野上下郷下野上神社
貴船社 高龗ヲ祭ルト云例祭正月十五日九月十九日小名宮澤ノ鎭守ナリ神職前ニ同シ(柳若狹吉田家ノ配下)
『寳登山神社HP』
宮沢地区の氏神さまで、「貴船さま」とも呼ばれ高龗神(たかおかみのかみ)をまつります。
日照りにも枯れることのない「神の井戸」が地内にあり、氏子を始め多くの者が助かったと伝えます。江戸時代には荒川の筏師が岸に筏を止め水上安全を祈ったといいます。
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷2046
・ご祭神 高靇神
・社 格 野上下郷総鎮守
・例 祭 春祭り(3月15日に近い日曜日)秋祭り(11月15日に近い日曜日)
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1230269,139.1099857,17z?hl=ja&entry=ttu
野上下郷下野上神社は国道140号バイパス、通称「彩甲斐街道」を長瀞方向に進み、埼玉県道287号長瀞児玉線が交わる「射撃場」交差点の手前100m程にある手押し信号の十字路を左折し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に鎮座している。
社には適当な駐車スペース、社務所等はないので、手前にある「宮沢集落農業センター」の駐車場を一次的にお借りしてから参拝を行った。
参道正面前の風景
秩父鉄道が走る踏切の先に野上下郷下野上神社の鳥居が見える。因みにこの踏切を渡ると、「危ない!左右を良く見て渡りましょう」と、警報の為の音声ガイドが流れる。当然、渡る時には左右の安全確認しているが、渡り終えてからも警報音が突然出るので思わず振り返ってしまった。
登り旗のポールから境内方面を撮影
地形を見ると、参道右側が深い森となっているが、よく見ると比較的深い崖となっている。長瀞町水害ハザードマップでも、この地域は「家屋倒壊等氾濫想定区域」に指定され、その洪水想定は3.0m~5.0mとされている。この崖は自然な沢が元になっていると思われるが、コンクリート壁で補強され、水害に対する処置は出来ているようだ。
この社から北東方向1.3㎞先で樋口駅の北側に鎮座する野上下郷瀧野神社が鎮座しているが、江戸時代中期「寛保二年水害」という1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害があった。この水害は江戸時代を通じて埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしかったらしく、当時の記録によれば旧暦7月27日から4日間豪雨が続き、8月1日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事であるが、同じ地域で比較的近くに互いに鎮座する社において、過去の教訓が今も受け継がれていることではなかろうか。
鳥居の近くに設置されている案内板
下野上神社 御由緒 長瀞町野上下郷二〇四五
◇抽選の結果、総鎮守となった社
荒川が、当社崖下で大きく流れの向きを東へと変えるこの河原を「杜下河原(もりしもがわら)」とよび、荒川の筏師たちは水の神を祀る当社に水上安全を祈り、竿を休めたところという。祭神の高靇神(たかおかみのかみ)は雨を降らせ水を司り、水上安全を守護する神として信仰され、干天には雨乞いがよく行われてもいた。
『新編武蔵風土記稿』は当社を「貴船社 高靇神を祭ると云、例祭正月十五日、九月十九日 子名宮沢の鎮守なり」と記載、さらに吉田家配下柳若狭が祠職を務めたとしている。
本殿は一間社流れ造で、棟札から享和元年(一八〇一)九月吉日に再建されたことが知れる。
明治一二年(一八七九)野上下郷内に鎮座する五社を一社に合祀せよとの通達に接し、全区民にこれを通達したが意見が乱立し総意を結集することが適わなかったので代表による抽選を行い、宮沢区の当選をもって「貴船神社」を「下野上神社」と改称して野上下郷の総鎮守と位置づけたが、合祀は実質的には行われずほかの4社は今も各地の人々によって祀られている。
◇御祭神
・高靇神
◇御祭日(祭日に近い日曜日)
・春祭り 三月十五日
・秋祭り 十月十五日
案内板より引用
拝 殿
下野上神社が鎮座する野上下郷宮沢区のすぐ東側は荒川が南北方向から東西方向に流れの向きが変わる地点で、左岸は一面切り立った崖となっているが、右岸は河原が広がる地である。荒川の筏師たちは水の神を祀るこの社に水上安全を祈り、一時竿を休めたという。祭神の高靇神(たかおかみのかみ)は雨を降らせ水を司り、水上安全を守護する神として信仰されたのにはこのような経緯があったのであろう。
拝殿に掲げてある扁額 本 殿
同時にこの地域は、国道140号バイパス線に児玉町方面から南北に通る埼玉県道287号長瀞児玉線が交わる、まさに交通の要衝地でもあった。その合流地点南部に鎮座しているということは、ある意味見張り番としての役割もあったのではなかろうか。下野上神社の東南方向で、荒川を挟んで反対側には「岩田白鳥神社」、その奥には「天神山城」があり、この天神山城は秩父から長瀞、寄居方面まで三方向をよく展望できるところに位置しており、上杉氏や北条氏の家臣として秩父を統治した藤田氏の拠点として城鉢形城の支城として重要な役割を果たしていたと思われ、その対岸に鎮座するこの社の役割は大きかったと推測される。
社殿左側隣には標柱があり、石祠等祀られている。
標柱の先には2基の石碑が前後に並んで設置されている。荒川上流部独特の古風な岩積となっていて、前は葉に文字が隠れて判別不明(写真左)。奥には大黒天の石碑(同右)。
社殿右側奥にある「摩利支天」の石碑
ひっそりと鎮座する赴きある社
野上下郷地域を通る単線の秩父鉄道。
長閑な山村風景が広がり、その間に単線である秩父鉄道がその趣きに郷愁と追憶を誘い、つい
感傷的な気分をもたらす。この秩父鉄道が昔ながらの単線である事もまた良いのだ。
但し線路側に設置されている太陽光パネルの群がその景観を損ねているマイナス面は正直否めないが…
参考資料「新編武蔵風土記稿」「長瀞町公式HP」「寳登山神社HP」等