古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野上下郷天満天神社


        
           
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷2866
           
・ご祭神 菅原道真公
           
・社 格 不明
           
・例 祭 春祭り(225日に近い日曜日)秋祭り(1125日に近い日曜日)
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1228636,139.1067951,18z?hl=ja&entry=ttu

 野上下郷下野上神社から距離にして600m程西方向の秩父の山が周囲を囲み、緑豊かな長閑な地にひっそりと鎮座している。国道140号バイパス「射撃場」交差点を右折し、埼玉県道287号長瀞児玉線に入るが、100m程先のY字路を左折する。このY字路のほぼ正面には「萩寺 洞昌院」の立看板があり、丁度良い目印となる。
 緩やかな上り坂を進むと「長瀞町消防団第2分団第1部」の小さな建物がある丁字路となるので、そこを右折1.2㎞程進むと左側に「辻公民館」があり、そこの南側に隣接して野上下郷天満天神社が見えてくる。
 辻公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 野上下郷天満天神社正面   
                 辻公民館に対して横を向いているような形で鎮座している。
               
                                 東側に向いている参道
        
                    鳥居を過ぎて参道を進むと拝殿に通じる石段に達する。
           その石段の手前右側には案内板が設置されている。
 天満天神社 御由緒 長瀞町野上下郷二八六六
 ◇昔は盛んであった雨乞い
 当社は野上下郷の辻区に鎮座し、菅原道真公を祀る。
 本殿は一間社春日造。境内には秩父庄司畠山重忠「駒繋ぎの欅」と伝える大木があったがすでに枯死し伝えのみが残る。
 当社の近くに真言宗の寺院、洞昌院があり不動山白山寺と号する。寺を開山した元仲法印【久寿二年(一一五五)入寂】が、保延元年(一一三五)京都智積院に参籠し真言の奥義を極め、帰山に際し北野天満宮より分霊を拝受して寺院の隣に神域を定め天満天神の鎮座法要を営んだと伝える。
 元仲法印は学識が深く子弟の教育にも熱心であったため、当社も郷の者から厚く信仰され何時のころからか、辻の鎮守となったと伝えている。
『新編武蔵風土記稿』は「天神社例祭正月、九月二十五日小名辻の鎮守なり、神職相馬出雲吉田家の配下」と記している。
 辻区は水利が悪い土地のため、毎年夏には雨乞いが境内で行われたと伝える。近くの石尊祠・雷神社に詣でるほか、榛名神社、武甲山から水を頂きこれを地内の水と混ぜ祈願の後境内に撒くなどしたという。
 ◇御祭神
 ・菅原道真公
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・春祭り(二月二十五日)
 ・秋祭り(一一月二十五日)
                                      案内板より引用

       
       石段を登り終える辺りで、左側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)

 社の境内で社殿に続く斜面には川石が全面にびっしりと敷き詰められている。石の状態、また補強としてコンクリートが使われているので、決して昔からあったものではないと思われるが、それにしてもすごい数量である。
        
                     拝 殿
       拝殿は覆堂となっていて、中に一間社春日造の本殿が近くに見られる。

 ところで野上下郷天満天神社は菅原道真を祀る社であるが、その神職である矢内(ヤナイ)氏は複雑な経緯でこの地に移住し、帰農・神職となった氏である。上野国志に「反町城(新田町)は、天文の頃には横瀬の家老野内修理亮時英が居す」とあり、家老職であり、金山城主横瀬氏と同紋で、待遇も一族並となっていた。
 その後天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際して、後北条氏は滅亡前後に秩父郡野上下郷に出奔・蟄居してこの地に帰農し、神職となったようだ。

『金山太田誌』
「家老・新田郡反町城主野内修理亮成道、天正十八年庚寅秋・出奔武州秩父郡野上蟄居。退職修理亮父、野内豊前成巌入道道的斎・天正十四年丙戌十一月二十七日卒・法名傑山全英」
『武蔵志』
「秩父郡野上下郷の柳内祖は、上州金山城主横瀬氏に仕たる人なり。天正十八年横瀬の母の供して秀吉卿へ出、夫より後、此邑に来、神主に成也」
 
    拝殿の左側に鎮座する合祀5社。     拝殿右側には頑強な石組の上に祀られている
 真ん中の2社は白山・稲荷社。それ以外は不詳。          大山祇神か。
        
                                  拝殿からの風景

 小田原攻めに関して、豊臣方の進路は主に武蔵国の平野部が主で、館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しいという。新田郡反町城主野内修理亮成道がこの地に蟄居したのもある程度は頷ける。

 因みに新編武蔵風土記稿野上下郷条には「滝神社・熊野社・貴船社・石上社等は、みな神職は柳若狭なり」と記載されている。この「柳」は「矢内」の一形態なのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「金山太田誌」「武蔵志」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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