古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

葦原大神社

 所在地  埼玉県深谷市南阿賀野276
 御祭神  葦原醜男命
 社  挌  不詳
 例  祭  4月10日 春季大祭、10月19日 秋季例祭


       
 葦原大神社は血洗島 諏訪神社の通りを面したすぐ西側に鎮座している。参道の入り口から右側に諏訪神社の本殿が見えるくらいの近さだ。駐車場は社の東側に真言宗智山派蘆原山観音寺大福院が隣接しておりそのの駐車場を借りて参拝を行った。

 まず参道入口脇には庚申塔や大黒天、青面金剛が並んでいる。
          

          
            拝殿。これは隠岐造と書いてあるサイトを見つけたが詳細は不明

 葦原大神社の獅子舞は、子授けの御利益があり、当地出身で、長い間、子宝に恵まれなかった人が、子供が授かるように当社に祈願し、妻に獅子頭をかぶせてみたところ、程なく懐妊したことが評判となったことに始まる。秋の祭りの前日は、獅子頭をかぶりに遠方から毎年十数組の夫婦が訪れ参詣しており、そのほとんどに子供が授かっているという。
 しかし、祭神の葦原醜男命は大国主神の別名で武神としての性格を現す名であり、荒々しいイメージがあるのに対して神徳が女性の守り神であり、子授け及び安産の神というのはやや苦しい解釈ではないだろうか。

                        
                                      境内社、左は天神神社、右は手長神社               

 葦原大神社の祭神である葦原醜男命は別名大国主命という。
 この大国主命は多くの別名を持つ。
  • 大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意
  • 大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
  • 大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
  • 大名持神(おおなもち)
  • 八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
  • 葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
  • 大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀において別名
  • 大國魂大神(おほくにたま)- 国の魂、国を作った神、開拓者
  • 大國主大神
  • 顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
  • 国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
  • 所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
  • 幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
  • 杵築大神(きづきのおおかみ)

 葦原醜男命の名称を考えるに、「葦原」は葦原中津国や豊葦原瑞穂の国、つまり日本の美称であり、「醜男」は醜い男という意味ではなく、荒々しい男といった意味だそうだ。この神名から想像されるイメージは出雲神話で心優しい神として描かれているものとは違い、どちらかと言えば素戔嗚に近い。これは神徳の高さを現すと一般には説明されるているが、元々別の神であった神々を統合したためこのように多くの名前が存在すると思われる。出雲神の祖であるスサノオと共に、この神は記紀神話に登場する神の中で、最もポピュラーな神でありながら、最も謎が多い神の一人だ。

 また大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。別名の多さや妻子の多さは、明らかに大国主命が古代において広い地域で信仰されていた事を示している。そして信仰の広がりと共に各地域で信仰されていた土着の神と統合されたり、あるいは妻や子供に位置づけられた事を意味している。
 そういう意味において南阿賀野に鎮座する葦原大神社の神徳が女性の守り神であり、子授け及び安産の神というのはそのような経緯からきているのではないかと思われる。
 

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白山姫神社

 埼玉古墳群の北縁を旧の忍川(おしかわ)が流れている。この小川は行田市の埼玉地区と長野地区の境界となっており、白山古墳は長野地区の白山という地域の外れにある。埼玉古墳群の稲荷山古墳から北方300mほどの距離のところで意外と近くだ。
 元々は白山古墳群が存在し、かつては何基かの古墳が確認できたが、現在は白山古墳半壊)、神明山古墳(半壊)、愛宕山古墳(一部残存)を残すのみである。埼玉古墳群のすぐ北に存在する古墳群であり、現在埼玉古墳群と白山古墳群のある台地を隔てている旧忍川も古墳時代には存在しなかったことから、この白山古墳群も埼玉古墳群の中にカウントするべきという意見がある。この白山古墳の墳上に白山姫神社は存在する。社殿が墳丘の上に築かれているため、この古墳は別名「白山神社古墳」の名で呼ばれることもある。

所在地  埼玉県行田市長野字白山5959
御祭神  大己貴命
社  挌  不詳

      
地図リンク 
 白山姫神社は埼玉古墳群のすぐ北に存在する白山古墳上に鎮座する。この白山古墳はかつては前方後円墳ではないかと言われたこともあったというが、現在の説では墳形は直径50m、高さ、5,7mほどの円墳と言われている。細い農道の道路脇に白山姫神社の石の鳥居が建っていて鳥居をくぐり石段を登ると、比較的新しい造りの白山姫神社があり、その右手が一段高くなっていて、大きな木が繁茂してその付近が墳墓の頂きである。
          
          鳥居の奥に石段があり、その右側には白山古墳の案内板がある。

白山古墳

 この古墳は、埼玉古墳群の北端に位置する直径約50m、高さ5.7mの円墳です。墳丘の一部に白山姫神社がまつられていて、その東側に横穴式石室の奥壁と思われる緑泥片岩が露出しています。また、社殿前の石段右手に積まれている人頭大の角閃石安山岩も、石室の壁材であると言われています。
発掘調査が行われていないため、不明な点が多い古墳ですが、7世紀前半頃の築造と推測されており、埼玉古墳群終末期に位置する古墳であると考えられています。
7世紀前半としては卓越した規模の古墳で、埼玉古墳群の最高首長墓の変遷と、古墳群の終焉を考える上で、非常に重要な古墳であると思われます。
                                          行田市教育委員会案内板より引用

 白山姫神社の創建年代や由緒については不詳だが、当地名行田市長野字白山の地名由来となっている神社で、江戸時代には白山社と称していた。白山姫神社は、白山古墳の上に鎮座しており、白山古墳は、埼玉古墳群の北端であると考えられている。
         
                         白山姫神社社殿

 行田市は埼玉県の北部に位置し、その大半は平野部である。北には利根川、南は荒川があり、沖積平野と言われる地盤が柔らかい沖積層’と呼ばれる、形成年代が若く締め固まっていない地層で、地下水面も高く水分に富むため軟弱地盤である為、過去にも数多くの洪水などの水害の被害を受けたことは、遺跡等の発掘によって分かっている。ただ肥沃で平らであるため農耕に適する環境だったのだろう。

 この地域には埼玉古墳群の他にも多くの古墳が存在し、
「古墳の宝庫」と呼ばれている。ざっと書いてみても酒巻古墳群、小見古墳群、若小玉古墳群、若王子古墳群、斎条古墳群、白山古墳群、犬塚古墳群、佐間古墳群など。この狭い区域に埼玉古墳群以外にもなんと多くの古墳が存在しているか、いかにこの地域が5,6世紀に発達したかのなによりの証拠だろう。

         
 白山姫神社の右側には墳頂に突き出た石室奥壁があり、集会所改築の際、土取りで露出したといわれている。この石室奥壁は緑泥片岩といい、秩父地域から運ばれたものという。古墳の横穴式石室を形作っていた奥壁の一部ではないかと推定されていて発掘調査してみれば詳しいことがわかるのだが、実はこの古墳の本格的な調査はまだ行われていない。 地元に古くからある伝承のせいで、この古墳に手を付けると祟りがあるとされているからだとのことだ。その理屈で考えると、白山姫神社と墳頂には段差があり、この社を造った際に、削り取り平らにしたとと思われるのだが、その時には祟りはなかったのだろうか。神聖な社を造るのであれば大丈夫なのだろうか。


         
                          白山古墳外観

  上記の祟りの言い伝えさえなければ外観は女性的で、ある意味優美さを醸し出している。埼玉古墳群の最北方に位置する稲荷山古墳から北に300m位しか離れていない位置関係から推測すると、この地を延々150年近く支配していた豪族の王者か、限りなく近い近親者が埋葬されているのかもしれない。




                                   
                             

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血洗島 諏訪神社

 諏訪神社は血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。
 現在の拝殿は、大正五年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれている。
 境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
 なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある。
                                                      案内板より引用
所在地  埼玉県深谷市血洗島117-6
御祭神  建御名方命
社  挌  旧村社
例  祭  不明


      
 諏訪神社は下手計鹿島神社の西約1km、車で5分位の場所に鎮座している。日本の近代経済国家の基に多大な力を発揮し日本資本主義の父といわれ、銀行や企業の設立、国際親善、社会福祉等に尽力した渋沢栄一氏の生家が近くにあり、幼き日の氏もこの境内で遊び、獅子舞を踊ったという。
 1916年に造営した社殿は、氏の喜寿を記念して寄進によって建て替えられたものだそうで、開放感ある社の雰囲気、また参道も綺麗に整備され、鹿島神社等周辺の神社とまた違った別世界の空間がそこにはあった。
         
                    整備の行き届いた諏訪神社 参道
         
           
                                                           拝   殿
                   
                            本   殿

 諏訪神社の創建年代は明かでない。『大里郡神社誌』には、以下の伝説が記載されている。
  ・ ヤマトタケルノミコトが東征凱旋の時にこの地を通過し、社前に記念の植樹をした。
  ・ 平安中期の平将門の乱に源経基が竹の幌に布陣した際に、この神社で先勝祈願を行った。
  ・ 源平合戦の折り、岡部六弥太忠澄が戦勝祈願を行い、戦功を奏した。
 また慶長19年(1614)、この地は岡部領となり、領主安部摂津守は代々諏訪神社を武の神として崇敬し、正月には武運長久を祈願したといわれている。

 社殿の左側にある開放的な社叢とは全く異なったこの社の古の雰囲気のある空間があった。 写真左側の2社は境内社か、写真右側は末社だろうがどちらも詳細不明。


 諏訪神社は渋沢栄一氏の喜寿を記念して寄進によって建て替えられたものだから、ことさら氏の偉業を称える記述が多い。渋沢青渕翁喜寿碑や手水舎近くにある案内板も同様である。郷土の英雄に対して誇りをも持つ気持ちは大変素晴らしいことだが、純粋に神社参拝を行い、由緒等を真剣に学ぶ者にとってはそれが時として大きな壁になる時もある。難しいことだ。


 ところで諏訪神社が鎮座するこの血洗島という一風変わった地名の由来を調べてみると定説はなく、以下の諸説があるようだ。

 1  赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという。
 2  八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
 3  「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語で、その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが「地」の字がいつの間にか「血」となった。


 いずれも想像の域を越えないものであるが、気になる説として赤城の山霊をあげたい。「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説があり、神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題(中禅寺湖の領有権)で戦った。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦場ヶ原で戦った」という神話の中での戦いというが、これを神話上の空想の話とみるかどうかで展開が大きく変わる。
  筆者はこの話はある史実を遠い過去の神話に脚色したものである、と睨んでいるがどう思われるであろうか。

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    鹿島神社

     下手計地区に鎮座する鹿島神社は中瀬神社の南西方向にあり、下手計の鎮守の社である。当社の創建については。二つの経緯が考えられる。まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かって鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろから航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮の鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
     第二は、かって隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森・内ヶ島・田中(伊勢方の小字)などの村々などには「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
     いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞治二年(1363年)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えるとあるところから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
                                             「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
    所在地  埼玉県深谷市下手計1143
    御祭神  武甕槌尊
    社  挌  旧村社
    例  祭  11月15日 秋祭り


           
     鹿島神社は中瀬神社から群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線に戻り南下し、下手計交差点を右折すると約500m位で右側に鹿島神社の社号標石が見えてくる。駐車場は鳥居を潜ると社の広い空間があり、車両の轍の様子から可能とは思ったが、やはりここは思い直して社号標石の近くに車を停めて参拝を行った。 
     
                             鹿島神社の参道の様子
                               鳥居は鹿島鳥居
              
           参道右手側に枯れた御神木の欅があり、歴史を感じさせてくれる威圧感があった。
              
    鹿島神社
     創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
                                              昭和六十年三月 深谷上杉顕彰会
                                                           案内板より引用
                          
                                 拝   殿 
              拝殿には渋沢栄一が揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
                          
                      黒が基調の重厚感のある鹿島神社 本殿

     
           社殿の裏手には三峯講社                  本殿裏にある香取神社
                         
                                  神楽殿 
              
                          鹿島神社の右隣にある八坂神社
                      
                   八坂神社の奥に手計不動尊。奥に見えるのは納札所           
        
               

    藍香尾高翁頌徳碑について
     尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(1909)四月十八日に挙行されました。
     おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
     碑の高さは役四・五メートル、幅は役一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
     郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
                                                          平成十七年十月
                                                           案内板より引用
     

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    中瀬神社

     
    所在地  深谷市中瀬650
    御祭神  市杵嶋姫命 外十四柱
           又は弁才天、十五童子
    社  挌  旧村社
    由  緒
     当社は、古くは十五社大明神と称し、吉祥寺の持であった。祭神は弁才天と、その眷属である十五童子を祀っている。弁才天は古代インドの神話に出てくる神で、河を神格化し豊穣をもたらす神である。十五童子は、後世、弁才天を弁財天とも書き、福徳の神と信じられるようになった時、その神徳を表現したものである。才天が水辺や池中の小島に祀られている例が多いのは、
      河の神格化の考えが残っているためであり、当社の場合も、文亀年間(1501-04)、河田義光による開発と共に、利根川辺りに祀られたと考えられる。
     大正二年に村内の神社を合祀し、社名を中瀬神社と改めた。
                                             「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
    例  祭  11月23日 新嘗祭


            
     中瀬神社は群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線の上武大橋(南)交差点を右折した中瀬地区内にある。ただ上武大橋(南)交差点を右折し真っ直ぐな道であるわけではないので注意は必要だ。交差点から真東方向に約1km弱位にこの社は鎮座していると考えてくれれば良いと思う。駐車場は一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停め参拝を行った。
                
               
                                  拝   殿   
                
                               拝殿の奥にある本殿
     本殿は深谷市の文化財に指定されており、木造銅板葺平屋建で「天保十一年(1840)五月一日上棟 宮大工河田主計千豊」の書付が有るという。残念ながら現在覆い屋があり見ることはできない。

     この社が鎮座する中瀬地区はすぐ北に利根川があり、過去何度も洪水による被害を受けたであろうことは想像に難くない。社殿の基礎が数十センチ高く積まれているのも洪水対策用に造られたものだろう。のどかな田園風景の陰に隠れている歴史の別の一面も感じずにいられない。
                 
     

     中瀬神社の創立年代は不詳だが、古く中瀬村の鎮守と崇め、弁財天と十五童子がまつられた。元は「十五社大神社」(十五社様)の名で、字西原に鎮座していたが、大正2年に現在地に遷された。社宝の十五童子木像は、もとは十五社神社の神体だったという。
     明治41年、村長及び氏子惣代が、忠魂碑と征露記念碑の揮毫御礼のために、乃木大将邸を訪問した折りに、静子令夫人から寄贈された硯箱を、宝物として保存する。
     
     祭神である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)

     日本神話に登場する水の神で、『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命(さよりびめのみこと)とされており、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神宗像三女神という)の一柱とされている。市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている。後に仏教の弁才天と習合し、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えられている。



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