古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長浜久保皇大神社及び長浜丹生神社

 武蔵国賀美郡は式内社が4座あったというが、その中の長浜地区の小さなエリアには式内社と比定されている論社が2社存在している。長幡部神社と皇大神社である。この2社は神流川に沿って南北に鎮座していて、元々は神流川を神として祀っていた社なのではないかと考えられられる。というのも皇大神社が鎮座する長浜字久保の「久保」は「窪」が原語であると考えられ、蛇行していた神流川の曲がりくねった跡が窪地となり、後代その地に人々が暮らしていく過程でその地域の特徴である「窪」が「久保」と改名されたと現時点では筆者は推測する。
所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜494
御祭神   大日女貴命(天照皇大御神)
社  挌   旧村社
例  祭   10月19日 秋祭り  3月19日 例大祭

        
 長浜久保皇大神社は、埼玉県児玉郡上里町と神川町との境である長浜地区久保に鎮座している。非常に狭くコンパクトに纏まった社という印象。駐車スペースはあるにはあるが、神社の境内にある集会所の手前にあり、そこに停めると後々写真撮影時に困ったことになるので、社殿とそこに沿ってある道路の間に多少のスペースがあるのでそこに駐車して参拝を行った。
  
  元々は神明社と呼称していた。かつては当地に稲荷社(一説にはこの稲荷社こそ式内社とも言う)が祀られていたというが、いつのころか長幡部神社(式内社)に合祀され、その後に神明社が祀られ、明治期に皇大神社となったという。
 当社も明治41年に長幡部神社(式内社)に合祀されたが、社殿等はそのまま残され、大東亜戦争後に当地に遷座され皇大神社として復したという。

                     
                            長浜久保皇大神社社殿
            
                              社殿内部
 上里町長浜にはこの皇大神社と同名の社が近隣に鎮座しているが、久保の皇大神社が街道沿いにある関係から式内社の論社と思われるが確信はない。武蔵国にあって北部賀美郡の式内社の比定が非常に難しいのは、過去度々発生した自然災害による社の消滅や古文書の紛失、または社自体の移動、それに後世の執拗に合祀を繰り返した結果ではないかと考えられる。
           
                            境内にある境内社



丹生神社
所在地    埼玉県児玉郡上里町長浜1294
御祭神    埴山比売神 少名彦命 菅原道真
社  挌    無各社
例  祭    3月19日(近くの日曜日) 春祭り
                
 丹生神社は長幡部神社の西側約500mの場所に鎮座していて、目の前には神流川の土手が見える。案内板から明治41年長幡部神社の境内社に移転したが、昭和22年近隣の氏子の希望により旧地のこの場所に遷されたという。
 
      社殿の手前右側にある案内板                     社    殿
           
                         社殿の右側にある境内社
境内社というよりもその手前にある石段に注目した。どう見ても古墳の石棺にしか見えない。上里町では、古墳時代の人が住んだ住居跡や村が発見されている。特に古墳時代後半の6世紀の村の跡(集落跡)が見つかっていて、このほかにも、帯刀や神保原・長浜・七本木・大御堂には、豪族の墓である古墳が数多く造られている。この石段も嘗てあった古墳の名残りだったのだろうか。


拍手[1回]


長幡部神社

 長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は,JR八高線群馬藤岡駅の東南東約2.5kmの田園地帯の中に鎮座する。
創立年は不詳。「延喜式」所載の武蔵国賀美郡の「長幡部神社」だと考えられているが,天正年間(1573-1591)の兵火によって古記録が失われている。伝承では,神流川の洪水のため天永年間(1110-1112)に現在地に遷したという。
 祭神の天羽槌雄命は機織の神である。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。
所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜1370
御祭神   天羽槌雄命 埴山姫命、『巡礼旧神祠記』岡象女命
        『武藏国式内四十四座神社命附』姫大神、『神社覈録』比咩大神、『地理志料』大根王
社  挌   延喜内式内社 旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

      
 長幡部神社は当初は神流川沿岸の西的場に鎮座していたという。藤武橋の東詰下流の、水天宮と刻まれた石碑が旧地との説もある。平安期の洪水(1110年)で社地が流失し現在地に遷座した。天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した。
           
                        長幡部神社正面鳥居
 この社は神流川西岸に鎮座している。神流川は群馬県及び埼玉県を流れる利根川水系烏川の第2支流であり一般河川である。群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、流域面積407.0km2、幹線流路延長87.4km、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻である。神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、太古の恐竜の足跡の化石、三波石峡など観光資源が多い。
 神流川という名前も神秘的な名だ。武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から流れる川の意と言われ、昔は感納川、甘奈川ともかかれることがあるそうだ。神(カム)の川という意味で、古くはカミノ川と呼ばれ、やがて神名川と変わり、そして、字が変化して神流川になったといわれている。

        鳥居の左側にある案内板                  右側にある社号標石 
長幡部神社    上里町大字長浜字長幡前1370
神流川流域に位置する古代の賀美郡内には、『延喜式』神明帳に登載されている神社として、当社「長幡部神社」と「今城青坂稲実神社」「今木青坂稲実荒御魂神社」「今城青八坂池上神社」の四社がある。これらは、いずれもこの地に進出してきた渡来系氏族が奉斎した神社として考えられている。長幡部は機織りの技術を持った集団が祀った神社を社名で表したと考えられる。
            
                            覆堂形式の社殿
            
                              内部撮影
 祭神は,大根命,姫大神,罔象女命の三説がある。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。なお,当社を「延喜式」の今城青八坂稻實神社〈いまきあをやさかいなみのじんじゃ〉に比定する説,今城青八坂稻實荒御魂神社〈いまきあをやさかいなみあらみたまのじんじゃ〉に比定する説,今城青坂稻實池上神社〈いまきあをさかいなみのいけがみのじんじゃ〉に比定する説がある。いずれも同じ武蔵国賀美郡の神社である。現在の祭神は,天羽槌雄命,埴山姫命,菅原道真,倉稲魂命,建御名方命,大日孁貴命である。
            
                           境内社 稲荷社等
     大正二年(1913)に稲荷神社(海老ケ窪),諏訪神社(中長),皇大神社(柳町)を合祀した。

 長幡部神社を含む賀美郡の4座はいづれも渡来系氏族によって信仰されたものと思われる。この社名の長幡部は紡織集団(幡部)を示し、他の3座の今城は稲作集団を示していると思われる。
 この帰化系氏族集団の一つ「東漢氏」は、「記紀」によると応神天皇の20年(289年と言われている)9月に渡来したと記されている。

「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」

 
また『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している。
 
 誉田天皇
諡応神の御世、本国の乱を避けて、母並びに妻子、母弟・遷興徳、七姓の漢人等を率ゐて帰化す。七姓は第一段古記、段光公字畠等、一に云ふ員姓是、高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。次に李姓。是、刑部史の祖なり。次に皂郭姓。是、坂合部首、佐大首等の祖なり。次に朱姓。是、小市佐、秦、宜等の祖なり。次に多姓。是、檜前調使等の祖なり。次に皀姓。是、大和国宇太郡佐波多村主長幡部等の祖なり。次に高姓。是、檜前村主の祖なり。

 桧前(ひのくま)氏は『続日本紀』光仁条は、東漢の後裔である坂上苅田麻呂の奏上をこう記されている。
 「檜前忌寸(いみき)の一族をもって、大和国高市(たけち)郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主(あちのおみ)が、軽嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から17県の人民を率いて帰化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜り居を定めたことによります。およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と17県の人民が全土いたるところに居住しており・・・」
 

 檜前舎人や檜前君を称した人々は、後の史からみて上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 例えば武蔵国賀美郡 の檜前舎人直 中加麿の存在がそれを物語る。賀美郡の対岸 利根川に面して上野国 佐位郡(現伊勢崎市)があり、上野国那波郡の檜前公は、後に上毛野 朝臣(かみつけの あそん)になったことが確認され、佐位郡の檜前君老刀自も、上毛野一族となったことがわかる。またそのとなり那波郡に一例の檜前氏が確認できるので、檜前氏はこの北武蔵に一大根拠地を持っていたことになる。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも]、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。ただこの伝承はかなりの無理があるように見え、仏教普及の方便として流布したものと考えられる。
 では事実はいかなる経緯があったのだろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏は同族関係にあったと推測される。

 長幡部に関して文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記されている。また皇別氏族として『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、(三野国之本巣国造・長幡部連之祖)つまり美濃の本巣国造と同族であるという。
 常陸国、現茨城県常陸太田市に同名の長幡部神社が鎮座している。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は綺日女命(かむはたひめのみこと)、多弖命(たてのみこと)。当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝えている。、『常陸国風土記』の記述からは皇別氏族として長幡部の由緒が記されていて、渡来系の逸話が見えてこない。

 賀美郡の長幡部神社は元々は渡来系氏族である長幡部氏が桧前氏と共に賀美郡に移住し、その地域の守護神として祀った社であろう。御祭神の天羽槌雄命や罔象女神 、埴安姫命等はその系統に入ると思われる。しかしある時期、少なくも天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した1582年以降に茨城県常陸太田市の長幡部神社が賀美郡に同名の社を造ったのではないだろうか。この祭神の姫大神は綺日女命とも言われていて、また大根王は多弖命との説(多弖命の文字が、多尼命の誤字で、「おおね」に通じる)もある。常陸国長幡部神社の平成祭データには以下の記述がある。

 長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。

 ここではハッキリと倭文織と織り方の区別がされて、関東一円の織物の源流がこの常陸国長幡部にあることが記されている。上記の真偽の程はともかく、織物の伝播とともに長幡部という名前もその御祭神もこの地に移った可能性もあるのではないだろうか。
 

拍手[1回]


五明天神社

 五明天神社は上里サービスエリアの南西側に鎮座している。
 「いまき」が「今来」で新米の者、つまり渡来系氏族をあらわし、渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し「稲魂」をまつる神社を建立したのが「稲実」であろうとされている。御神体である神代石(高さ67cm、太さ13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれているという。
所在地   埼玉県児玉郡上里町五明871
御祭神   稚産靈神 豊宇気毘売神 大山祇命 日本武尊
社  挌   旧指定村社
例  祭   10月19日 秋祭り

       
 創立年代不明。旧社格は村社。從來村の鎭守にして當村内大輻寺持なりしを、維新の際、神職の受持となり、往古より圓形の神代石に古文を以て刻したる者傳來し居りしが、文學に疎く之を解する事を得ざりしが、今日に至り漸く延喜式内今城青坂稲實神社と明瞭し、且亦境内を今城林と云ひ傳來りしを、天正年中(1573~92)神流川合戦の際瀧川一益此地に陣を転し、大に勝利ありしを以て転陣林と称し來たれり。
                                                   昭和27年神社明細帳
             
                           正面一の鳥居
 
 一の鳥居から真っ直ぐ参道を進むと五明集会所があり、そこを左に90度曲がると二の鳥居がある(写真左)。その二の鳥居の向かって右側に案内板(同右)がある。

天神社  所在地 児玉郡上里町五明871
 天神社の祭神は稚産霊神、豊受氣毘売神、大山祇命、日本武尊の四神である。
 当社の創立年代は不明であるが、延喜5年(905)に藤原時平らが勅を受けて編集した廷喜式神明帳に載る賀美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲実神社であると伝えられているので、かなり古い社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ67cm、太さ約13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
 現在ある社殿は享保7年(1722)の再建で、天保年間(1830~44に書かれた中岩満次郎道純の祈願書が残されている。
 明治10年に白山神社を、同42年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
 また、境内神社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
 なお、当社には神楽が伝承されていたが、現在は中断されている。
 昭和60年3月 埼玉県 上里町
                                                        案内板より引用
          
 現在の境内は決して広くはないが一の鳥居から集会所までにある程度の空間もあり、往時はかなりの大きな社だったろうと推測できる。また社全体が綺麗に整備もされ、参拝の時期も新緑が広がる季節でもあってゆっくり参拝を楽しむことができた。居心地の良い雰囲気の社。

             
       参道の途中右側には貴船大神、大己貴命、素戔嗚命、国嶽霊神等の石碑群が並ぶ。
          
                             拝    殿
            
                         本殿裏には丹生社あり。 

       社殿手前左側には神楽殿                 社殿の右側には境内社
                               諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等が並ぶ。

 『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ」
と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832)に上州新田郡の岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄付したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくものであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含めて六社あり、定かでない。
 『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とある。
 明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、明治四十一年には丹生社を合祀した。
                                           埼玉の神社・埼玉県神社庁より引用

拍手[0回]


七本木神社

  上里町は、神流川扇状地、本庄台地、沖積低地の三区の地形上に立地し、東西6km南北5,5kmのやや菱形を成し、海抜最高85m最低50mで、標高差35mの非常に緩やかな傾斜をしている平坦地である。首都圏から85kmに位置しており、菱形の本町を囲むように神流川と烏川が接している。
 埼玉県地震被害想定調査によるとプレート境界の地震は西埼玉地震、活断層の地震は深谷断層、神川断層、平井断層、櫛引断層等が想定されているが、本町では地盤が比較的堅固なため全体的に液状化の可能性は低い状況である一方、沖積粘性土地盤である町域の北部に液状化の可能性のやや高い区域が分布しているという。
 七本木地区は本庄台地上に位置し、埼玉県道23号線を通して本庄市との交通の便もあり、新しい家屋も並ぶ綺麗な地区だ。この七本木地区に当社は鎮座している。
所在地   埼玉県児玉郡上里町七本木3237
御祭神   誉田別尊 倉稻魂命 菅原道真
社  挌   式内社今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社
        今城青八坂稲実池上神社論社
        旧村社
例  祭   10月19日 例祭

       
 七本木小学校東側に接して鎮座している。片側2車線の本庄市から群馬方面に向かう群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線に沿って家並が続き、結構交通量も多い。以前聞いた話だが、群馬県は道路状況が埼玉県より充実していると聞いたことがある。さすが総理大臣を3名輩出した県だと羨ましく思ったものだ。
 それはさておき、この七本木神社の由来は、嘗て江戸時代七本木村字本郷原に鎮座する榛名宮神社が比定された。現在の鎮座地は旧家である金井家(当地を開発した家)が邸内社として祀っていた八幡神社を村の鎮守社とした。
 明治42年に近隣社を合祀し七本木神社と称した。この時榛名宮神社も移転合祀された。

           入口正面を撮影                 鳥居を過ぎると比較的広い境内
 この七本木地区は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢670年ほどの大木があり、地名の由来となった。七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。

        境内にある庚申塚案内板                頂上に猿田彦を祀る庚申塚
 この旧家金井家は『武蔵國兒玉郡誌』によれば新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金井を称したのが始まりだという。淡路守頼義になると新田庄由良郷(群馬県旧新田郡新田町金井)に住み、以後経政・政時を経て三郎政経と続く。
 政経は筑前守を称して、金窪城主斉藤摂津守定盛の娘を娶りこの地に館を構えたのだという。
 以後江戸期に至ってもこの地に住んでいたといい、金井三郎衛門義澄には名主役を勤めて万治元年(1658)に岡上次郎兵衛景能が縄入(田畑の測量)をする際に土地の案内をして水帳を管理したという。 
 また七本木神社東側には低い土塁が残されている。境内の庚申塚は、櫓台跡の土塁かもしれないという説もあるが、いかがなものだろうか。
           
                             拝   殿
 七本木神社の創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたという。

 社殿の奥には数多くの境内社があり(写真左)、また社殿の向かって右側には合祀された7社の本殿(同右) を収めてたと伝えている。 
                                                                    

 ところで延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳には武蔵国旧賀見郡の式内社が4社記されている.長幡部神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社、今城青八坂稲實神社、これら4社中長幡部神社を除く3社ははなぜか長く読みづらい社名で明記されている。断っておくがこの4式内社は延喜式が編集された10世紀に確かに存在した社であり、時の朝廷の許可と承認を受けた歴としたお墨付きの神社なのである。
  延喜式神名帳がまとめられる200年前、時の朝廷、正確には元明天皇の時代に出された勅令で諸国郡郷名著好字令がある。この諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で表記しなさいという命令であり、好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる。『続日本紀』によると和銅六年「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」)と記載されている。
 それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉や万葉言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのがこの勅命である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされている。
 つまり、誰でも読むことができるように表記しようとする時の朝廷の思惑からきたものであろうが、それに逆行するかのようなこの長たらしい神社名は、逆説的に解釈すると、このような社名を許可すること自体歴史があり、由緒ある社なのだろう・・・か。
 神社に興味を持ち始めたころには考えもしなかったことだが、ホームページも開設し、数年を経て知識も深まると、逆に新たな疑問も噴出するものだ。冒頭の疑問がまとまり切れない頭の中で渦のように蠢きながら、また一方の頭では、ある種不思議でミステリアスな何かが、この広大な穀倉地帯である武蔵国最北部利根川南岸周辺には存在していたのではないかと勝手に解釈しながら何回目かの参拝を行った次第だ。

拍手[5回]


柴山諏訪八幡神社


       
所在地    埼玉県白岡市柴山1021
御祭神    誉田別尊、建御名方命
社  挌    旧指定村社
例  祭    7月中旬か 天王様

 柴山沼は白岡市大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡だ。埼玉県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ大きさの沼で、面積は12.5ha、水深は約8m。柴山沼という名称はこの地にかつて存在していた柴山村に関連する。柴山という地名は白岡市の説明によると柴山の柴とは雑木(そだ)の意で、柴山はこのような燃料採取の丘、林をさしていると考えられるという。
 この柴山地区の西側で、柴山沼と元荒川に挟まれた一面の田んぼの中に住宅が点在し、その一角に柴山諏訪八幡神社は鎮座する。

             正面参道                    鳥居を過ぎて左側にある案内板
諏訪八幡神社  所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山
 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
 寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。
 当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。
 昭和58年3月 白岡市
                                                     境内案内板より引用

       平野部に鎮座する明るい社                  案内板の先には神楽殿

             
 
                             拝    殿
 柴山諏訪八幡神社は菖蒲城佐々木源四郎秀綱の創建と伝えられていて、佐々木氏は、宇多源氏の末裔と称しており、源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したものと思われる。社殿は本殿、幣殿、拝殿。拝殿の中には絵馬や掲額が数多く残されており、いずれも江戸後期以降のもので市の指定文化財になっている。
                    
                  拝殿の手前にある「奉納絵馬」と書かれた標柱

                         
 ところで佐々木源四郎秀綱が源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したという由緒を素直に読むと、元々この地には違い祭神の社があり、その後勧請した為に諏訪八幡神社と名乗ったと考えたほうが自然だと思われる。では以前の社の名称は何だったのだろうか。
 柴山地区は現在一面の田園地帯だが、嘗てこの地は「大山村」とも言われたという。この大山村は柴山、荒井新田、下大崎、上大崎の四つの大字からなっていた。以後、昭和29年9月1日に白岡町が誕生するまで、65年間存在していていた。この「大山村」の名の由来はは大崎の「大」の字と柴山の「山」の字を取ったものであるというが、史実はこのように単純な事だろうか。この白岡市は台地と低地が入り組んだ複雑な地形で台地と低地の区分は10メートル程というが、柴山地区はその中にあって比較的平坦な地域だ。この地形は今も昔もそれほどの変わりはない。「大山」と言われる程の山は存在しないことからこの地名は地形上から来たものではなく、文化、祭祀的な名前ではないかと考える。いわゆる「オオヤマツミ」信仰だ。
大山祇神
  オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する山の神。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。『古事記』では、神生みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれたと記され、一方、『日本書紀』では、イザナギがカグツチを斬った際に生まれたとしている。勿論記紀上の系譜では立派な天津神系の一族である。 
 ただ不思議とオオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。ヤマタノオロチ退治において、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足摩霊、手摩霊(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っていて、天津神に所属していながら国津神系の出雲とも深い関係のある神でもある。
 この神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となるが、別名の和多志大神の「わた」は「海」の古語で、「海の神」を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。

 オオヤマツミはイザナギ、イザナミの系統でありながら、その兄弟カグツチが母を死に至らしめたことから、神話の主役はアマテラスに奪われ、脇役の地位を担わされた不運の天津神である。しかし出雲族の移住先等の各地でその信仰は連綿と継続し、とくに山岳宗教と結びついたり、金属、鉱山関連の仕事に仕事に付く人たちに敬われてきた古くからあるいわゆる地主神的な存在ではないだろうか。柴山の「山」にしろ大崎の「大」という地名につけられた名は古くから語り継がれてきた古名の名残りだったとは考えられないだろうか。
 それを証明する一つの事例として柴山地区に伝わる伝統行事がある。「天王祭」だ。

 柴山諏訪八幡神社の鳥居の左側に境内社諏訪八幡神社の祭り(天王様)は、毎年7月に行われ「オシッサマ(お獅子様)一行」が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡るそうだ。「天王」とは勿論牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。
           

 この社の獅子の一行は獅子頭と獅子の布を持つ人、カラス天狗、天狗によって構成されて、それに山車に乗った囃子連が付いているそうだ。
 この白岡市にはこの「天王様」の祭りが非常に多く、この柴山の天王様のほか、岡泉、新田、野田、篠津があり、殆どが7月の中旬に行われるようで、天王信仰が盛んな場所であったのだろう。前述オオヤマツミの孫が奇稲田姫であり、その夫が素戔嗚命である。同時に柴山地区の天王祭が盛んな地域であることから、柴山地区と「オオヤマツミ」は関係の深い地域であったことがわかる。

                                                                                                

拍手[3回]