古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下児玉金鑚神社

 金讃神社は、総本社である神川町二ノ宮に鎮座している式内社、旧官幣中社という格式の高い同名社が有名であるが、本庄市、美里町にもその関連する社が非常に多く分布している。元々この地域は武蔵七党の一つ、「児玉党」の本家筋にあたる児玉氏の本拠地とも言われ、氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国、武蔵介として下向し、その子息の有道惟行が児玉党の祖となったといわれている。
 児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、 そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。児玉氏の嫡流は多くの氏族(支族)に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出(庄氏)である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行(児玉氏の本宗家3代目)の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。
 児玉郡に居住した児玉党一族は嫡流の庄氏を含む庶流に至るまで一族の守護神として金鑚神社を崇敬し自らの居住地には当該神社を勧請しており、そのことから金讃神社の分布図は児玉党一族の勢力範囲を示すものとも言える。

         
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町下児玉322
             ・御祭神 天照皇大神 素戔嗚命 日本武尊
             ・社 挌 旧下児玉村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 43日 大祓 728日 例祭 1019
                  新嘗祭 1215
 地図  https://www.google.com/maps/@36.2049214,139.1605877,16z?hl=ja&entry=ttu 
       
 下児玉金讃神社は、埼玉県道75号熊谷・児玉線を旧児玉町方面に進み、コンビニエンスが右側にある十条交差点を右折し、道なりに真っ直ぐ進み、小山川を越えた最初のY字路の交差点を左折すると右側に同神社が鎮座する社叢が見えてくる。残念ながら駐車場はなく、社の右側手前に社務所があり、そこに細長い道があり、そこに停め参拝を行った。
           
                           下児玉金讃神社正面
  
         入口付近にある社号標石              住吉社、一心霊神、北辰尊星神等
  「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているが、これは北向神社の伝承とほとんど一緒であろう。
 元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられている。
 
         下児玉金讃神社正面参道                                    社殿手前左側にある神楽殿
                          
                                     拝 殿
            
                        拝殿左側に設置されている案内板
金讃神社 御由緒     美里町下児玉三二二 
□御縁起(歴史)
 児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(一三九〇)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正十年(一五一三)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
 このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(一六八九)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
 一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。(以下略)
                                                         境内案内板より引用
            
                      境内社 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社
                       
                     境内にあった「享保10年(乙巳=1725年)」の石碑
 この石碑は「二月吉日」より下がやや読み取りづらい。1725年でこの地域に関係している事項としては明和元(1764)年に発生した「伝馬騒動」の首謀者である義民遠藤兵内の生年であるが、それに関連した石碑だろうか。
                  
                             下児玉金讃神社 遠景

拍手[1回]


関兒玉神社

 
       
             ・所在地 埼玉県児玉郡見美里町関374
             ・御祭神 仁徳天皇他13柱の神
             ・社 挌 旧関村鎮守 旧指定村社
             ・例祭等 関兵霊神社祭 213日 八坂神社祭 725
                  例祭 1015
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.194797,139.1846486,16z?entry=ttu 
 
 関兒玉神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方向に進み、関交差点の約1㎞手前右側に静かに鎮座してる。村の鎮守様という言葉がピッタリくるような地元の人たちに親しまれている社という第一印象だった。ちなみに神社の鳥居の前には車を止める駐車スペースが広く確保されており、そこに停めて参拝を行った。
       
                    神社遠景 小ざっぱりした開放的な空間
               一の鳥居に掲げてある額には「児玉」ではなく「兒玉」と書かれている。
           
                               神楽殿
 参道を進みすぐ右側に神楽殿がある。柱の間に斜めに伸びている筋交(建築物や足場の構造を補強する部材 )が正面、両脇に見える。構造上下部が安易な構造で上部の瓦の重みを支えきれないためだろう。
「美里町の文化財」には、関の兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられているといい、現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しているという。
           
                                拝  殿
 兒玉神社の創建年代は不詳だが、言い伝えによると鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したという。明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したという。
             
        境内に設置されている案内板                     本 殿
○兒玉神社  御由緒    美里町関374
□御縁起
 
美里町関は山崎山丘陵から志戸川流域に広がる農村地帯で、川輪・倉柱・八幡関・大関・小関・芝原・田中の字がある。川輪は猪俣党川勾氏の本貫地とされ、江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。社伝によると、当社は鎌倉時代に関村出身の関城院という修験者が、大和国大峰山で修行を行い、満願後に帰村の途中、鶴岡八幡宮に通夜して霊夢を感じ、当地に若宮八幡宮を創建したのが始まりという
 明和元年(1764)には、関村名主遠藤兵内を中心に過酷な伝馬助郷の免除嘆願の直訴(伝馬騒動)が起きた。これにより増助郷課徴は中止されたが、兵内は獄門の刑に処せられた。しかし、郷土を救った義民として崇敬が強く、文久三年(1863)白川家御近習席中嶋数馬により、神祇伯白川家より正一位の官位を受け「関兵霊神」として境内社に祀られた。
 明治四十年四月十七日に近郷の十三社を合祀し、社号を若宮八幡社から児玉神社と改称した。例祭には相模国から伝承された獅子舞と「川輪の神楽」が奉納される。また関兵霊神祭や例祭には「兵内くどき」が奉納される。
                                                           案内板より引用                                                    
            
                            社殿の奥にある石祠群
 明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀したという。
            
        石祠群の並びで、本殿の後ろ側に祀られている義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)

○義民義民遠藤兵内お宮改築記念碑
 義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。 
                                                         美里町史より引用
         
                          鳥居の左側にある御神木
            

拍手[0回]


猪俣二柱神社及び猪俣の108燈

 猪俣党(いのまたとう)とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町 の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団である。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す 横山党の一族である。小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げた。
 美里町猪俣地区に鎮座する猪俣二柱神社は伊邪那岐命・伊邪那美命を主祭神とする社で、正円寺の西側、山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっている。

       
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町猪俣2145
             ・御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
             ・社 挌 旧猪俣村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭日 415日・1015
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1484768,139.1808087,16z?entry=ttu
  
 猪俣二柱神社は国道254号線を寄居方面に北上すると「猪俣の百八燈」の案内標識が右側にあり、その手前の細い道を右折すると猪俣氏墓所が所在する真言宗高台院が見え、そのまま道なりに進むと、左側に真言宗猪俣山正円寺があり、またその入り口には二柱神社の鳥居もある。
 社が鎮座する場所は地形上鐘撞堂山(標高305m)から北に派生する尾根の麓上にあり、社とはいえ北から南東の広角度を関東平野が広がっていて遮る物も無く、物見の砦としては絶好の立地条件ともいえる。
           
       高台院からの道を道なりに進むと一の鳥居があり、その正面には正円寺が見える。
           
                        猪俣二柱神社 二の鳥居
 
         鳥居に掲げてある社号額                    鳥居周辺に案内板あり

○二柱神社 御由緒    美里町猪俣二一四五
□御縁起

 猪俣は、武蔵七党の一つである猪俣党の本拠地であったことで知られる。猪俣党は、横山党の祖である武蔵介小野義隆の弟横山時資をその祖とし、那賀郡・榛沢郡に勢力を広げたとされ、とりわけ、猪俣小平六は保元の乱(一一五六)や平治の乱(一一五九)では源義朝に従って武功を上げ、のち源頼朝に従って一ノ谷の合戦(一一八四)で平盛俊を討ったことで名高い。地内には、この小平六の居館と伝えられる平安時代の館跡や、室町時代にその子孫が築いた山城の猪借俣城などがあるほか、猪俣党にかかわる旧跡が多い。
『児玉郡誌』によれば、当社は、古老の口碑に猪俣氏が代々崇敬した社であると伝え、永禄六年(一五六三)天正十六年(一五八八)の二口の鰐口が伝来するという。しかし、永禄六年の鰐口は江時代に別当であった正円寺に現存するが、天正十六年の鰐目は現存せず、代わりに当社に元禄十五年(一七〇二)の鰐口及び寛政三年(一七九一)の棟札が現存する。また、当社は江時代の『風土記稿』猪俣村の項に「聖天社二宇村の鎮守なり、正円寺の持云々」とあるように、元来は聖天社と称したが、神仏分離後に二柱神社と社号を改めた。
 御神前に野菜(二又大根)が供えられる事がある。これは江戸時代、聖天信仰が盛んに行なわれた事で、聖天様は二又大根が大好物であることに由来する。当二柱神社も聖天様として沢山の参拝者があったと言われている。
                                                            案内板より引用

         
                                拝 殿
 猪俣二柱神社が鎮座する箕郷町猪俣地区は、『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代「猪俣村」と呼ばれ、「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残っているという。
 
    拝殿に「二柱神社」と書かれている扁額                   本 殿
            
                          社殿の左側に並ぶ境内社
 境内社(写真右)は伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社等
                   
                      社殿の右奥、山の斜面上にある境内社            
           
                       拝殿前から二の鳥居方向を撮影
二柱神社
大字猪俣にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする。創建の年代は明らかではないが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ古くは聖天宮と称した。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の指定文化財であってその一つ「永禄の鰐口」と呼ばれるものは、永禄6年(1563)10月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄12年(1569)7月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正10年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれている。もう一つ「天正の鰐口」と呼ばれるものは、天正16年(1588)に鋳造されたもので、同年4月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものである。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したということからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいう。
                                                          美里町史より引用

猪俣の108燈
 二柱神社の北側にこんもりとある小高い山、堂前山というらしいが、8月15日に「猪俣の108燈」と呼ばれる伝統行事が行われる。「猪俣の百八燈」は400年以上続く盆祭りの行事で、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともす幻想的な行事だ。地元:猪俣地区では、平安から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力をはせた武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領:猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと伝えられている。範綱は猪俣党の宗家で、始祖である時範から数えて5代目の子孫にあたり、小平六と称して剛勇無双とうたわれ、早くから源氏に仕え、保元の乱、平治の乱で勇壮華麗な戦いで活躍し、一ノ谷では源義経のもとで激闘の末、平家の猛将:越中前司盛俊を討ち取り勇名をはせ、更に壇ノ浦に転戦して手柄を立てた人物だ。
 この猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示している。
           
猪俣の百八燈
 この行事は、8月15日に村はずれの丘の上に築かれた108基の塚に百八の灯をともす盛大な行事である。地元では武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁・猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるための行事と伝えられている。
 この行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色である。この行事の準備は、道こさえ・草刈り・塚築き・人別集めなどがあるが、いずれも親方の指示に従って子供たちが行う。
 15日の夕刻、寄せ太鼓の音が鳴るとともに一同が高台院へ集合し、猪俣氏の霊に拝礼後、笛・太鼓の拍子に合わせた提灯行列が塚のある堂前山へと向かい、百八の塚に火を点火する。
 猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示しているといえる。
昭和62年1月8日指定 
重要無形民俗文化財
                                                            案内板より引用
            
                    
  
                     猪俣の百八燈が行われる麓から見た堂前山
 この「猪俣党」は当初から源氏と協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。「保元物語」には猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎らとともに源義朝に従ったという記述があり、これが義朝の十六騎の記述となり、さらに平治の乱でも源義平の十七騎のなかに「猪俣小平六範綱」の名前が見受けられる。その後源頼朝の挙兵にも従い、「一ノ谷の合戦」で源義経配下で平盛俊を討ち取り武勲を挙げ、鎌倉幕府では御家人となった。
                   
                       二柱神社に隣接した正円寺の案内板
 時代は下って戦国時代、「猪俣党」は小田原の北条勢力下に組み入れられ、北条の家臣として「猪俣党」の末裔「猪俣邦憲」が登場する。「猪俣邦憲」は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物だ。(*名胡桃城の奪取が結果的に小田原征伐の口実を与えたことについて、多くの史書で邦憲を「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。それに対して近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。)

 「猪俣党」はまさにこの猪俣の地で生まれ、育って名を馳せたということだ。そしてこれら猪俣一族の霊を慰める為に行なわれたのが「猪俣の百八燈」ということで、この地域に根付いた由緒ある伝統行事であり、大切な文化遺産である。後世に残してもらいたいものだ。

 

拍手[3回]


関浅間神社

             
                    ・所在地   埼玉県児玉郡美里町関1947
                   ・ご祭神   木花咲邪比売命
                   ・社 挌    旧指定村社 阿那志村鎮守
                   ・例祭等   祈年祭 3月29日 大祓式 7月31日 例祭1010
      地図  
https://www.google.co.jp/maps/@36.1896854,139.1945209,16z?entry=ttu

 関浅間神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先の交差点を左折すると左側にこの社の鳥居が見えてくる。もっともその交差点には「指定村社 浅間神社」と表記された社号標柱があり、見た目だけは分かりやすい社である。
 駐車場は残念ながら無く、鳥居の前の参道が丁度車一台分くらい置くことができるスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。 
            
                      諏訪山丘陵地の一隅に位置する鳥居
            
                                                      鳥居の右側手前にある案内板
 浅間神社 御由緒    美里町関一九四七
 □御縁起(歴史)
 当社の鎮座する川輪は、山崎山丘陵から広がる農村地帯で大字関の小字である。川輪は武蔵七党猪俣党川勾(かわわ)氏の本貫地といわれている。江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。
 祭神は木花咲邪比売命である。境内社には稲荷神社・八幡神社が祀られ、江戸時代末には同字の下浅間神社を本社に合祀した。
 川輪の住民は、大字関の鎮守児玉神社の氏子であるとともに、字川輪の鎮守浅間神社の氏子でもある。
 社伝によると、浅間神社の創建年代は不詳であるが、永正年間(1504-21年)に鉢形城主北条氏邦が当社を深く信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄付したという。慶長18年(1613)の大火により社殿が灰燼に帰したが、後に村民により社殿が再建された。
 当社は浅間山の丘陵に鎮座する。江戸時代からの富士浅間信仰に基づき、地元川輪のみならず近郷近在の崇敬を仰いだ。特に雨乞いに霊験あらたかといわれ、社殿には雨乞い祈願の絵馬も奉納されている。境内地には、干ばつ時にも枯渇したことがないとされる池も現存している。
 川輪に伝承されている神楽は、通称「川輪の神楽」と呼ばれる。明治十五年に本庄市諏訪の神楽師より伝授されたとされ、以来官幣中社金鑚神社神楽に統率されたという。
                                                            案内板より引用

 
 鳥居を過ぎてから登り斜面の参道を進む。 
意外と拝殿までのルートが思った以上に長く(写真左・右)、ほの暗い参道を延々と進むその時間は心寂しく、ハイキング気分とは到底いかないものだった。 
            
                       
参道の途中には池。案内板による干ばつ用であろうか。 
            
    
          長い参道をしばらく進むと浅間神社の明るく開けた空間が広がる。
            
                                  拝 殿
 
   拝殿向拝紅梁に掲げてある「富士山」の額                  本 殿              
            
                          浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社は字川輪の鎮守であり。御祭神に木花咲邪比売命をお祀りしています。社伝によりますと創建年代は不詳ですが、永正年間(1504-21)に鉢形城主北条氏邦が深く信仰し、社殿を再興したといわれています。
 当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。当社の社殿は、今から106年前の明治33年に建設された後、昭和から平成の時代と、幾度かの営繕工事を重ねてまいりました。しかし、老朽化が急速に進み、改修工事を実施せざるを得ない状況となりました。
 そこで、平成18年5月6日に氏子総会を開催して協議したところ、出席者各位の賛同を得て、社殿改修の浄財を募り、改修工事の運びとなった次第です。改修総工事費は、553万5千円であり、平成18年10月9日に着工し、平成18年12月10日に完成しました。此処に改修工事の旨を石碑に刻み、後世に伝えるものであります。
                                                          
                                                                                                 境内石碑から引用
          
              
       社殿の左側の奥にある境内社(写真左・右) 
                神楽殿                    社殿脇にある「昇格参宮記念碑」 
            境内の一角に祀られている石灯篭と、その並びに聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

 浅間神社
 大字関にあり、木花咲邪比売命を祀る。創建の年代等不明であるが、伝えによれば永正年中(1504-1521)北条氏邦が深く当社を信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄進したといわれるが、慶長18年(1613)火災にあい文書等すべて烏有に帰したという。 
                                                         「美里町史」より引用                                                                                                                

拍手[0回]


鷺山古墳

  本庄市下浅見地区には小字「鷺山」という地区がある。この鷺山は児玉丘陵のほぼ中央、早稲田大学本庄キャンパスの西隣に位置する小高い丘がその発祥としている。
 児玉丘陵は旧児玉町(2006年1月より本庄市)東部から、本庄市南部に広がる丘陵である。児玉丘陵は三つの丘陵から成っていて、中心になるのは東西二つの丘陵である。西半分は生野(なまの)丘陵、東半分が浅見丘陵と呼ばれる部分で、100ヘクタールほどの面積を有する。生野丘陵はゴルフ場、浅見丘陵は早稲田大学本庄キャンパスとなっている。両丘陵は独立しており、間の平地には水田が広がっている。
 この水田の中にある小さな丘陵が鷺山である。面積は3.4ヘクタールほどしかないような小高い丘で、明治時代に郷土誌を著した河田羆は鷺山について「高さ44尺、共和村下浅見の南にあり、水田間に孤立し、鷺鳥多く集まるを以て此の名あり」と記している。高さ44尺(およそ13m)は周りの水田からの高さを表したものである。
所在地    埼玉県本庄市下浅見鷺山
区  分    埼玉県県指定史跡 
古墳規模   全長約60m、後方部幅約37m、同高約5.4m、前方部最大幅約30m  
埋葬者    不明
築造年代   4世紀前半?


            
 大久保山丘陵と生野山丘陵との中間にある小さな独立丘陵上にある全長60mの前方後方墳。但し埼玉県の文化財マップの遺跡詳細情報では前方後円墳と記載されている。
 古墳を時期区分する場合に用いられる分類名称で表現すると古式古墳(古墳時代初期の古墳)という。日本列島には500基ほどの前方後方墳が存在するらしいが、こと東日本に関していうと、東日本の前期古墳の多くは前方後方墳だということが分かってきている。特に下野国は100mを越える前方後方墳の数が4基、西隣の上野国にも2基存在し、どちらも築造年代は古墳時代前半で、大型の前方後円墳の出現前に築造されている。
 撮影時期が8月のため草木が丘陵地辺りを覆っているため、前方部も後方部も古墳なのかどうかも実見した第一印象はまったくしない。県内最古の前方後方墳で重要な古墳と思われるが説明等の案内板の類は一切無いのは寂しい。
            
                            鷺山古墳の標識
 鷺山古墳は東西方向におよそ150m、南北方向に500mほどの周囲の水田面から比高差7mで「く」の字形の小高い丘の頂点に築かれており、後方部の墳丘の頂点に標高84.42mの三角点がある。 鷺山古墳の全長は約60m、後方部の墳丘の高さは5.4m、後方部の一辺が37m、くびれ部の幅11mで前方部につながる。後方部は、厳密に方形ではなく、隅の部分が切り落とされたプランを呈している。
 前方部は初期古墳独特の墳丘が低いばち型(扇状にひらく形)で、10.5mまで後方部に対して74度でひらき、35度に屈曲しながら13mほど外側にひらく。前方部前面の最大幅は、30mである。前方部の盛土は後方部に近い部分が高くされ、標高80.3mであった。前方部全面の扇形に広がる部分は一段低くなっている。周溝がほぼ全周すると考えられ、幅は4.3m、深さ1mほどである。
 前方部と後方部をつなぐくびれ部の西側の周溝から焼成前底部穿孔の二重口縁壺が出土した。口縁部直径25cm、口縁部下端18cm、胴部の最大径が28.5cm、器高34cmで焼成後に赤彩されている。口縁部の「縁帯」の幅は8cmをはかり、直径1.8cmほどの円形の透かし孔が6対計12個あけられている。底部は6.4cmで焼成前に予めあけられた孔となっている。 そのほか、完形品の碗型土器、二重口縁壺の口縁部破片や、東海地方独特のS字状口縁台付甕の胴部と脚部をつなぐ部分の出土など初期古墳の特色を示す遺物が出土している。二重口縁の壺型土器と碗型土器は葬送儀礼の際に用いられ、墳丘に置かれたものが転落して周溝から発見されたと考えられる。
                                                  ウィキドペディアより引用
 

         
         標識の側面にはこの古墳の概要が書かれていて案内板も兼ねているようだ。

史跡 鷺山古墳
 この古墳は、一辺が約37メートルの後方部と撥型に開く前方部によって構成される。

 全長60メートルの前方後方墳である。この古墳からは、底部穿孔の壺形土器等が出土しており、4世紀前半の築造と推定される埼玉県内最古の古墳と考えることができる。
                                                     案内板説明文より引用
           
                  別角度から見てもわかるかどうか判別しない。
 標識の前には使用しているのかどうかも解らないトラクターが無造作に置かれている。数日後に再来訪した時も同様だった。遺跡整備にお金をかけながら、現状はあまり良くない状況だ。
 埼玉県内最古級の古墳でもあり、県の記念物・史跡に指定されている文化財でもある。もう少し整備等に力を注いでもらいたい、と正直感じた。

拍手[0回]