古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野上下郷瀧野神社

 瀧野神社 御由緒 長瀞町野上下郷一二一八
 ◇荒川の滝にかかわる伝説の社
 『新編武蔵風土記稿』に「往古この所荒川の流れに、両岸岩にて狭まりし所、川瀬の中に巨岩ありて瀧となりしが、何頃にや洪水の時、此の岩破れ今は瀧なけれども、今に小名に唱ふ、瀧野社例祭九月二十九日、小名瀧上の鎮守なり、此社往古荒川の北岸にありしを、今の地に移せしと云、神職柳若狭吉田家の配下なり」と記載する。
 御祭神は日本武尊で秩父に足を踏み入れた尊の徳を称え奉斎したと伝えている。
 境には熊野神社も祀られ「おくまんさま」と呼びならわし、安産の御神徳が高いとして多くの参拝を得ている。安産を願うものは「安産帯」を受け、社頭から「底抜けのひしゃく」を借り受け、願いが成就したあかつきには「お礼」として新たな「底抜けひしゃく」と借り受けたものと合わせ納めお礼参りをしている。
 なお寛保二年(一七四二)関東各地に大洪水をもたらした水位を示した埼玉県指定史跡「寛保洪水位磨崖標」が長瀞第二小学校裏の岩肌にある。当時七月二十七日から四日間降り続いた雨の水位は十八メートルにもおよびこの付近一帯は水没したという。           
                                    境内案内板より引用

       
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷1218
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧小字瀧上鎮守
             ・例祭等 春祭り 3月15日 秋祭り 10月15日 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341891,139.1217504,16z?hl=ja&entry=ttu       
 野上下郷瀧野神社は国道140号を長瀞町報告に進み、秩父鉄道「樋口駅」過ぎの集会所に車を停めて参拝を行う。社まで適当な駐車スペースがない事。またコミュニティ集会所から西へ道路沿いお歩道を歩いて進めば、一本目のT字路右側に野上下郷瀧野神社が見えるからだ。
               
               正面社号標から撮影。急勾配の階段なのがここからでも分かる。
           
 この階段は段数こそあまりないが、振り返るのが怖いほど急勾配で、見ただけでも参拝する気持ちが落ち込む程。このような階段は初めてであるし、日頃から運動不足気味な自分にとって、この社の階段は神から与えてくれた「運動と疲労」という贈り物であろうと感謝している次第だ。中央に設置されている手すりを使用して、勢いのまま休まずに踏破できたのは良かったが、帰路も同じルートかと思うと、明日以降の筋肉痛が心配だ。
*後で知ったことが、熊野神社へのコースは緩やかな道があり、そこならば道程が少し長いだけで、それほど心配する必要もなかった。
               
 階段を登り、鳥居を過ぎると真近かに社殿が目視できる。山の斜面に社を鎮座させている関係上、構造的には、社殿や境内社等並列している配置となっている。
        
                     拝 殿   
 武蔵七党は
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称で、その中の丹党安保氏の系列(一派)に岩田氏、白鳥氏が主に秩父郡白鳥庄を領有していた。長瀞町野上下郷に鎮座する瀧野神社は『新編武蔵風土記稿』によると、この地は秩父郡白鳥庄に属していた。
・「秩父志」「白鳥庄、属村十一.下田野、井戸、岩田、野上郷、藤谷淵、金崎、金沢、日野沢、野巻、大淵」
 この武蔵七党の活動開始時期はあくまで平安時代後期であり、それ以前に記述されている文書等にこの武士集団は関与していないことから、律令制度時期に活動した集団はどのような一派だったろうか。
 
     
       参道左側にある神楽殿          拝殿手前に設置されている案内板
 
   三笠山・御嶽皇・八海山各大神の石碑           境内社 
                      左から琴平神社・白山神社・天神社・諏訪神社
        
  
社殿東側で勾配の緩やかな参道を下がるように進と、左側に「熊野三社大神」が鎮座する。
   
        熊野三社大神              
熊野三社大神の扁額
        
                         熊野三社大神の並びには社務所がある。
 秩父郡岩田村は承平三年太政官符に「秩父郡石田牧」と見えるところから、岩田は嘗て「イシダ」と称していたという。近郊の大里郡には小園壹岐天手長男神社が鎮座しているが、この社も嘗ては「石田神社」と称していた。
大里郡神社誌 「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」
 この壹岐天手長男神社は壱岐島内に同名の社が総本社として鎮座している。
壹岐国石田郡石田郷(和名抄に伊之太と註す)
 この「石田」という地名は古代から日本海を中心とした集団として文書等に記載がある。
日本書紀垂仁天皇三十四年条 「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」
古代氏族系譜集成 「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)
 このように武蔵七党活動以前から、ある集団が九州から畿内、その後東国に移動して、移住した地に岩田、石田と命名したと考える。武蔵国北部には壱岐島由来であろう天手長男神社が多く鎮座している例もあり、岩田(石田)の地名の淵源は古く、そして集団としての活動範囲も広範囲であるといえるのではなかろうか。
                       
                                階段から眼下の風景を撮影
            
                      何故このような急勾配な斜面上に鎮座したのか

 秩父鉄道樋口駅の北側にある「長瀞第二小学校」の裏を登った山腹に「寛保洪水位磨崖標」がある。これは「寛保二年水害」の時に荒川の水位がここまで上がったことを後の世に示すために、当時の村人が刻んだもので、この「寛保二年水害」とは1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害で、江戸時代以降埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしい災害である。 
 当時の記録によれば旧暦727日から4日間豪雨が続き、81日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事ことを地元の四方田弥兵衛・滝上市右衛門が刻んだものである。(県指定史跡)
 因みにこの石碑に刻まれた水位は現在の河床から約24mにもなり、現在の人家の一階は完全に水没する水位であり、ここから2km程度下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約198mにもなったという。
 野上下郷付近は秩父盆地に降った雨が集まる、盆地唯一の水の出口で、両側に山が迫り、荒川の清流がV字谷を刻んでいる。上流は秩父盆地、下流は寄居町の荒川扇状地で川幅は広く、盆地の出口である野上下郷付近だけが急激に川幅が狭くなり、寛保二年水害でこの地域が荒川最大水位に達したのは、この地形が原因だといわれている。
 こうした洪水の記録を後世に絶やさずにつないでいくことが大切であり、樋口駅近郊に鎮座する瀧野神社にも水に関する地名や由緒が案内板等に残されている。

岩田神楽とは
 岩田神楽は秩父地方の主流をなす秩父神社の流れを受ける。大正3(1914)の冬、耕地総出の薪山仕事の時に「岩田でもダイダイをやってみようではないか。」との話がまとまり、神楽主任浅見幸三郎、中村楠五郎両氏を師匠として約1ヶ月間、蚕室を借りて伝授を受け、2月の天神祭に初舞を奉奏、めでたく岩田神楽が発足したと言われる。神楽の道具衣装もよく保存されている。2月と11月の大祭、315日頃の滝野神社の春祭等に奉奏する。


    

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