小針日枝神社
出土した地層の遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1,400年から3,000年前のものと推定されたため、「古代蓮」と呼ばれるようになった。古代蓮の里は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。
この「古代蓮の里」の北側にひっそりと鎮座しているのが小針日枝神社である。筆者も嘗て鴻巣市の事業所で勤務していた関係で、この「古代蓮の里」には何度も利用させて頂いたが、そのすぐ北側にこのような不思議な雰囲気のある社が鎮座しているとは全く知らなかった。まさに『灯台下暗し』とはこのことだろう。
この社に参拝する際にまず、その失礼をお詫びしてから、神妙な面持ちで境内に入らせて頂いた次第だ。
・所在地 埼玉県行田市小針1990
・ご祭神 大山咋命
・社 格 旧村社
・例祭等
埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を右折し、同県道364号上新郷埼玉線を南下すると、左手前方に「古代蓮の里」が見えてくる。その手前にある押しボタン式信号のある十字路を左折し、200m程進んだ先の十字路を右折すると右手に小針日枝神社が見えてくる。前項で紹介した下須戸八坂神社の南方で、直線距離にして1.5km程の場所に鎮座している。
社の北側に隣接している「小針自治会集会所」に車を止めてから参拝を行う。
小針日枝神社正面
『日本歴史地名大系』には「小針村」の解説が載っている。全文紹介する。
[現在地名]行田市小針
加須低地西端の洪積層微高地に接する沖積低地にあり、北は若小玉村、東は見沼代用水を隔てて下須戸・藤間の二村。「是より西、忍領」の封標が下総・常陸へ通じる幸手道にあった。
約一千四〇〇年前の実から発芽した、いわゆる「行田ハス」(豊田清修氏による古代蓮)は当地で発見された。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末に至る。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高四六九石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じで、反別は田方一五町九反余・畑方四七町四反余。享保一三年(一七二八)埼玉沼を干拓した持添新田三三八石余は初め幕府領であったが(郡村誌)、明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領になった(松平藩日記)。
『小針』という地名は「開墾地」を意味するらしい。その昔、星川と忍川に挟まれた後背湿地に位置する旧小針村は、忍藩諸村(埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村)の悪水溜井となっていて、恒常的な排水不良に悩まされていたという。
境内の風景
小針日枝神社は加須低地西端の沖積低地内に位置し、四方を水田に囲まれて鎮座している。嘗て当社境内の南側には小針沼という大きな沼が広がっており、この沼は古くには尾崎沼と称されていた縦約10町(約1090m)・横16町(約1745m)・面積約50町(約49.6ha)の沼地であり、星川と忍川に挟まれた後背湿地として埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村にまたがり所在していた。この当時は忍藩諸村の悪水溜井となっていた。後に小針沼(こばりぬま)と呼ばれていたが1696年(元禄9年)に小針村と埼玉村との間で沼の名称問題が発生し、幕府の裁許によって埼玉沼へと改められたと伝えられている。
その後1728年(享保13年)になると、幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛と埼玉村・小針村・若小玉村・長野村の4村の住民らにより新田開発が行われた。沼の中央に排水路として小針落が開削され、小針落は旧忍川を伏せ越し野通川へと至る流路形態となっている。また、沼の北側には長野落が附廻堀として整備され、当初は見沼代用水へと至る流路となっていたが、後に旧忍川を伏せ越し、野通川へ流入する流路へと付け替えられている。
しかし水はけがあまり良くなく、たびたび水害が発生していたため、1754年(宝暦4年)に新田の中央部に南北に貫く380間(約691m)の中堤(なかつづみ)と称する堤防が設置され、堤防の東側の下沼(したぬま)は耕地として利用され、西側の上沼(うわぬま)は元の沼地のようになった。堤防の設置により、水害は減少した。その後、沼地に戻されていた上沼において再び開田計画が起り、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、約27haの「昭和田(しょうわでん)」と称される水田となった。
今日の埼玉沼は古代蓮の里や埼玉県行田浄水場、圃場整備事業のなされた通常の水田などに整備され、かつての沼地の面影はあまり残されていなく、埼玉県行田浄水場と古代蓮の里との間に位置している県道上新郷埼玉線は380間(約691m)の堤防の名残である。現在では名称について再び小針沼とも称されている。
鳥居正面左側には幾多の石碑・石祠があり、右側の石碑の奥には境内社も祀られている。
「明細帳」によると、境内社として八坂神社と前玉神社があったが、現在は本殿に合祀されている。明治五年に村社となり、同四〇年に字星川と字本郷からそれぞれ御嶽神社を合祀したが、これらは前出の蔵王権現社であり、星川の旧社地を「ゾウ様屋敷」と呼ぶのがその名残である。更に同年字大沼(弁天)の厳島社、字沼通の宇賀社を合祀したというので、そのうちの一社であろうが、詳細は不明だ。
石祠・石碑等の並びに鎮座する境内社。 その境内社の右側には庚申搭等も祀られている。
拝 殿
行田の神々25 日枝神社(小針)
古代蓮の里のすぐ北側に鎮座している日枝神社の創建については明らかでなく、『新編武蔵風土記稿』では、村内の鎮守としては蔵王権現二社が載せられています。
主祭神は、大山咋命で、この神は、最澄の開いた天台宗延暦寺のある比叡山の麓の日吉大社、京都嵐山に近い松尾大社の祭られている神として知られています。
神々の系譜上この大山咋命は、スサノオノミコトの子の大年(おおとし)神が天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生まれた子の一人で、別の名前を山末之大主(やますえのおおぬしのかみ)と称しています。
大山咋命の神名の意味は、大と山咋に分け、偉大な山の境界の棒の意味で、山頂の境界を示す棒くいを神格化したもの。また、別名の山末之大主は山の頂上の偉大な主人の神の意味であるといわれています。
小針の当社は縁結びの神として信仰をあつめていますが、神社に伝わる話では、鴻巣市三ツ木の山王社(現在の三ツ木神社)は当社から分社したもので、当社が男の神様、三ツ木の山王社が女の神様であり、女性が良き男性を探す時は当社に、男性が良き女性を探す時は三ツ木の山王社に祈願すると良縁が成就するといわれています。
また昭和初期まで行われた当社の例大祭の行事である「浮かし灯籠」は、神社の西に広がる上沼、(現在の県営浄水場)に、枠灯籠一千基を浮すもので実に壮観であったといいます。
主祭神が大山咋命である小針日枝神社の創始に関わる史料がなく不詳とされ、「新編武蔵風土記稿」にも「蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり、一つは大福寺持、一は神仙寺持」とあり当社は載せていない。口碑には鴻巣市三ツ木の山王社を当社から分霊したことが伝えられているだけで、おそらく旧くから鎮座していたと考えられているが、それ以外の詳細は分かっていない。
因みに拝殿の手前右側には、既に何かしらの原因で倒木してしまった巨木が幹部分を屋根で覆い保存されている。「埼玉の神社」に記されている「舟つきの松」であろうか。
本 殿
本殿の両側には狛犬ならぬ「狛猿」が設置されている。日枝神社の神使は「猿」であるためであろうが、考えてみると鳥居から境内に入り、拝殿に至るまで、狛犬等は存在していなかった。どちらにしてもこのような配置は珍しい。
本殿に描かれている見事な彫刻(写真左・右)
小針日枝神社の南側には「古代蓮の里」公園の豊かな林が一面に広がる。
行田市小針地域には、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展した「ムラ」の遺跡である『小針遺跡』が発掘されている。
当遺跡は、埼玉古墳群東南2km程離れた旧忍川を望む台地辺にあり、行田市一帯のなかでも拠点的な「ムラ」であると考えられ、「ムラ」が展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模な「ムラ」の存在があったという。
この小針遺跡から出土したものには平安時代頃の「紡錘車」がある。紡錘車は「ぼうすいしゃ」と読み、糸を紡ぐ道具であり、日本では弥生時代から紡錘車が使われはじめた。紡錘車は、糸紡ぎだけではなく、祈りや呪いをするまつりの場でも使われていたようで、他にも文章や絵などが刻まれた紡錘車などが遺跡から出土することがあるという。
ところで小針遺跡から出土した平安時代頃の紡錘車は、直径約4.5㎝の円すい台形で、蛇紋岩という石でできていて、側面には「丈部鳥麻呂(はせつかべのとりまろ)」という名前が刻まれていた。「丈部」は、地方から出向き、古代に朝廷の警備などをした部民という。おそらくこの地域で暮らしていた豪族の1人だったのではないだろうかと考えられている。
さきたま古墳群の埋葬者の特定も今だに解明されていない中、発掘によりこのような人物の固有名詞が突如登場した珍しいケースだ。今まで土器や住居跡の出土・検出によって、そこに確かに人間がいたことは分かっていた。但しあくまで「人々・集団」等であり、名前を持たない人々・集団であった。
ところが、小針遺跡から丈部鳥麻呂という人名が発掘された。これは歴史学的にも考古学的にも新たな視点を与える史料となる可能性は大きい。
さて丈部鳥麻呂なる人物はどのような出自、性格で、家族構成は、年齢等はこの発掘のみでは分かる由もないが、この鳥麻呂を始め、人々がこの地でどのような営みをしてきたのだろうかと、筆者の想像力がますます膨らみそうな人物であることは確かなようだ。
またこの紡錘車に人名を刻んだ人物は(当人か、第三者だったかは分からないが)、どのような願い・思いをかけていたのであろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「行田の神々HP」
「行田市郷土博物館 案内板」「古代蓮の里HP」「Wikipedia」等