古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秩父神社

    武蔵国秩父郡は武蔵国の西北部の山岳地帯に位置し、1,000~2,000m級の山々が連なっている。四囲は、児玉、那賀、男衾、比企、入間、高麗、多摩の各郡と甲斐、信濃、上野の各国と接している。おおむね現秩父市、秩父郡に属する町村、飯能市西部の吾野地区、入間郡名栗村の地域で、『和名抄』は「知々夫」と訓じている。古代には、良質な馬産地かつ銅産地であり、それを財政的な基盤にして国造(知知夫国造)や桓武平氏流秩父氏の輩出をみた。
 令制国の制定以前には、知知夫国(ちちぶのくに)として独立した存在であった時期も存在していたことは『先代旧事本記』の巻1「国造本記」に垂神天皇朝に八意思金命10世孫の知知夫彦が知知夫国造に任じられ、大神をお祀りしたと記されていているが、「先代旧事本記」自体を偽書扱いする意見もあるので真偽の程は不明である。
 この「ちちぶ」の語源はハッキリ解っておらず、(1) 「知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)」の支配する国名から、 (2) 「チチ(銀杏)・ブ(生)」で銀杏の生える地の意、 (3) 秩父山中の鍾乳洞の石鍾乳(いしのち)の形から、 (4) 「茅萱」の生える地の意、 (5) 「チ(多数を表す接頭語または美称)・チブ(崖地)」の意など多くの説がある。

    
 所在地     埼玉県秩父市番場町1-3

     主祭神     八意思兼命   (政治、学問、工業、開運の祖神)
            知知夫彦命   (秩父地方開拓の祖神)
            天之御中主神  (北辰妙見として鎌倉時代に合祀)
             秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮、昭和28年に合祀)
     社  格     式内社(小)・国幣小社・別表神社・知知夫国新一の宮・武蔵国四の宮
     創  建     垂神天皇10年(紀元前87年)
                                            
        
 
 秩父神社は国道140号線「道の駅ちちぶ」を越え、次の上野町交差点を右折し、秩父鉄道の線路を越えるとほぼ正面に鳥居が見えてくる。境内に駐車場があり数十台分の駐車スペースがある。社殿裏側にもあるそうだがそれは今回確認しなかった。
            
 
       鳥居を抜けるとすぐ左側に由来書がある         有名な秩父夜祭の案内板もあった

  秩父神社の歴史は古い。『先代旧事本紀』によれば、創建は崇神天皇の時代までさかのぼる。国造(くにのみやつこ)の知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が祖神の八意思金命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが、当社の始まりとされている。

 当時の知知夫は現在の秩父および児玉地方をいう。『国造本紀』は知知夫彦命を知知夫の初代国造としている。その後、允恭天皇の御代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が知知夫彦を合わせ祀ったという。
秩父神社 由緒書
 悠遠且典雅な神秘に包まれる聖域秩父神社は躍進途上の秩父市の中央に鎮座し秩父三社巡りの三峰、宝登山両神社の中間にあって、古くから秩父総社延喜式内社、関東の古社として知られております。
 御創立は遠く二千有余年前、崇神天皇の御代秩父国造の始祖知知夫彦命が命の御祖神八意思金命を奉斎しました時と記録されております。その後東国の山域にも武家の勃興と共に漸く文化も開け、平安中期以降神仏習合の妙見信仰が加わりました。上下の尊崇、別けても朝廷の御崇敬は極めて篤く神階正四位下に進み武家の崇敬も深く現在の御社殿は戦国末期に兵火に炎上しましたのを徳川家康公が造営を進めたものです。当時の棟札が社宝とし保存されてあります。昭和三年十一月御即位の当日県社から国幣社に列格いたしました。畏くも、大正天皇は第二皇子雍仁親王殿下の宮家御創立に当り秩父宮家の称号を御宣賜あらせられ、その年殿下は親しく御奉告のため御参拝なされて乳の木壱樹を御手植えなされましたが、今は亭々として生い茂って参りましたところ、先年、宮様の薨去遊ばされるや御遺徳を偲びまつる郡市民は御由緒も深いこの聖域に御尊霊を御奉斎申し上げました。
 先年は貞明皇后、高松宮殿下の御参拝を辱うしております。なお、秩父宮妃殿下の御参拝を戴き、秩父神社復興奉賛事業完遂奉祝祭(昭和四十七年十月五日)を斎行しましたが、お歌を賜りました。
  神垣も新になりて みゆかりの 秩父のさとわ いよよ栄えむ
                    
                               神楽殿
                     
                               神  門
                     
                               拝  殿
 
 西暦708年、近くの秩父黒谷の地で自然銅が発見され、朝廷に献上された。朝廷はこれを慶事として、慶雲5年を和銅元年に改元したことはよく知られている。和銅発見以来、この地は朝廷とは深い関係にあつたようだ。しかし知知夫の国が武蔵の国に併合されて秩父郡となった後、『延喜式』神名帳に秩父郡の小社として社名が見えて以降、文献からこの社は消えてしまい、代わりに平安時代中期になって妙見信仰が導入されると、秩父神社は「妙見宮」、「妙見社」と称さ れるようになり、中世以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く「秩父妙味宮」として隆盛を極めた

             
                         絢爛豪華な秩父神社 本殿
 
 明治になって神仏分離令によって、社名は「秩父神社」に復した。昭和3年(1928)には、県社から国弊社に社格が上げられた。昭和28年(1953) 12月には、秩父宮殿下の霊を奉斎し、祭神として合祀した。秩父宮殿下を合祀したのは、大正天皇の第二子・雍仁親王(やすひとしんのう)の宮家創立にあた り、秩父宮家の称号が採用されたことによる。秩父宮家が創立された年、親王は当社に参拝し、宮家創設を報告されるとともに、乳の木の植樹をなされたという

 また本殿の裏には天神地祇社が鎮座している。全国の一の宮が祀られていて、全てに参拝すれば全国の一の宮へ参拝したことになるそうだ。
                
                                               秩父神社の裏にある天神地祇社

 ところで「秩父」の語源、祭神に関して奇妙な記述がある書物があり、参考資料として紹介したい。

秩父 チチブ 
 
続日本紀・和銅元年正月条に「武蔵国秩父郡献和銅、故改慶雲五年而、和銅元年為而御世年号止定賜」と、秩父郡からの和銅献上にちなみ、年号を和銅と改めるとあり。平城宮跡出土木簡に「天平十七年、武蔵国秩父郡大贄鼓一斗」と見ゆ。承平五年和名抄に秩父郡を知々夫と註す。チチブの名義について記す。日本書紀仲哀天皇八年条に栲衾新羅国。万葉集に多久夫須麻新羅。播磨国風土記に白衾新羅国。出雲国風土記に栲衾志羅紀と見ゆ。栲衾(たくぶすま)は、梶や楮などの木の皮の繊維で織った綿布の夜具で、白いから新羅(しら)の枕詞に使われた。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。日本書記には、栲幡千々姫(たくはたちちひめ)、万幡姫(よろづはたひめ)、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、栲幡千千姫万幡姫命(たくはたちちひめよろづはたひめのみこと)、天万栲幡千幡媛(あめのよろづたくはたちはたひめ)と、この姫神は異伝が多いが、秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。秩父郡へ鎌倉八幡宮を勧請したわけでも無く、源氏の白旗以前から此の旗を用いていた。(中略)

 ここでは最初に正史に記された文献資料の紹介と、概略を説明してから、「白」の語源を「新羅」(しら)として、白旗も新羅が発祥であること、源氏よりも早く使用していたことを記述している。また先代旧事本記を引用して、ニギハヤヒ尊の出生も説明している。
 さて次から問題の記述が始まる。

一 秩父国造 秩父郡は古代の秩父国なり。古代氏族系譜集成に「八意思兼命―天表春命―阿豆佐美命―加祢夜須命―伊豆?命―阿智別命―阿智山祇命―味見命(秩父国造祖)、弟味津彦命(信濃阿智祝祖)」と見ゆ。延喜式神名帳の阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)の祭神は思兼命と天表春命にて、思兼命を曲尺・工匠の神として建築業者の信仰となっている。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「三十二人を令て並て防衛と為し、天降し供へ奉らしむ。八意思兼神の児、表春命・信乃阿智祝部等祖、天下春命・武蔵秩父国造等祖」。卷十・国造本紀に「知々夫国造。瑞籬朝(崇神天皇)の御世、八意思金命の十世の孫、知知夫彦命を国造(くにのみっこ)に定め賜ふ。大神(おおがみ)を拝詞(いつきまつる)る」と見ゆ。八意思金命(やごころおもいかねのみこと)は、高天原第一の智者と云われるが、思金は重い鉄(くろがね)の意味で鉱山鍛冶師の首領である。子孫の加祢夜須命の金安も鉱山師の意味がある。知々夫彦命は代々の襲名で数代・数百年の人名である。

 思兼命は古事記や日本書紀においては
「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」で、思想や思考、知恵を神格化したものと考えられている。「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在であったはずの神であるのに対して、長野県阿智神社では曲尺、工匠、建築業者の神として登場しており、国造本記では「八意思金命」と一字違いの名前。とはいえ「金」という鉱山に関する名称としてふさわしいし、その鉱山鍛冶師の首領という。
 この段において、思兼命は記紀とは全く違った系図の人物として登場している。また。『先代旧事本紀』によれば、信之(信濃)阿智祝と秩父国造の祖神とされているが、信濃国は有名な諏訪大社のお膝元で、記紀で記す思兼命と諏訪大社の祭神建御名方神は敵対関係だったはずだ。

二 祭神の大神 

 知々夫彦命は「大神を拝詞る」とあり、大神とは何神であろうか。風土記稿・妙見社条に「当社は神名帳に載せたる秩父神社なり。祭神は知々夫彦命とも、大己貴尊とも云ふ。当今の縁起には大和国三輪大明神を写など記して其説定かならず」と。秩父郡誌に「大神とは果たして何神なるべきか、知知夫彦命が御自らの祖なる八意思兼命を祀られしなるべきか。吉田東吾博士は『崇神の朝、国造を置きたまひし時より国神の祭らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑なかるべし』と論定す。現今県社秩父神社は八思兼命・知知夫彦命を祭神とし、大国主命・素戔鳴尊を配祀せり」と。しかし、延喜式には「秩父神社、一座」と見え、祭神は一柱であった。出雲国風土記には大己貴命(おおなむちのみこと)を大神と称している。別名大物主命、或は大国主命とも云われる。崇神紀に「三輪山の大物主命は腰紐ほどの蛇になって、とぐろを巻いていた」とあり。蛇は大物主命の化身で鍛冶神なり。常陸国風土記逸文・大神の駅家条に「新治郡駅家、名を大神と曰ふ。然称ふ所以は、大蛇(おおかみ)多に在(す)めり。因りて駅家に名づく」と。日本書紀・神代上に「思兼神、石凝姥を以ちて冶工とし、天香山の金を採りて日矛に作る。又真名鹿の皮を全剥にして、天羽鞴(風を起すふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり」と見ゆ。和歌山市秋月の日前国懸神宮の祭神は日前神宮(ひのくま)が日前大神を主神として相殿に思兼命・石凝姥命(鍛冶集団の部族長)を祀り、国懸神宮(くにかかす)が国懸大神を主神として相殿に玉祖命・天御影命・鈿女命(三命は鍛冶神)を祀る。国懸神は寛文九年刊本の日本書紀にはカラクニカラノカミと註す。日本書紀持統天皇六年条に紀伊大神は朝廷から「新羅調」を奉られている。日本書紀・宝剣出現条に素戔鳴尊の子・五十猛命を「即紀伊国所坐大神是也」と見ゆ。以上のことから、大神は天照大神では無く、其地の氏族が奉斎した祖先神である。更級日記に「武蔵国武芝寺あり、ははさうなどいふ所あり」と。足立郡大宮町氷川神社であり、葉葉染(ははそ)の古語は蛇である。秩父神社の社殿が立っている所を「母巣ノ森」と称す。ハハソと云う。妙見宮縁起に「允恭天皇の三十四とせ丁亥ともふすに、命(知々夫彦)の九かえり遠つ世継(九世の子孫)の狭手男臣(さておのおみ)をあげもふして、詔旨を蒙りたうへて、遠き御祖(みおや)の御璽を葉葉染の杜にまつらひ給ふ、此時始めて知知夫神社と請しまつり給ふ也」と見ゆ。秩父神社夜祭に縄蛇を榊樽に巻きつけている。知々彦命は祖先神の鉱山鍛冶師首領思金命を大神として斎き祭り、其の地をハハソの杜と称した。

 この記述をどのように解釈するか。これ以降の説明は長くなるので別稿にて説明したい。ただ少なくとも知知夫国造の出現以前の秩父地方の歴史のページの一端がここに覗かさている。




 



 



 

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大宮氷川神社

  大宮氷川神社は社伝によれば孝昭天皇3年に創建された。成務天皇の時代に出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」に由来するという説がある。延喜式神名帳では名神大社に列している。
  高鼻台地の上に鎮座。古代この辺りは見沼原と呼ばれ、湖沼が複雑に入り組んでいたと考えられている。その名残りが、社殿背後に広がる池(現大宮公園)であり、神社境内の神池である。古代の武藏国造家は沼池に面した高台に神を祀り、居所を構えた。これが氷川神社であり、又国造の居所であつたと考えられる足立神社(水判土(みつはた))である。
  江戸時代には三の鳥居を入つた玉垣内に、正面に簸王子社(祭神大己貴命)、後方、御手洗池の奥に左に男体社(祭神素戔嗚神)、右に女体社(祭神稲田姫命)が鎭座し、男体・女体社の間に、大祭の時に神輿を安置する仮殿があつた。明治以降はひとつにまとめられた。
 宮司である東角井氏は代々往古より祭祀を司っており、平成10年現在で96代を数えている。

  所在地          
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407
  主祭神           須佐之男命、稲田姫、大己貴命
  社  格           式内社(名神大社,月次/新嘗)、武蔵国一宮,旧官幣大社,勅裁社、別表神社
  創  建           孝昭天皇3年(紀元前437年)
  本殿の様式    本殿銅板葺流造
  例  祭     8月1日

               

  氷川神社はさいたま市大宮区、大宮公園内に鎮座する。一の鳥居は境内から約2キロ南。一直線に伸びる参道は長くて、JR「さいたま新都心駅」の近くにある.。氷川神社は武蔵国延喜式内社、一の宮で、旧官幣大社の格式を誇る。。また、埼玉県・東京都を中心に200社以上数える氷川神社の本宮でもある。ちなみに大宮市は”武蔵国一の宮”である氷川神社の門前町として栄えたところで、その地名は、この神社が「おおいなる宮居」であったことに由来するという。 
                               
                                               二の鳥居前にある武蔵国一宮標柱
 

  平安時代以前の武蔵国の神社は、延喜式神名帳によると大社2座2社・小社42座の計44座が記載されていて、大社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金佐奈神社(現 金鑽神社)で、どちらも名神大社に列していた。
 更に、武蔵国の総社は大國魂神社(東京都府中市宮町)で、別名・六所宮と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神が祀られていた。


  一宮 小野神社 
(東京都多摩市一ノ宮。主祭神:小野大神=天下春命)
  二宮 二宮神社 (東京都あきる野市二宮。主祭神:小河大神=国常立尊)
  三宮 氷川神社 (埼玉県さいたま市大宮区高鼻町。主祭神:氷川大神=須佐之男命、稲
                            田姫命)
  四宮 秩父神社 (埼玉県秩父市番場町。主祭神:秩父大神=八意思兼命、知知夫彦命)
  五宮 金鑽神社 (埼玉県神川町二宮。主祭神:金佐奈大神=天照大神、素盞鳴尊)
  六宮 杉山神社 (比定社が複数あるが、多くは横浜市内に集中する)

 
上記のように、一宮は元々は小野神社だったが、氷川神社が一宮と称されるようになってからは、五宮の金鑽神社が二宮とされるようになり、さいたま市緑区宮本の氷川女體神社も元は氷川神社から分かれたもので、江戸時代以降一宮とされるようになったようだ。
                                
                  境内入ってすぐ左側境内の配置図、由緒などの書かれた大きな案内板がある。
氷川神社
 所在地 大宮市高鼻町四ノ一ノ一
 氷川神社は、社記によると第五代孝昭天皇の三年四月未の日の創立と伝えられる。
 当社は、古くから歴朝や武将の尊崇をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。
古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また、成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引きつれてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。その後、聖武天皇(七二四~四九年)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、ついで称徳天皇の天平神護二年(七六六)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。さらに醍醐天皇の延長五年(九二七)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。
 このほか、鎌倉時代には、治承四年(一一八〇)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長九年(一六〇四)には、徳川氏より社領三百石が寄進され、また、文禄五年(一五九六)と寛文七年(一六六七)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。
その後、明治元年(一八六八)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇みずから親拝になった。同四年官幣大社となり、同十五年に本殿・拝殿などを改造し、さらに昭和十五年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。
 祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。
 例大祭は八月一日。そのほか神事の中で特に有名なのが十二月十日の大湯祭である。
 昭和六十年三月 埼玉県・大宮市

由緒 
  氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っています。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。
 明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。次いで明治四年には官幣大社に列せられました。
 昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。
                                                                                                                 社頭掲示板より引用

                          
                                     神橋を越えるとそこには鮮やかな朱の楼門
           
                   楼門を過ぎると正面にある舞殿
 
 かつての見沼の畔にはこの大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現在の中山神社)、そして三室の氷川女体神社が一直線に並んでいて、この三社が男体社・女体社・簸王子社としてこのあたり一体の氷川神社を象っており、この三社を総称して氷川神社と考える説もあるようだ。また確認してはいないが氷川神社、所沢山口の中氷川神社、奥多摩氷川の奥氷川神社がそれぞれ、本社・中社・奥社の関係で一直線に並んでいるという。

 氷川神社は全国に二百二十八社あり、埼玉県に百六十二社、東京都に五十九社、茨城県・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一社ずつある。そのほとんどが関東の地に集まっており、その中心が埼玉県大宮の氷川神社である。その多くは東方の元荒川と西方の多摩川とに囲まれた武蔵国に九十八パーセントの氷川神社が集中している。現代風の言い方をすれば「地域密着型社」となろうか。
  

                                        
 
ところで氷川神社には2,000年以上の歴史のある社だから、当然神社保有の自慢の文化財の一つや二つは歴史と格式のある神社ならば存在するし、それが神社の風格、重みに繋がるものだ。しかしこの社にはそれがまったく存在しない。正確にいうと埼玉県指定有形文化財として氷川神社行幸絵巻(附原本、下絵)があるのみだ。鹿島神宮には国宝の布都御魂を保有しているし、氷川女体神社は、鎌倉~室町期の文化財を社宝として多く蔵することから「埼玉の正倉院」と称されることに対してあまりにも対照的だ。

 一体氷川神社の中で、また今に至る過去において何が起こったのだろうか。

 神社の境内は見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に立っている。氷川神社も元々は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられているが、そこからどのような過程があって延喜式時代に名神大、月次新嘗まで格式を上げたのだろうか。この社も謎が多く存在する。




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鷲宮神社

 鷲宮神社が鎮座する旧鷲宮町、現久喜市鷲宮は古墳時代の土師部の居住地の宮「土師宮」の転訛であるという。埼玉県東部に位置し、北葛飾(きたかつしか)郡の町で1995年当時の人口は3万4065人。利根川中流の低地を占め,古利根川が町の中央を南流する。中心集落の鷲宮は古くから武将の信仰を集めた鷲宮神社の門前町で,江戸時代には穀物や木綿を取引する市が立っていた。また瓦の生産でも知られた。近年までは米作と野菜栽培を中心とする純農村地域であったが,1971年に日本住宅公団(現、住宅・都市整備公団)の大規模な住宅団地が造成されて以来、東武伊勢崎線鷲宮駅を中心に通勤住宅地として開発が進んでいる。
  伝承では紀元前148年から紀元前29年頃に設立したとされ、一般的に関東最古の神社とされている。ただし『延喜式神名帳』や『国史』に記載がなく、現存する資料では1251年(建長3年)に北条時頼が奉幣祈願したことが『吾妻鏡』に記述されているのが最初である。残されている文化財もそのころのものが最古である。

 最近では、アニメ「らき☆すた」の神社モデルとされ、絵馬などが用意され、当地の町興しに多大なる影響を与えているそうだ。

  所在地         埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号
  主祭神          天穂日命(武蔵国造の祖),武夷鳥命(天穂日命の御子神)
                     大己貴命(大国主命、出雲族の神)
 
社  格         准勅祭社、県社、別表神社
  社  紋            三つ巴
  例  祭         三月二十八日
  特殊事等     十二月初酉の日 大酉祭

                  

  鷲宮神社は東武伊勢崎線鷲宮駅から徒歩5分に鎮座している。ちなみに地名はわしみやだが神社名はわしのみやと言う。かつては鷲大明神〔わしのだいみょうじん〕、浮き島大明神ともよばれた。中世の資料には「鷲宮〔わしのみや〕」と表記されることが多く、『新編武蔵風土記稿』には「鷲明神社〔わしのみょうじんしゃ〕」とある。
            
                        鷲宮神社入口の鳥居

  社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために、武蔵国に到着し、天穂日の供の出雲族27部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まる、と伝えている。その後日本武尊が東国を平定した際、別宮を建てて天穂日命とその子神武夷鳥命を祀ったという。現在の本殿はその別宮にあたる。崇神天皇の御代には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。
景行天皇の御代には日本武尊〔やまとたけるのみこと〕が社殿を造営し、桓武天皇の御代には坂上田村麻呂〔さかのうえのたむらまろ〕が武運長久を祈り、奥州鷲の巣に当社の分社を祀ったと伝える。
 
ただし、その社伝の言い伝えは「延喜式神名帳」、日本書紀等の「国史」には記載がなく当社が初めて登場する文献は「吾妻鏡」で13世紀中旬に当たる。

 境内には縄文から古墳時代にかけての複合遺跡である「鷲宮堀内遺跡」もあり、縄文時代の住居跡や土器などが沢山発掘されている。大昔からここに神を祀っていたのだろう。歴史ある神社には遺跡がある場合が多い。

                     
        「土師一流催場神楽」(はじいちりゅうさいばかぐら、国指定重要無形文化財)
  「土師一流催場神楽」は
関東神楽の源流
とも言われていて、この神楽は鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に、建長3年(1251年)4月に鷺宮神社で神楽が行われた、との記載がある。江戸時代の享保以前には三十六座の曲目があったが、それを時の大宮司であった藤原国久によって、現在の十二座の曲目に再編成されたとされる。実際は、十二座の曲目以外に、外一座と番外一座、それに端神楽も演じられる。
                       
                          鷲宮神社拝殿
  中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く、歴史上有利な武将だけでも 藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東管領上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ、武運長久等を祈る幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営等がなされた。
 
 なかでも江戸時代には、四百石の神領を与えられ、代々の将軍の名で朱印状が残されている。ちなみのこの鷲宮神社の社格の高さを表すものとしては、武蔵国内においては大國魂神社の五百石に次ぐ、2番目の規模という。
                       

                                 鷲宮神社本殿(右側 祭神 天穂日命・武夷鳥命)
                   別宮神崎神社本殿(左側 祭神 大己貴命)
 

  鷲宮神社は埼玉郡内に鎮座する古社であり、また縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡である「鷲宮堀内遺跡」もあり、縄文時代の住居跡や土器などが沢山発掘されているように、決して未開の地ではない。にも関わらず10世紀初頭に編集された延喜式内社には名前はない。式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されていると思われる。

 その一方当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)というが、この鷲宮神社はそれすら明記されていない。どういうことだろうか。

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ご挨拶

 『古社への誘い 神社散策記』は、埼玉県北部を中心に近辺県の神社を探訪し、紹介する記録です。現在私は埼玉県北部に在住し、休日を利用してドライブ感覚で参拝できる範囲の神社を逐次紹介しています。従って休日等の関係上、遠隔地に参拝することができませんが、可能な限り参拝し、紹介したいと思っています。



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