古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中里雷電神社

 美里町中里地区は、松久丘陵の北部に位置する丘陵上の村で、南の白石地区との境を中世の鎌倉街道上道が通っていて、天正19年(1591)の「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)には「甘粕 中里共」と記され、元は甘粕村と共に一村であった記録がある。
 中里に鎮座する雷電神社は、旧鎌倉街道上道西側に面していて、当地ではこの通りの坂を「雷坂」と呼んでいた。また国道254号線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する位置関係にある。当社、甘粕神社(甘粕)、東大澤神社(猪俣)の三社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられていて、通称「雷電三社」と言われている。
        
              ・所在地 埼玉県児玉郡美里町中里8
              ・ご祭神 大雷神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 新年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123                                                         大祓 6月・12月
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1589805,139.1827507,17z?hl=ja&entry=ttu
 中里
雷電神社は、国道140号バイパス秩父往還線を小前田駅方向に進み、「花園局」交差点を右折。その後小前田駅を見ながら道なりに進み、埼玉県道175号小前田児玉線を用土駅から美里町方向に暫く直進する。その後「野中」交差点を右折するとその道は埼玉県道31号本庄寄居線と変わり、天神川を越えた最初のT字路を左折すると右側に甘粕神社が鎮座する社叢と鳥居が見えてくるので、そのまま直進するとT字路にあたる。国道254線と埼玉県道175号小前田児玉線が変更する地点で、そこを右折すると、すぐ変則的な交差点があり、そこを越えた左側奥に雷電神社の鳥居が見える。
 今回甘粕神社近郊のある関係から、甘粕神社までのルートを参考にして記載したが、もっと分かりやすいルートとしては、国道140号バイパスから寄居警察手前の三つ又に分かれる分岐点を美里方向(国道254号線)に15分程進めば左側に雷電神社の鳥居が見えてくる。
 県道沿いの一角から鳥居方向の広い空間に駐車することは可能だが、安心して駐車したいのであれば、変則的な交差点を越えたすぐ先のT字路を左折し、また次の十字路を左折すると中里雷電神社の比較的広い境内に入ることができる。
 因みに中里雷電神社西側に北西から南東方向に通じる道は嘗て旧鎌倉街道上道と呼ばれ、現在の河越・児玉往還と呼ばれる街道である。
 
       中里雷電神社 鳥居          鳥居から見た中里雷電神社社殿
 社殿が石垣の上、一段高い位置にあり、丘陵地であることが分かる。この辺りは「雷電神社裏古墳」と呼ばれている古墳丘陵で、社殿は丘陵の上に鎮座している。古墳は旧鎌倉街道上道を東西に横切る道に分かれていて、中里雷電神社の北側の浅間大神の塚のあたりまでになっているとの事だ。規模は径10m、高2mの円墳(横穴式石室)で推定築造6世紀半~7世紀代と言われている。
        
                  中里雷電神社案内板
〇雷電神社  鎮座地 美里町
大字中里八番地
 由緒
 当社は、
征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神三社を祀ったのが始まりと伝えられる。猪俣、甘粕の地にも雷電社が祀られ、当社を含めこの三社を雷電三社と称する。雷電三社は国道二五四線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する。当社西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を雷坂と呼んでいる。
 春日造りの本殿は、地元の大工である岡田伊右衛門が建てたもので、この伊右衛門が寛政七年(一七九五)に児玉町秋山の十二天社を造った時の「建立覚書」に当社の本殿と同じ造りにする旨が記されていることから、当社はそれ以前に建てられたものであることがわかる。
 また『風土記稿』中里村の項では「愛宕社は村の鎮守なり、満正寺持ちは諏訪社、雷電社、天神社、村民持ちは稲荷社」とあるように、江戸期には愛宕社が村の鎮守であったが、明治元年の社格制定に際しては当社が中里村の村社とされた。更に愛宕社も含め当社以外の神社はいずれも小規模であったため、明治四十一年に政府の合祀政策に従ってこれらの諸社は当社の境内に移された。                                   案内板より引用
        
                     拝 殿
 社殿の
西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を「雷坂」と呼んでいて、日本武尊の伝説があるそうだ。社殿は、旧鎌倉街道上道といわれる道に対して背を向けた形で鎮座していて、現在の国道に面した方向に向かって建てられている。
 
 社殿周辺に鎮座する境内社・合祀社(写真左・右)合祀社に関しては、左から神明社・白山社・菅原社・愛宕社・稲荷社・諏訪社が祀られている。
 
   案内板近くには浅間大神等の石碑あり         社殿から境内を撮影  


      

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甘粕神社

        
             ・所在地 埼玉県美里町甘粕634
             ・ご祭神 大雷命、少彦名命
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.162802,139.1814671,17z?hl=ja&entry=ttu
 甘粕神社は、国道140号バイパス秩父往還線を小前田駅方向に進み、「花園局」交差点を右折。その後小前田駅を見ながら道なりに進み、埼玉県道175号小前田児玉線を用土駅から美里町方向に暫く直進する。その後「野中」交差点を右折するとその道は埼玉県道31号本庄寄居線と変わり、天神川を越えた最初のT字路を左折すると右側に甘粕神社が鎮座する社叢と鳥居が見えてくる。
 甘粕神社が鎮座する地は東西を丘陵に挟まれた低地から一段高い場所に位置していて、社殿は東向きである。
 社の北側隣には社務所らしい建物があり、そこの駐車スペースに車を停めて参拝を行った。
                               
                   甘粕神社社号標
        
             道を隔てて東側には神橋(神宛橋)がある。
               神橋と社号標も同じ場所に屹立する。
        
                    正面鳥居
 神社周辺は綺麗に掃除が行き渡っていて、氏子様等の日頃の気遣いを感じられた。晴天の日差しの中、日々春に近づくのが体を通じて感じられ、気持ちの良い参拝となった。
 
     鳥居右側にある社の案内板        案内板の隣には石碑もあり        
 甘粕神社   鎮座地 美里町大字甘粕六三四番地
 由緒

 当地は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む甘糟氏の本貫地とされ、猪俣党系図によると猪俣忠基の子家基が甘糟七郎と称している。「吾妻鏡」によると、元暦元年(一一八四)に甘糟野次広忠(家基の子)は、平家追討のため源頼朝から所領の万雑事を免除されている。地内には「堀の内」と呼ばれる甘粕氏館跡があり、その水城の一部が残存している。
『風土記稿』によれば、往時の甘粕村の鎮守は諏訪社で、当社の祭事は真言宗多宝寺が行っていた。因みに「児玉郡誌」によれば、諏訪社は享保二十一年(一七三六)に正一位の神階を拝受し、その際の宗源宣旨が存在したという。
 明治元年の神仏分離令により、当社は多宝寺を離れて村社となった。明治四〇年には、字向田に鎮座した雀神社を本殿に合祀したのをはじめ、村内の諏訪神社、神明神社、稲荷神社、白山神社、天神社を境内社として移転し、これを幾に社号を甘粕神社と改称した。
                                       案内板より引用
        
                                 
石段上に社殿が見える。   
        
                     拝 殿
 
  
      拝殿に掲げている扁額           拝殿と本殿の位置に注目 
 低地から一段高い台地上に鎮座しているが、その奥行きは広くない。故に社殿・境内社等横並びに配置されていて、本殿部一部岩盤をくり抜いて削平しているのが分かる。
 この地に社を鎮座してからの年月で、土砂の崩落等もあったであろう。本殿基礎部分土砂崩れにより埋没している部分もある。
 
 社殿左側に並列して鎮座する境内社 琴平神社・天神社・諏訪神社・神明神社・白山神社の合祀社(写真左)。その左側に2基の石祠を挟んで、同じく境内社 稲荷神社が鎮座している(写真右)。
            
社殿右側には
「遙拝所」の石碑があり、その奥には紙垂等は見られないが、御神木らしき大木が聳え立つ。
 
 遙拝所の石碑左隣に鎮座する境内社 八坂神社  遙拝所の石碑に右側にポツンとある石祠
        
               高台にある社殿から鳥居方向を撮影

 猪俣党は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団。武蔵七党の一つで、小野篁の末裔を称す横山党と同族であり、主に猪俣氏を名乗った。 猪俣党は、児玉郡美里に河匂、木部、古郡、甘糟、深谷に荏原、人見、横瀬、本庄に滝瀬、花園に御前田、寄居に藤田、尾園、男衾、岡部に岡部という広がりを見せた。
 『新編武蔵風土記稿』によれば、猪俣村は「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 甘粕氏は
甘糟・天粕とも書く。武蔵七党猪俣党の河勾野大夫政基の弟(古郡八郎の兄)家基が甘糟七郎と称して甘糟氏の祖となり、甘糟野次広忠が当地に館を構えたと伝えられる。

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根木勝丸稲荷神社

 美里町・根木地域は北東方向から東側に流れる志戸川が、支流・天神川と合流する西側に位置し、沼上・阿那志・古郡・十条地域と接している区域で、今は一面長閑な田園風景が広がっている。
 嘗て律令制度時期には、根木周辺地域は県指定史跡である十条条里遺跡が存在し、大化の改新の制により実施された班田収受法の遺跡でもある。条里は、古代に行われた地割制度のことで、広い土地を6町(654m)ごとに線を引いて、碁盤の目のように区画し、東西の線を「条」、南北の線を「里」と名付け、それぞれ区画された土地は、「何条」・「何里」で示している。
町内には、条里制に由来すると思われる地名がいくつもあり、南十条、北十条、十条堀(根木)、四条ヶ島(沼上)、十二町(下児玉)、五郎町(北十条)、八反田(南十条)などがあげられる。根木地域にも条里制による区画整理事業を行われていて、当時先進的な場所であるともうかがわせる。 
        
               ・所在地 埼玉県児玉郡美里町根木337
              ・ご祭神 軻遇突知命 倉稲魂命 瓊々杵命 木花咲耶姫命
                   須佐能男命 菅原道真公
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 317日 例祭 415日 大祓祭 729
                   新嘗祭 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1920552,139.1822689,17z?hl=ja&entry=ttu
 根木
勝丸稲荷神社は、埼玉県道75号線熊谷児玉線を美里町、児玉町方向に進み、「関」交差点を左折する。埼玉県道31号線本庄寄居線に変わり、3本目の十字路を右折。暫く道なりに進むと正面にこんもりとした社叢が道を隔てて2か所見える。埼玉県道31号線本庄寄居線を右折して4500m程にて、根木勝丸稲荷神社が右側に、嘗て愛宕山という直径30mの円墳の上に鎮座する。 因みに勝丸稲荷神社の南側に隣接した道灌山も古墳であり、名称は山頂に太田道灌供養塔が祀られていることに由来するようだ。
 駐車スペースは道路神社側脇に舗装されていない路肩状部があり、そこに車を停めて参拝を行う。
        
               
根木勝丸稲荷神社南東の方から撮影
                         
勝丸
稲荷神社御由緒  美里町根木三三七
御縁起(歴史)
 当社は、大字根木の集落南端にある「愛宕山」と称する小高い塚に鎮座している。県道本庄・寄居線からは、田畑の中に浮かぶように鎮守の杜が望まれる。
 この鎮座地には、元々は無格社の愛宕神社が祀られていたが、明治四十年に字勝丸の村社稲荷神社・字紫渡川の無格社二柱神社・字根木の無格社八坂神社・字向居の無格社菅原神社の四社を合祀の上、社号を勝丸稲荷神社と改めた。
 愛宕神社は、口碑によれば、戦の火矢がもとで根木の集落が全焼した際に火防の神として勧請したという。『風土記稿』根木村の項には「愛宕社村の鎮守なり、積蔵寺持」とあり、更に積蔵院は「新義真言宗、栗埼村宥勝寺末、愛宕山地蔵院と号す、本尊地蔵を安ぜり」とあり、その山号から積蔵院の法印が当社の勧請にかかわった可能性が高い。ちなみに、積蔵院は神仏分離により廃寺となった。一方、社名の本になった稲荷神社は『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳ならず、古老の口碑に天正十八年(一五九〇)当地の郷士猪俣党の旗下勝丸仁左衛門が稲荷明神の社殿を再興して、深く崇敬したるを以て、後ち勝丸稲荷大明神と称すと云ふ」とあり、『風土記稿』には村持ちの「稲荷社」として載る。従って、明治初年の社格制定の際には、鎮守が村の愛宕神社から稲荷神社に交代したことになる。                     
                                       案内板より引用

美里町史による勝丸稲荷神社の由緒
・勝丸
稲荷神社
 大字根木にあり、倉稲魂命ほか五柱を祀る。創建の年代・由来は不詳であるが、伝えによると天正18
年、当地の郷士で猪俣氏の旗本であった勝丸仁左衛門が稲荷神社の社殿を修理して再興したといわれ、勝丸稲荷大明神ともいう。
        
                 
根木勝丸稲荷神社 鳥居
        
                     拝 殿
        
         
御嶽大神・三笠山大神・八海山大神を祀る富士山のような塚
              良く見ると真ん中のお地蔵様の首部がない。

 根木勝丸稲荷神社は、勝丸稲荷神社古墳墳頂に鎮座しているが、
路を隔ててほぼ反対側に位置する道潅山古墳で、古墳の名称の「道潅」は、墳頂に太田道灌が祀られていると言われているが、近づいて墳頂に行くことができない程の状況だ。
 東西約42.5m、南北約43m、高さ約4.1m5世紀前半築造の円墳(推定)。道潅山古墳と勝丸稲荷神社古墳のそれぞれの埋葬者は、どのような関係性を持った人物だったのであろうか。
 
        
道潅山古墳全景             近隣に位置する2基の古墳。

 ところで、
勝丸稲荷神社古墳や道灌山古墳の北方600m程に阿那志地区・堂山古墳が存在する。径40m 高5mの円墳で、発掘された周溝や木棺直葬又は粘土槨から推定築造年代は5世紀中旬~後半と言われ、勝丸稲荷神社古墳や道灌山古墳よりは新しいが、古墳の規模は大きくなっている。阿那志にこれだけ大きな古墳が築造された事は、南志渡遺跡の稲作が発展して、さらに人口が養える様になり村落が形成された事を意味するのではなかろうか。
        
                  
阿那志地区・堂山古墳


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駒衣稲荷神社

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町駒衣595
            ・
ご祭神 倉稲魂命
            ・
社 格 旧村社
            ・
例 祭 天神祭 1月25日 初馬 2月6日 春の大祭 4月15日
                 秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月28日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1736646,139.1698324,16z?hl=ja&entry=ttu
 駒衣稲荷神社は国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居方向に進み、国道254号線との分離地点で右折、美里町から児玉町方向に進む。国道254号線は美里町 天神橋交差点付近で埼玉県道175号小前田児玉線に名称変更するが、そのまま道なりに直進。
 その後「松久小学校入口」交差点を右折し、約
700m程進むと右側に駒衣稲荷神社とその社叢が見える。駒衣の集落の北端に位置し、すぐ北側は長閑な田園地帯が広がる。
                
                       駒衣稲荷神社 鳥居正面 
       
               駒衣稲荷神社御由緒案内板
〇御縁起 美里町駒衣五九五
 駒衣は、古くは「駒絹」「駒木野」とも書き、南端を鎌倉街道上道が通ることから民家は南部に集中し、北部には東田が広がる。地内には、駒衣古墳群をはじめ、四世紀中葉の集落跡である志渡川遺跡や奈良・平安時代の寺院跡である駒衣廃寺、中世の土嚢の館跡である新堀屋敷などと遺跡が多く、古代から太の住みやすい環境であったことがうかがえる。
 当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している。創建については詳しい伝えはないものの、古くから駒衣の鎮守として厚く信仰されてきた神社であるという。また「児玉郡誌」は「元亀年中(一五七〇-七三)武田信玄の旗下・吉橋和泉守、武運長久を祈願し社殿を改築せりと云ふ、社蔵に係る文書には駒絹村正一位稲荷大明神とあり、宗源の宣旨は伝はらざれど、神階を授けられたること明らかなり」と載せ、当地は養蚕が盛んであることから、その守護神として勧請したものかと考察している。
 一方、『風土記稿』駒衣村の項には智徳院持ちの稲荷社と円福寺持ちの稲荷社の二社が記載されているが、当社はそのうちの智徳院持ちの稲荷社で、円福寺持ちの稲荷社は新田で祀っていた神社である。神仏分離により智徳院の管理を離れた当社は、明治五年に村社になり、同四十年には新田の稲荷社をはじめ地内の無格社三社を合祀した(以下中略)        案内板より引用
     
       
                    拝 殿         
 
  向拝柱の水引虹梁には彫刻が施されている           本 殿

「美しい里の町」をキャッチフレーズとしてホームページ等でも紹介されている埼玉県美里町は、東京都心より約80km、埼玉県の北西部に位置し、東部は深谷市、北部・西部は本庄市、南部は寄居町および長瀞町にそれぞれ隣接している。面積は33.41km2、東西5.5km、南北9kmと南北に長く、南部の山間地帯と中央以北の平坦地により構成されている。
 この埼玉県北西部の狭い区域に位置する美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡など、「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 
               神楽殿           駒衣稲荷神社社殿の左側に鎮座する境内社
        
                   駒衣稲荷神社 遠景
 美里町は、埼玉県内で最も多く古墳が造られた地域であり、主な特徴は、方格規矩鏡を出土する長坂聖天塚古墳を始め円墳が大多数で、前方後円墳がほぼないことである。また規模が15mに満たないような小規模の円墳ばかりの後期の古墳群が多いことも特色のひとつである。

 ここからは筆者の勝手な解釈であることをお断りするが、この地域には中央集権的な絶対王権は存在しておらず、階級制度から発生する上層・下層の区別も顕著ではなく、共に汗を流して土木、治水工事等行い、祭りを祝う、そんな平和的な日常の営みをしていたのではなかろうか。案内板に記述されている「
当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している」という記述にも、太古の昔から社とそこに住んでいる氏子等普通の人々との信頼関係をうかがわせる。
 美里町の文化財のひとつに「さらし井」が登録されている。美里町大字広木地内のねり木川の端にあるこの遺跡は、奈良時代、織布を洗いさらすために使用された井戸で、ここでさらされた布は、多く調庸布として朝廷に貢納されたという。万葉集第9巻には「三栗の那賀に向かえる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」とうたわれているように、ここは当時の女性達の共同作業場であり、社交場でもあったといわれている。
 当時そこで交わされている女性達の会話の中に、日々貧しいながらも日常生活を一生懸命に謳歌しようとしている人々の息吹を感じるのは、筆者の妄想であろうか。
       
          駒衣稲荷神社  社号標       駒衣の伊勢音頭の看板もあり
 駒衣の伊勢音頭  昭和52329日指定  埼玉県指定無形民族文化財
 駒衣の伊勢音頭は、今から300400年前に、伊勢参りのみやげに伊勢古市の女郎の踊りを習い覚えてきた人たちによって伝えられたのがはじまりだと言われています。その後、この地域の人々の中に育ち、今日に及んでいます。
 この行事は、725日に稲荷神社末社の八坂神社の祭典当日、鎮守の森に村中の若衆が集まり、養蚕も大当り、水の心配もなく、農作業が無事に終わって秋に五穀の豊穣が迎えられますように、また悪疫が流行しないように踊りを奉納して祈願するということです。
 この踊りは、とくに「ヤートコセー」のはやしことばが特徴的です。
 曲目は、手踊りと段物(当地では「台詞入り伊勢音頭」と言う)があり、前者には「伊勢は津でもつ」、「目出度」等、後者には「本朝二十四孝筍掘之場」、「いざり勝五郎」等が現在もさかんに行われています。
 埼玉県教育委員会・美里町教育委員会   
                                      案内板より引用
 

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福田浅間神社

 平安時代以降、事実上律令制度が崩壊し荘園制が盛んになると、その荘園警備の必要から多くの武士集団が発生した。その中で特に源氏と平氏の二大勢力が台頭し、平安時代後期に入ると、政権の行方が栄華を極めた貴族の手から武家へと移る。保元・平治の乱後、平氏に一度敗れた源氏は源頼朝が挙兵すると、木曽義仲、源義経、源範頼らが呼応、各地で奮戦して平氏を壇の浦で滅亡させた。その後全国を掌握した源頼朝は、1192年鎌倉に幕府を開き、武家政治がここに確立した。
 一方木曽義仲は、源氏嫡流である義朝の異母弟で、帯刀先生源義賢の子供として誕生し、幼名を駒王丸といった。源氏の勢力争いが原因で起こった大蔵合戦で、義朝の長男である義平勢に敗れた父義賢が討ちとられ、駒王丸は義平らの執拗な詮索の目から逃れ、遠く信州木曽に隠れ養育された。 この木曽で成人したのが、あの木曽義仲である。
 ところで前述した大蔵合戦で、敗れた源義賢の遺臣がこの福田の地に移り住み、元久二年 1205年) 義賢の霊を祭ったのが浅間神社で、武蔵武士の崇拝の山であったという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田2954
             ・ご祭神 木花開耶姫命 帯万義賢公
             
・社 格 旧無格社
             ・例祭等 夏季大祭715日 秋祭り1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0902143,139.3516852,16z?hl=ja&entry=ttu
 福田浅間神社へのルートは途中までは「福田淡州神社」と同じで、「ふれあい農園谷津の里」の駐車場前のY字路を右折し、暫く直進する。その後、細い十字路に差し掛かり、そこは2本右方向に向かう道があり、そこは奥の道を進む。やはりそのまま道なりに進む(細い道で、進行方向も最初は南方向だが、そのうち北方向に道は変わる為、やや心細いが、そこは辛抱。南方向に向かう途中右側に「比企の丘キッズガルテン」という牧場があり、そこが進行方向の目印となる)と、右側に「浅間神社」の木製の標柱が見える。
標柱付近には十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めて参拝を開始する。一見するとこんもりとした古墳の感もあるが、案内板には山全体が凝灰岩で形成されている岩山との事だ。
 社の南側に浅間神社参道もあり、そこから参拝をスタートする。舗装もされていない参道だが、それが却って昔からの雰囲気とそこから醸し出す悠久の歴史を味わえることもでき、深遠な気持ちになる。だがすぐ右側に目を向ければ、「埼玉県道173号ときがわ熊谷線」を利用する車両が頻繁に走っていて、現代と昔の風情を同時に感じることができる不思議な空間でもある。
 
    参道スタート場所には2本に門柱があり、    参道に沿って電柱があるのが少し残念。
             そこから参拝開始。
         
                                        鳥居正面
         
                                  福田浅間神社の案内板
 浅間浅間神社  滑川町大字福田
 遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで凝灰岩が露出して独特な雰囲気がある。
 伝えでは、久寿二(一一五五)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で、鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。天福の福、田圃の田で福田の地名となったというが、これについては定かではない。
 戦時中、山頂辺りから宝徳二(一四五〇)年奉納の鰐口及び刀一振出土している。
 山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信仰されていたことも考えられる。近年までこの水を飲めば安産であるといわれた。
 平成三十一年三月吉日     滑川町観光協会 滑川町教育委員会
                                      案内板から引用
 
 鳥居の右側には整備されていない急勾配の坂道があり、社殿に繋がる道があるが、行きに関しては社殿西側のなだらかなルートを選択(写真左)。晴天で暖かな天候の中、新緑の芽も芽吹き始め、菜の花も咲き誇る時期で、自然と散策する足取りも軽い。細いルートを進むと頂上付近となり、左側正面には社殿風の建物等が見える(写真右)。
        
                                 正面福田浅間神社社殿
浅間神社  滑川町福田二九五四(福田字富士根)
 当社は浅間山と呼ばれる凝灰岩の岩山の頂に鎮座している。その社叢は県から「ふるさとの森」に指定されており、春には桜の名所として地元の人々から親しまれている。
『風土記稿』並びに『福田村郷土誌』によれば、当地に土着した帯刀先生義賢(源義賢)の家臣の子孫たちが、天福年間(一二三三-三四)に義賢の霊を祀ったのが当社の創祀で、天福の「福」と田圃の「田」を採ってこの地を福田村と称したと伝える。
 一方、口碑に「浅間様は落人が来て租った」「昔は黒岩山(現森林公園内)に祀られていたが、火災に遭い、火の玉となって現在の地に飛んで来た」とある。
 祭神は木花開耶姫命・帯万義賢公の二柱である。
 別当は『風土記稿』によると天台宗光栄寺であったが、日常の祭祀は本山派修験大光院が行っていた。現宮司の吉田家はその裔である。
 明治初年の社格制定に際して、当社は無格社となり、地内の淡洲神社が村社に列した。昭和二十年ごろに社殿の東脇の土中から発見された宝徳二年(一四五〇)銘の鰐口に「阿牙洲大明神」の刻銘があり、当社同様に古い創建をうかがわせる。
 なお、境内にある雷電社は、元は滑川農協福田支所の東にそびえる雷電山の山上に祀られていたが、いつのころか当社に移されたという。
                                   「埼玉の神社」より引用

 
社殿内には富士講(浅間講)の絵馬が掲げてある。      社殿内から本殿を撮影
        
                                        本 殿
 
   社殿と本殿の間には石橋が架かっている。    本殿に掲げている「浅間神社」の扁額

 源義賢は現在の嵐山町に住み、1153(仁平3)年から1155(久寿2)年までのわずか2年余りだったが、この地で生涯を閉じた。義賢の墓と伝えられる五輪塔が大蔵館の近くの新藤氏宅内に所在しているのをはじめ、多くの伝承が嵐山町と近隣に残されている。
 ときがわ町萩日吉神社において三年に一度流鏑馬(やぶさめ)が行われている。この流鏑馬は、義賢の遺臣といわれるときがわ町の馬場・市川・荻窪家と、小川町大塚の加藤・横川・伊藤・小林家が代々執り行っていて、また、鎌形八幡神社の競馬も、この七氏によって奉納されていた。
 また別説では、同町に鎮座する萩日吉神社に伝わる『木曽家引略記』という文書によれば、義仲の遺児義次郎が母方の姓馬場にあらため、馬場義綱と名乗り、そしてかつての家来七氏をたよって明覚郷(ときがわ町明覚)に住んだという。流鏑馬の神事はこの七氏が奉納し、現在まで継承されている。
  
         境内社 不明           境内社雷電神社           境内社津島神社
             
                   境内社の配置
 社殿から南方向に参道を進むと境内社が3社鎮座している。尚参道の入口から社殿までは凝灰岩が露出していて、山全体が岩で覆われているのが足で踏みしめる度に実感できる。「岩信仰」は日本古来からの信仰形態の一つだが、改めてこの地が古より信仰の対象であったことが五感全体で体感できた。
        
                                  福田浅間神社 遠影
 福田浅間神社は、決して高くない小山の上に鎮座しているが、短いながら急勾配の参道を登り、頂上に佇むと、悠久の歴史が蘇るような深遠な気持ちにさせる何かが存在するから不思議なものである。
 この社では、 雨乞いの山としても信仰厚く、昭和40年頃までは、獅子舞が奉納されていた。昭和20年頃、 拝殿わきの土中より偶然、鰐口が発見された。鰐口とは、神社の拝殿や仏道の前側の軒下つるす円く扁平な中空で、金属製の器具。横から見ると、下側の割れ口の形が鰐の口に似ていることから、この名前がある。この鰐口は、宝徳2 1450年) の銘で「福田郷」の文献でみる初めての登場で貴重な文化遺産である。


 

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