市内各地で疫病退散を願う夏祭りが行われる。中でも八雲神社(岡泉鷲神社・柴山諏訪八幡神社)、八坂神社(上野田・下野田)、須賀神社(篠津)、牛頭(ごず)天王社(白岡の新田地区)を祀る地域では、この夏祭りを「天王様」と呼んでいる。
 篠津の天王様では見事な彫刻の施された五台の山車が地区内を巡行する。山車は岡泉の天王様にも飾られる。上野田・下野田では、勇壮な神輿が耕地内を練り 歩き、疫病の退散を願う。白岡の新田地区や柴山では、オシッサマ(お獅子様)の一行が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡る。


 篠津久伊豆神社は、由緒等による武蔵七党、野与党発祥の地という歴史上の創建の古さと、その地域の守護神としての重さに社殿全体の荘厳さも加わり、参拝にも自ずから厳粛な面持ちとなった。近隣に鎮座している白岡八幡宮の女性的で優雅な白い社殿とは全く対照的で、参道正面の雰囲気はまさに男性的で重厚感がある。社正面から出ている社風というか漂う色が白岡八幡宮とは全く違うのだ。白を基調とした白岡八幡宮や境内にある真新しい神楽殿と比べること自体間違っているかもしれないが、白岡八幡宮の次にこの社を参拝したのだから自然と比較の対象となってしまった。
 しかし一旦正面参道から奥の本殿に向かうと雰囲気が変わる。本殿の彫刻から漂うのか、本殿全体から発する妖艶さからか、決して男性的なものではない。この社の本殿のそれは、大人の女性の熟成された色を感じた。
 「篠津」という地名は河川に関係した地名というが、個人的に「篠」には女性的な余韻を感じてしまう。勝手な個人の主観的感想と変な喩で恐縮だが。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」 「埼玉の神社」 「境内案内板」等
                   

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実ヶ谷久伊豆神社

 俗に地名はその土地の地形や地質、歴史などを表していて、日本人の姓とも深い関わりがあるという。筆者の考え方の根本的なスタンスとして地名の由来を考えることは、古文書等の文献資料、また考古学分野の発掘調査、さらに当時の地形考察の次に重要なコンテンツであり、それらを総合的に研究し、その結果、風土、歴史等がおぼろげながらイメージでき、いにしえに思いを馳せうる骨格の形成に欠かせないものであると考えている。
 そういう意味において昨今の市町村統合によって新しく誕生した地方自治体の新名称には、何の根拠でこのような名にしたのか理解に苦しむものも確かに存在する。出来ることならば古名、旧名は弄らず最低限残す努力もしていただきたい、そんなことを感じる今日この頃だ。

        
           ・所在地 埼玉県白岡市実ヶ谷5531
           ・ご祭神 大己貴命他四柱
           ・社 挌 旧実ヶ谷村鎮守 旧村社
           ・例祭等 例大祭 714  
 実ヶ谷久伊豆神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、同市役所西側に南北に縦断する東北自動車道に沿って走る埼玉県道362号蓮田白岡久喜線を500m程南下し、その先にあるY字路を左側、白岡パークライン合流後、1km程進んだ長閑な田畑風景が広がる先の左側に社の社叢林が見えてくる
 社の境内に入る路地が道路沿いに1カ所あるのだが、偶々ポールが立っていた為入ることが出来ず、参拝するためには一旦社を過ぎた先の十字路を左折し、社号標柱が建つ空間には車が1,2台分停めることができるスペースがあったので、そこに駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                          実ヶ谷久伊豆神社正面
          周囲一帯田園農地が広がる中にポツンと社は鎮座し、
     参道入口付近に建つ一の鳥居や社号標柱の遙か先に社叢林が見えている。
         
『日本歴史地名大系』 「実ヶ谷村」の解説
 旧日川を界して岡泉村の西に位置する。南は江ヶ崎村(現蓮田市)、西は黒浜村(現同上)。地形は大宮台地白岡支台の東端で標高は一一メートル前後、東部は旧日川の低地で微高地は自然堤防である。黒浜村境から村の北方を貫通する道は幸手道で、日光道中杉戸宿(現杉戸町)を経て幸手宿へ通ずる。また江ヶ崎村境から村の北方小久喜村境に至るのが岩槻道である。現日高市聖天院所蔵の応仁二年(一四六八)一一月九日の年紀を有する鰐口(県指定文化財)に「武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村」とみえる。鰐口は久伊豆神社に奉納されたもので、鬼窪郷「佐那賀谷村」は当地のこと。
            
              真っ直ぐな長い参道の先に建つ二の鳥居。この先が 境内・社叢の入口となっている。 
            
                             境内の様子
  この社が鎮座する「実ヶ谷」地域は白岡駅から南東方向で、白岡市役所からは丁度真南方向にある。因みに「実ヶ谷」と書いて「さながや」と読む。白岡市のホームページによればこの実ヶ谷地域は日勝地区に属し、村名の由来は不明であるが、『風土記稿』の久伊豆神社の記載によれば、古くから佐那賀谷(武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村)の名が見え、これが実ケ谷に転じたと考えらる。また、サナガヤのサナは昔の製鉄にちなむ地名といわれている。なまって「サナゲエ」とも呼ばれる。
 江戸時代の初期は岩槻藩領で、明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。この実ヶ谷地区の中央部に実ヶ谷久伊豆神社は鎮座している。            
 
   境内左側にある案内板と境内社。秋葉神社      案内板・秋葉神社の並びに祀られている八坂神社 
              
                                                               拝 殿
『新編武藏風土記稿 實ヶ谷村』
 久伊豆社 觀音の像を彫りたる圓徑一尺余の銅鏡ありしが、二十年以前失ひしと云 本地佛ねるべし、正德四年再建棟札の裏に、當社は嘉吉元年辛亥酉草創とあれど、社傳は詳ならず、されど高麗郡新堀村聖天院に藏する鰐口の表に、久伊豆御寶前云々、武州騎西郡鬼窪佐那賀谷村裏に、大工澁江滿五郞應仁二年十一月九日とあり、鬼窪の名は今傳へされど、佐那賀谷といひ旦久伊豆といへば、當社のものなるべして、舊きよりの勸請しるべし、聖天院に藏する所以は知らず、
 末社 稻荷 天王 疱瘡神 秋葉 別當 延命院 新義眞言宗岩槻彌勒寺の末、神光山と號す、本尊十一面觀音當寺近き頃、回祿にあひ寺傳を失へり、

 実ヶ谷久伊豆神社 白岡町大字実ケ谷字宮前
 実ケ谷久伊豆神社は、嘉吉元年(一四四一)の創建といわれる。祭神には大己貴命ほか四柱が祀られている。
 当社の由緒を伝えるものに、日高市聖天院の鰐口(県指定文化財)がある。この鰐口の表には「久伊豆御宝前 願主衛門五郎 武州崎西郡鬼窪佐那賀谷村」、裏には「大工渋江満五郎応仁二年戊子十一月九日」の銘がある。すなわち、この鰐口は願主の「衛門五郎」が応仁二年(一四六八)、渋江(現岩槻市)の鋳物師「満五郎」に造らせ、当社に奉納したものである。
 銘文中の「鬼窪」とは、武蔵七党の一つである野与党の有力者鬼窪氏の本拠地で、当町の大字小久喜・大字実ケ谷・大字白岡を中心とした地域が相当すると考えられている。(以下略)
                                                         境内案内板より引用

                         
                                 本 殿
 
                 社殿の右側に祀られている境内社・稲荷神社(写真左)
    その右側にある石祠は雷電神社・力石を挟んで一番右側に祀られているのは疱瘡神社(同右)             
            
                                                                 社殿からの風景
  境内は外側から見た社叢の印象に反して陽の光が入っていて思った以上に反していて明るかった。境内の右側、つまり東側には広い空間があり、ゲートボールなどができるように設置されていた。参拝した当日、近所のお年寄りの方たちが数多く集まってレクリエーションを楽しんでいたり、中にはお茶休憩をしていた方たちもいた。小春日和の何とも微笑ましい風景と静かな時間がこの社全体に漂っていた。



参考資料「新編む左飛風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
      「境内案内板」等

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白岡八幡宮

 埼玉県白岡市は、埼玉県の中東部に位置する人口5万1千人の都市である。関東平野の中央部に位置し、山地は無く、ほぼ平坦な地形であるが、市内は台地と低地が入り組んでおり、緩やかな勾配のある坂道も数多くも点在している。
 西側にある蓮田市と元荒川で境とし、市内を中川水系の小河川が複数縦断する。東部には白岡台地・慈恩寺台地が存在する。都心から40キロ圏内という恵まれた立地条件に位置し、交通の便もJR宇都宮線の白岡駅、新白岡駅、さらに東北自動車道久喜ICが近くにあり、恵 まれている。また、国道122号、県道さいたま・栗橋線が縦貫するとともに、県道春日部・菖蒲線が東西に通過し、重要交通機関の通過地点を呈している。
 白岡(しらおか)の地名の起こりには諸説あるが、一つは正福院貝塚の貝殻が元荒川方向から見ると、太陽の光で光輝いて見える岡という説。もう一つは白岡八幡宮の縁記の「平安時代の嘉祥2年(849)に慈覚大師が、この地に来て、八幡宮と正福院の阿弥陀薬師を祭祀した。その時大師の御前に3羽の白い鳩が舞い遊んだ。その様子をご覧になって、白鳩のすめる白い岡」により、白岡と命名した説がある。
                                   
            ・所在地 埼玉県白岡市白岡889
            ・ご祭神 仲哀天皇(正八幡宮) 応神天皇若宮) 神功皇后姫宮
            ・社 格 旧白岡村鎮守 旧村社
            ・例祭等 例大祭 3月第2日曜日  秋季大祭 10月第3日曜日         
 白岡市に鎮座する白岡八幡宮は白岡市駅から真西1㎞位の場所に鎮座している。実は筆者は数年前まで春日部市にある某会社に通勤していて、白岡市も通勤途中に通っており若干の地理はあった。(だが幹線道路だけで、抜け道などは全く分からなかったが)熊谷市から白岡市までは、国道17号バイパスから出発し、鴻巣市で合流。免許センターの先を左折してから笠原久伊豆神社手前の交差点を右折し、その後農道を真っ直ぐ進み柴山沼を越えるとT字路にぶつかり、埼玉県道3号線さいたま栗橋線と合流する。その交差点を右折し、駅入口交差点を左折し途中のY字路の左側方向に白岡八幡宮がある。しかし一方通行なので実際にはぐるっと左回り方向に遠回りに回らなければいけないので注意は必要だ。
         
                白岡八幡宮正面一の鳥居
        
                         「源義家駒止めの杉」の神木
 白岡八幡宮正面一の鳥居を進むと進行方向左手に、八幡太郎義家が奥州平定(1062年)の折戦勝祈願に立寄り、馬をつないだ木と伝えられている「源義家駒止めの杉」の神木、老木が大切に保存されている(写真左)。なんでも大正3年(1914年)と5年の(1916年)2度にわたる落雷によって倒れ、やむなく伐採されたが、現在は屋根を付けて保存している。
 また神木の並びには白岡八幡宮の案内板(写真左)、社叢ふるさとの丘の看板(同右)が掲げてある。
 
          白岡八幡宮の案内板                   社叢ふるさとの森の看板 
  白岡八幡宮    所在地 南埼玉郡白岡町大字白岡
 白岡八幡宮は、嘉祥2年(849)に建てられたものと伝えられ、祭神は応神天皇(正八幡)、仲哀天皇(若宮八幡)、神功皇后(姫宮八幡)である。
 当社に伝えられている略縁起には、康平5年(1062)源八幡太郎義家が奥州征討の途中、戦勝祈願のため立寄ったと記されており、また、建久6年(1195)征夷大将軍源頼朝は、当社に佐々木四郎高網を代参させ、土着武士の鬼窪某に命じて社殿を造立させるとともに、百余貫の所領を寄進し、源家の守護神としてあがめたと伝えられている。戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力により江戸、明治期にかけて徐々に復し、昭和45年に現在の社殿に改築した。当社には、享徳5年(1456)銘の鰐口が現存し、古い歴史を物語っている。
 境内には、樹齢600年といわれる榧の木があり、また、参道脇に保存されている杉の枯木は、義家が馬をつないだ木と伝えられ、当社の御神木となっている。
 昭和58年3月 白岡町                                             案内板より引用
                                                                                                                   
                          白岡八幡宮二の鳥居
             
                                         鳥居を過ぎたすぐ左手にある手水舎
             
                         参道右手に見える神楽殿
 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮、東京都江東区の富岡八幡宮と並び日本三岡八幡宮の一つとされ、鎌倉幕府の初代征夷大将軍であった源頼朝も参拝している。この白岡八幡神社は、縁起によれば嘉承2年(849)慈覚大師円仁の草創とされ、源義家が1062年(康平5年)奥州征伐のときに戦勝祈願に参拝した記録が新選武蔵風土記稿に伝えられている。その後建久6年 (1195)、源義家に倣って源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという。 
 また2009年(平成21年)12月には、境内の白岡天満神社に東京都文京区の湯島天満宮から分霊がなされ、遷座式が行われた。 湯島天満宮の御分霊が遷座しているのは、全国で長野県長野市の湯島天満宮信濃分社と当社のみである。
               
                                                                     拝 殿
 社殿全体が白壁の白色を基調としていて、朱の欄干との配色が非常にオシャレで一種女性的でもあり、洗練された美しさを漂わせている。この拝殿は元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年に改修され、現在の社殿は昭和45(1970)年に改築されたものだそうだ。
『新編武藏風土記稿 白岡村』
 此佐那賀谷は今も實ヶ谷と書きて近村なり、然れば此邊すべて古は鬼窪鄕といひしならん、今隣村小久喜村に鬼窪氏の人あり、故に鬼窪のことは彼村につきて見るべし、又白岡の名も古きことにて、當國七黨の内野與黨の人に、南鬼窪小七郎行親の孫太郎兵衛尉親家の四男を、白岡禪師澄意と云、これ當所に住せしものならん、(中略)
 八幡社 村の鎭守なり、正八幡若宮・八幡宮・八幡の三座を勸請せり、社傳に云、當社は建久六年右大將賴朝の命によりて、鬼窪某奉行して造立し、この邊にて百餘貫の社領を寄附ありしが、永享年中當郡新堀の城主、佐々木某社領を沒收し、篠津・白岡村のにて、總に十二貫文の地を寄附せしが、是も戰爭のころ次第に衰へ、いつしか失せりと云、按に鬼窪氏は此邊に由緖ある人なれば、當社を草創せしはさもあらん、佐々木のことは新堀村の條合せみるべし、また今も社頭に享德年中鰐口あれば、かたゞ舊社なることは疑ふべからず、鰐口の圖上のごとし、圓徑九寸七分、
 神馬社 昔し神馬を繋置し厩ありしかば其跡へ社を建しと云、神樂殿 鐘樓 延寶三年鑄造の鐘なり、
 別當正福院 新義眞言宗、ヶ崎村吉祥院末、白岡村西光寺杉本坊と號す、本尊藥師は慈覺大師の作なり、寺傳に當寺は嘉祥二年慈覺大師の草創にて天台宗なりしが、建久年中八幡社造立のとき改宗せりと云、されど古は藥師堂と唱へしものと見えて、今も天文年中綱繁と云人よりあたへし寄附狀を藏せり、其文左のごとし、
   白岡藥師堂免壹貫二百文之所領奇符候、於自今以後者不可有相違候仍如件、
    天文十七年戊申六月朔日   綱繁花押
 太子堂 山王社 鐘樓 延享四年鑄造鐘なり、


 八幡神社  白岡町白岡八八九(白岡字茶屋)
 白岡の八幡様」として名高い当社は、『八幡宮縁起』や『八幡宮来由』によれば、慈覚大師が仁明天皇の御宇に霊場草創の勅を蒙って東国に下向し、当地にて加持を行った際、正八幡宮・若宮・姫宮の三神と本地仏である阿弥陀仏・薬師の二尊が出現したことに感得して神宮を建立したことに始まるという。時に嘉祥二年(849)、併せえて白岡山西光寺正福院という一寺を建立して当社の別当とした。降って康平五年(1062)、源義家は欧州征伐に際し当社へ参詣し、ひたすらに勝利を祈願したお陰で平定を終えることができたとして帰陣の際に当社へお礼参りをした。
以来、武州の白岡、仙台の亀岡、鎌倉の鶴岡の八幡宮は「三岡」と唱え、源氏の守護神として厚く信仰されるに至ったと伝え、建久六年には源頼朝も佐々木四郎高綱を代参として遣わし所領百貫文と神馬を奉納した。
                                                                                                                             「埼玉の神社」より引用

                             
                                                                   本 殿
  拝殿、幣殿、本殿が一体化した権現造りで、拝殿が白をベースにした女性的な建築方法に対して、
             幣殿、本殿は木目調で荘厳さと妖艶な美しさを醸し出している。
 
   白岡八幡神社の社殿の奥には立派で数多くの境内社が鎮座している。
 
     社殿右手に祀られている神馬神社              神馬神社の右側奥にある鐘楼           
            
                                                 白岡天満神社
            
                         左から日枝神社・三峯神社
            
                     左から猿田彦社(石祠二基)・稲荷神社
  社殿と神楽殿の間に大きな樹木があり、白岡八幡宮のご神木であり、白岡町指定天然記念物でもある樹齢約六〇〇年といわれる「カヤの木」がある。カヤの木は関東において数少ない銘木といわれているが、白岡八幡宮のカヤの木は目通り4.7m、樹高31mの堂々たる大樹で、まさにご神木にふさわしい威容が漂っている。
                                   
                                        白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のカヤ

 また鳥居の道を隔てた向かい側に「イヌザクラ」がある。別名「シロザクラ」。樹齢300年と言われ、幹回り3m、樹高は18mと近隣にはない巨木だ。このイヌザクラも白岡市指定天然記念物に指定されている。
                                   
                                      白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のイヌザクラ
  白岡町八幡神社社叢ふるさとの森   昭和56年4月4日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「ふるさとの森」に指定されました。八幡神社は、平安時代に創建された由緒ある神社で、古くから町の人々に親しまれてきました。
 境内には、町天然記念物のカヤノキ・ウワミズザクラも生育しています。林相としては、主に、ケヤキ・スギ・モウソウチクなどから構成されています。
 昭和58年3月 埼玉県                                         案内板説明文より引用
 白岡八幡宮は由緒ある古社であるので、境内にはその他数多くの文化財や見どころがある。白岡市指定文化財では「白幡八幡宮棟札」と「鬼窪八幡宮鰐口」の2点。「白岡八幡宮棟札」の棟札は3札あるそうで、元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年が現存しているそうだ。
 また「鬼窪八幡宮鰐口」は拝殿の前面軒下に吊るし、参拝者の前に下がっている綱を打ち鳴らして参拝に来意を告げるための道具で、この鰐口は江戸時代に土中より堀り起こされたものと言われている。鰐口の銘文から享徳五年、康正二年に後南朝最期の主である聖秀尊(別名自天王)によって奉納されたものであることがわかっている。この白岡の地に後南朝、特に非業の最期を遂げた悲運の主である自天王との関係を窺わせる文化財が存在するとは考えもしなかった。後南朝と何らかの関係があってこの地に奉納されたのだろう。
 南北朝時代、上州の新田義貞、その息子義興、義宗を始め、多くの南朝方の武将らが関東地方で足利氏の北朝方の武将と合戦を繰り広げた。武蔵国東部でも南朝方の武将で有名なのが春日部重行で、新田義貞が挙兵に参陣し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。鎌倉攻略で戦果を上げ、春日部郷の地頭職を安堵されたように、新田氏傘下の有力武将であり、この春日部と白岡は近郊であることから、南朝側の土壌が少なからず存在している地方ではなかったろうだろうか。

 またこの白岡八幡宮は「鬼窪八幡宮鰐口」の銘に1456(享徳5)年「鬼窪八幡宮」と書かれていて、武蔵七党の一派である野与党から鬼窪氏が住み着いて、この地を「「鬼窪」と名付けたが、その後天文十七年(1548年)武州文書に白岡薬師堂と書かれている所から、ある時期かそれ以前に「白岡」に改名されたことは確かだ。このことは「埼玉苗字辞典」にも以下の記述があるので引用する。
 
 白岡
 埼玉郡白岡村あり、八幡社享徳五年鰐口銘に鬼窪八幡宮と見え、天文十七年武州文書に白岡薬師堂(八幡社別当正福院)と見ゆ。足立郡白岡村(大宮市)あり、御蔵村となる。
一 野与党白岡氏 埼玉郡鬼窪郷白岡村より起る。武蔵七党系図に「南鬼窪小四郎行親(源平之戦、奉頼朝)―親頼―親家―白岡禅師澄意」あり。下高野村永福寺伝(旧阿弥陀寺)に「寿永二年、阿弥陀寺帰依檀那、野与一党、多名・鬼窪、白岡・渋江等面々、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等と謀議し、一用上人を阿弥陀寺に請ひ止める」と見ゆ。鬼窪氏は、澄意以前に白岡氏を称す。
二 埼玉郡白岡村 白川家門人帳に「明治二年白岡村八幡宮神主白岡祝」。明治三十二年八幡社神主白岡瑞枝あり。八幡社附近に七戸現存す。                           「埼玉苗字辞典」より引用
                                                                                                                                                     
                                                                                               

 

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