古池鹿嶋神社
・所在地 埼玉県入間郡越生町古池122
・ご祭神 武甕槌神
・社 格 旧古池村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9886704,139.278032,16z?hl=ja&entry=ttu
瀬戸元下雷電神社から一旦東行して、埼玉県道30号飯能寄居線に達した後右折し、同県道を1.6㎞程南下すると、進行方向右手に古池鹿嶋神社が見えてくる。但し県道からは目視できるが、正面の鳥居が道に面してなく、加えて道路に対して鳥居が横を向いている配置であるため、注意していないとそのまま通り過ぎてしまう恐れもある。まあ昔と違い、現在は車両にナビが標準装備されているのでその点は安心なのだが。
県道から南側に鎮座する古池鹿嶋神社
『日本歴史地名大系』 「古池村」の解説
[現在地名]越生町古池
鹿下(かのした)村の北西、越辺川支流の渋沢川上流域にある山間村。中世は入西郡越生郷の内。近世は比企郡に属した。地内に小字名田代があり、文安三年(一四四六)三月九日の吾那憲光寄進状写(武州文書)に「入西郡越生郷恒弘名之内田代村」とみえ、田代村内菊万在家の土貢八〇〇文と中嶋在家田畠土貢八〇〇文(計一貫六〇〇文)を吾那堀之内(あがなほりのうち)釈迦堂に寄進している。
一の鳥居の先にある手水舎と社号標柱
一の鳥居から手水舎辺りまでは真っ直ぐな参道だが、そこから左側方向に直角に曲がり、二の鳥居、社殿に向かう配置となっている。
古池鹿嶋神社二の鳥居
埼玉県入間郡越生町古池地域は、同町最北端に位置し、嘗て『新編武蔵風土記稿 古池村』において、「比企郡」に属していた。この地域名の由来として『同風土記稿』では、「土人の說に昔村内に大なる池ありし故に、村名となれり云」といい、地形から名付けられた地域名であったようだ。
拝 殿
拝殿に掲げてある扁額 拝殿向拝部・木鼻部等の見事な彫刻
古池鹿嶋神社の創建年代や由緒等は不明で、『新編武蔵風土記稿』においても「鹿嶋明神社 村の鎭守なり、昌福寺持」としか記されていない。但し、社殿の左側には「要石」があり、この地域の伝承・伝説では、越生町古池地域には昔大きな池があり、大鰻(おおうなぎ)が住んでいて、鰻が暴れると地震が起こると言われた。村人は池に地震の神である鹿島様を祀り、要石を置いて鰻を鎮めたという(写真左・右)
巨石群とご神木の間に「要石」と刻まれた標柱はあるのだが、どれが要石なのか、それともこの巨石全体で要石と為しているのかが全く分からなかった。
境内社・壱岐天手長男神社
要石に隣接して聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
『新編武蔵風土記稿 古池村』によると、古池村内には小名「田代」があり、比企郡古池村字田代と入間郡堂山村字田代河原(越生町)は昔一村にて古の村名であったという。
『新編武蔵風土記稿 古池村』
「小名 田代
此処住昔は古池村と、自づから別村にてありしにや、入間郡堂山村最勝寺に藏する、文安三年吾那左衛門尉が、釋迦堂領寄附の文に、入西郡越生鄕、恒弘名之内田代村、菊間在家土貢八百文と見ゆ、又同寺の藏永錄三年、太田美濃守資正があたへし制札の末に、岩崎上殿分田代大間富澤山田分と載たり、是悉く此邊の地名にして、千代田記せしは全當所ならん、上殿と云は其地詳ならざれど、郡中大附村の小流に上殿川と云あれば、其邊を云しならん、餘はいづれも近村の地名、及び小名に殘りて今に在せり、されば文安の頃は、當所も左衛門尉憲光、永錄に至ては美濃守資正が領にして、田代の唱へ古きこと知らる」
『同風土記稿 堂山村』
「小名 田代河原
東北の方にあり、下に載たる文安三年吾那憲光が出せし釋迦堂領寄進狀に武蔵國入西郡越生鄕恒弘名之内、田代村菊萬在家出貢八百文とあるは、恐くは當所のことにして、昔は村とも唱へしならん。又永錄三年太田美濃守資正が出せし制札にも見えたり」
一の鳥居からご神木を望む。
室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称され、曲直瀬道三・永田徳本等と並んで日本における中医学の中興の祖である「田代 三喜(たしろ さんき)」は、寛正6年(1465)、田代兼綱の子として田代村(現在の越生町大字古池)に生まれたという。(川越誕生説もある)
医業を志して、京都妙心寺や足利学校で学んだ後、23才で明に留学して12年後に帰国した。永正6年(1509)からは、下総(茨城県)の古河公方・足利政氏の侍医を勤め「古河の三喜」とよばれ、関東一円を往来して庶民の治療にも尽くした人物である。
社の一風景
ところで、越生町には「一里飴」と呼ばれる原材料に砂糖、水飴、蜂蜜のみでできた昔懐かしい味がするご当地飴がある。越生にある住吉屋製菓が製造しており、昔はテレビCMもやっていたようだ。一里飴の名称は、幕末から明治前期の国学者である権田直助が命名したと言われており、権田が尊王攘夷運動の志士として江戸と京を往来する際にはこの飴を携えていたとされ、日本橋から高輪大木戸までの約一里の距離を歩く間、溶け切らずに味わい続けられたと言われたことに由来している。
この一里飴は田代三喜が創製した医薬飴がルーツとされ、当時は越生梅林で採れた梅の蜜を原料とした医薬飴であったという。現在行田市の十万石まんじゅう、熊谷市の五家宝などと並ぶ埼玉銘菓の一つであり、彩の国優良ブランド品に指定されている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」等