古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

羽生神明社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市中央432
              ・ご祭神 大日孁貴命
              ・例祭等 大祭 417
 羽生八雲神社の右隣りに並立して社殿が建っている羽生神明社は、一見社の敷地内に鎮座しているのでどちらかの境内社のように見えるが、それぞれに独立した社である。安政3年(1856)、羽生領74ヶ村が協議のうえ伊勢神宮を勧請して現・羽生市中央公民館の地に創建され、昭和25年(1950)に現在地へと遷座したという経緯がある。
 現在の氏子区域は社の鎮座する上町のみ。神社運営は上町委員会の手によって行われ、隣接する八雲神社の役員と重任しているという。
        
            羽生八雲神社の境内に鎮座する羽生神明社
         境内は子供の遊具やベンチ等もあり、小さな公園ともいえ、
         まさに羽生在住の方々にとって憩いの空間ともなっている。 
       
                羽生神明社 両宮遙拝所
 神明社  羽生市中央四-三(羽生字街並)
 当地は『風土記稿』に「町場町は馬次の地にして、行田市・騎西町、下総国古河道・上大越村、上野国舘林・道上新郷及加須村、同国邑楽郡川俣村等へ人馬を継送れり、宿駅をなせし所は村の中腹にて、長二十三町余、路幅七八間、民戸二百四十、毎月四九の日市を立て、木綿類を鬻(ひさ)げり、江戸よりの行程十六里、太田庄に属す、当村は羽生領の本郷にして、昔城下町として発展し、町場村と称していた。また、当時は七四ヵ村の本郷であったことが知られる。
 祭神は大日孁貴命である。創立は『明細帳』に「安政三辰年九月羽生領七十四ヶ村協議ノ上郷中安全ノタメ伊勢神宮ノ御分霊ヲ勧請ス」と記す。また、昭和三年の『神明社修理之碑』の一節に「茲に今を去る七十余年前我が郷の篤志者十二名月参講を組織して、深く大神宮を崇敬し、遂に近く此に其の御威霊を仰ぎ奉るに至れり」とある。
 昭和二五年、境内が手狭なため、八雲神社敷地の現在地に移転した。旧社地には現在中央公民館が建っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                両宮遙拝所内部の社号額
「御師(おし、おんし)」とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣する者や信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった。
 江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達し、例えば伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の講(伊勢講)の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図ったらしい。
 その後、明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、御師側はこうした動きに抗議したものの、明治4年(1871年)7月には御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入され、御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになったという。 
        
       並立して鎮座している間に孤高に聳え立つ巨木。ご神木ともいえよう。

 江戸中期から後期にかけて、伊勢の御師(おんし)による檀回(だんかい)が盛んになり、各地で伊勢参りの信仰が高まってきた。このような中で、当地では伊勢神宮の分社を祀ろうとの気運が高まり、羽生領七十四ヵ村の檀那衆合議の上、分霊を受け、両宮遙拝所として祀ったものであ る。
 鎮座祭の折には、伊勢の神主により霊代(みたましろ)が奉じられ、荘厳な祭典が執行されたと伝え、以来明治維新のころまで、毎年伊勢の御師が来て奉仕した。
 その後、祭祀は途絶え、社殿は荒廃を見るに至ったが、昭和初め、町民有志が敬神愛郷の念を振起して、社殿の修復と境域の整備事業を行ったという。


参考資料「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」等
 

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