古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

阿久津稲荷神社

 阿久津の獅子舞 市指定重要無形民俗文化財
 指定年月日 昭和50108
       合併に伴い、平成17328日に改めて新市の文化財として指定されました。
 阿久津稲荷神社の創建については、明らかではありませんが、かつては阿久津荒久の「元地」というところにありました。しかし、度重なる洪水のため元和の頃に阿久津村が数戸を残して荒久から現在地に移転をした際に、隣接する正光寺とともに現在地へ移されたと伝えられています。
 この獅子舞の起源は、江戸時代初期から行われていたのではないかといわれています。当初は、毎年111819日の両日、稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納されています。夜、社殿の前庭にかがり火を焚き、三頭の獅子が五穀豊穣、悪疫退散を祈りながら舞います。笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら舞う姿は、勇壮です。
 獅子舞を演じる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていましたが、最近はそうした制約はゆるめられています。

                                     太田市HPより引用
        
               
・所在地 群馬県太田市阿久津町1021
               ・ご祭神 稲倉魂命 八意思兼命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 「阿久津の獅子舞」11月18日・19日
      地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu

 堀口賀茂神社から一旦埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線に合流し、旧尾島町市街地方向に北上する。県道142号綿貫篠塚線との交点にある「尾島一丁目」交差点を右折するとすぐ左側に阿久津稲荷神社が見えてくる。
 県道沿いに鎮座する社で、交通量も多く、更に鳥居が道路並びにあるため、アングル的に県道に入って撮影しなければ、正面撮影はできないため、そこは断念した。
 東隣には、新四国88ヵ所霊場の第1番札所である正光寺があり、そこの駐車スペースを利用して参拝を開始した。
              
                 鳥居の傍に立つ社号標柱
 鎮座地名は「阿久津」。この阿久津という地名を調べてみると、川沿いなどの「低湿地」を古代日本語では「あくつ」と呼び地名になったとされ、地形が大きく関連していると云われる。川沿いの場所は低い地なので、川が洪水を引き起こすと”あくつ”に豊富な水が供給されるため、作物の栽培に適地とされたため、集落が形成されたとされる
 この「あくつ」は漢字に代えると「悪+戸」⇒「悪+津」⇒「阿久津」に時代が下るにつれて変換される地域が多いが、「圷」の一文字で「あくつ」と表記され、現在も残されている地域(茨城県を中心に多く存在)もある。この「悪戸」は洪水が起きやすい「悪い土地」という意味が語源とされ、実際悪戸という地名が嘗てあった地は、蛇行する川の周辺を指す地域がほぼ全てである。
 関東地方の北部では、窪地のことを「あくつ」といい、これに由来する名字で、「阿久津」「安久津」「圷」「堆」などと書かれる場合もある。
 
街中に鎮座しているためか、境内の規模は決して   短い参道の左側に設置された石碑等。
大きくはなく、鳥居を越えるとすぐ拝殿が見える。
        
                     拝 殿
        
           境内に設置されている「阿久津の獅子舞」の案内板
 阿久津の獅子舞 市指定重要無形民俗文化財
 指定年月日   昭和50108
 阿久津稲荷神社の創建については、明らかではありませんが、かつては阿久津荒久の「元地」というところにありました。しかし、度重なる洪水のため元和の頃に阿久津村が数戸を残して荒久から現在地に移転をした際に、隣接する正光寺とともに現在地へ移されたと伝えられています。
この獅子舞の起源は、江戸時代初期から行われていたのではないかといわれています。当初は、毎年111819日の両日、稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納されています。
 夜、社殿の前庭にかがり火を焚き、三頭の獅子が五穀豊穣、悪疫退散を祈りながら舞います。笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら舞う姿は、勇壮です。
 獅子舞を演じる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていましたが、最近はそうした制約はゆるめられています(以下略)。
                                      案内板より引用

        
               拝殿部の彫刻は「明治の左甚五郎」と称された高澤改之助のもの。
            逆光の為、上手く撮影できなかったのが残念。
 
                 「向拝木鼻」の龍(写真左・右)
 
                     精巧に彫刻された「海老虹梁」部位(写真左・右)
        
                     本 殿
                本殿彫師は「武州玉井村」出身の小林丑五郎正路、他三名。
 残念ながら筆者は江戸時代における寺社の彫刻技術に関してあまり詳しくないが、目の前の現物を実見すると、やはりすごい迫力と技術力の高さを感じる。
 日本人は昔から箸を使ったり、漢字を書いたり、生活の中で手先を使う等が多く、その生活スタイルが日々定着しているからこそ、他の民族より手先が器用で繊細な作業もできると云われてきた。
 日本は「ものつくり大国・技術大国」といわれている。この世界に誇る日本の技術は一朝一夕に築かれたものではない。蓄積された日本人の持つ美意識、忍耐力、手先の器用さ、そしてきめ細やかな配慮等、長い歴史の中で育んできた国民性があるからこそ成し得た最高の技術は、日本の強みでありアイデンティティでもあると思う。
 この素晴らしい彫刻技術を見ていると、世界の趨勢が「AIロボット」が作り出す超合理化された社会に変革しようとする流れに対して、それでも変えてはいけないものもある!と無言で語り掛けてくるようにも思えた。
        
                          県道沿いに鎮座する
阿久津稲荷神社


参考資料「太田市HP」「太田市観光協会HP」「Wikipedia」等

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