古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

椋神社

 椋神社の鎮座する旧吉田町は、秩父市から北西部に位置し、2005年(平成17年)4月1日 吉田町が秩父市、荒川村、王滝村と合併し秩父市を新設したため吉田町は消滅した。旧吉田町はその地形上南北に秩父山系が連なり、東西は埼玉県道37号皆野両神荒川線を通じて皆野町、小鹿野町と接している。その為か、この地域は秩父市との関係よりも皆野、小鹿野両町と文化的、経済的にも密接に関係しているのが特徴的だ。
  延喜式神名帳に記載された秩父郡に鎮座する式内社である。「秩父郡に座幵ぶ/チチブグンニザナラブ」として秩父神社とともに延喜式神名帳に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だと言われている。本来「くら」神社と読むのだが、他地域の人々が「むく」神社と呼ぶために改称したという。旧社地は、背後の畑地に残る井椋塚の上と伝えられ、近世には「井椋五所大明神」と記録されている。また現社殿と井椋塚を結ぶ直線を西に延ばした先にある鍛冶山の山中に奥宮があるという。また明治17年11月1日に、秩父困民党が集結し、有名な秩父事件の発端になった場所で、境内には困民党決起の碑が建っている。さらに椋神社の秋祭は奇祭「龍勢祭」として有名で、毎年10月には龍勢祭で打ち上げられる「農民ロケット」を見に全国より6万人余の人が訪れるように歴史的にも由緒ある神社である。

 地理的に見ても秩父は特異な地形だ。交通が寄居熊谷方面に限られていて、周囲が秩父山系の険しい山々に遮られて、秩父の市街地は、山域最大の盆地である秩父盆地と小鹿野・吉田など西秩父の小盆地に集中している。そのためか秩父は閉鎖的な空間を感じさせる。

 椋神社はそんな西秩父の小盆地の一角に静かに鎮座している。千数百年もの悠久の歳月を静かに見守っている。

所在地    埼玉県秩父市下吉田7377    
主祭神    猿田彦大神・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社  格         式内社(小)、県社(神饌幣帛料供進指定社)
社  紋    五七の桐
 
                   
 
  椋神社は、秩父市吉田地区(旧・吉田町)の県道37号皆野両神荒川線沿いにある、龍勢祭りや秩父事件で知られる神社である。道の駅龍勢会館から西に約 800mのところにあり、国道140号線「大塚」信号(皆野寄居バイパス終点)からは、吉田方面の標識に従って約6km位の地点に鎮座している。
  秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている。
  社伝によれば、景行天皇の世、日本武尊(やまとたけるのみこと)が秩父御巡幸の際、猿田彦命(さるたひこのみこと)が椋の木の元から立ち現れ、日本武尊命を道案内したことにちなみ、猿田彦命を祀ったと伝えられている。日本武尊命由来の神社のため、入口に狼の狛犬が鎮座している。

   
     一の鳥居から階段を上がる       階段を上がり切るとそこに神社の広い空間が広がる
    
       
                      拝   殿
由緒記
(1)人皇十二代景行天皇御宇、日本武命東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅三年芦田宿禰守孫造立すと 云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。清和天皇貞観十三年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間 神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数十町 を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳二年累進して從二位を授ける。元亀年中武田 信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正三年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長九 年当社境内欅三十五本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永五子年二月拝殿修復、棟札は左の如し。
夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也  云云
上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日
寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。
寛政元己酉年
奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、四月二十一日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治十五年六月十五年県社に昇格す。大正二年近隣の神社二十三社を合祀す。大正五年十一月十三日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正十年拝殿幣殿の改築竣工し十月四日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和九年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和十七年九月社務所焼失す。
昭和二十五年十二月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。
昭和三十四年九月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十年十月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和四十三年十二月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、四十四年四月元拝殿屋根改造完成す。昭和四十八年九月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木二百十一本柱八本奉納。細木置場を建設す。
昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費二百二十万円を以つて神輿調製奉納す。五十年亦三百万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦四十九年五月二十日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。

(2)人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇 貞観十三年十一月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長五年十二月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功 を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正三年北條氏邦再建す。明治六年郷社となり、仝十五年六月三十日県社に列せられ、大 正十年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十七年九月三十日社務所焼失し、昭和三十四年九月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十 九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和五十年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和五十二年三 月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。

                      
                                               本殿 秩父市指定文化財
椋神社
 日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ奉命諸國ヲ巡狩シタマウトキ、甲斐國酒折宮ヨリ武藏國諸郡ヲ経テ此所二著御アリ。固ヨリ當國ハ深山幽谷ニシテ殆ト霧深 。於是日本武尊群臣等ト議曰不能進而其所ヲ知ラサルナリ。尊歎之既二軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ忽然トシテ光輝顯レ斐錬ス。既二老翁井泉ノ椋ノ下二現出スルナリ。老翁示曰吾レ尊ノ爲二瞼路ヲ導ナリ。日本武尋再拝シテ立焉。一説曰忽チ光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、尊怪以テ其処二到り既二老翁井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,日本武尊ヲ導ント欲シテ此処二臨ムナリ。日本武尊再拝立焉。日本武尊神二誓ヒ東國多叛ノ夷賊等王化二背クモノ之ヲ討チ安キニ置ハ井椋神祠ヲ作ラシムナリ。忽チ神慮ヲ垂ヨ焉。時アリ風ヲ起シ霧ヲ擬ヒ雲ヲ佛ヒ山鳴り瞼路ヲ披ク。偉哉於是漸ク群臣等進ムコトヲ得テ大二賊徒ヲ討チ軍功アラハルナリ。日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。亦井椋ノ本之ヲ明光場ト謂フ。本社二十町ヲ隔ツ称テ井椋社ト日フナリ。亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。今則畠ノ中ニシテ旧井戸アリ。今民間二用ユ。亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。彼光耀飛立ル所則赤井坂現今華表ノ左側二在ル焉。

                                                                                                               神社に伝わる縁起

  境内には神明神社、天満神社、諏訪神社、稲荷神社、庖瘡神、産泰神社等、境内社が鎮座している.
   
              
                                            八幡宮 本殿と共に秩父市指定文化財

 
また椋神社は「龍勢祭り」でも有名である。
 龍勢祭り 毎年 10月第2日曜日

 人皇13代景行天皇の御宇皇子日本武尊詔を奉載して東征の砌当地を御通りに相なり山深く霧巻き覆い行く先を知らず暫し止り給うに持ち給へる御鉾より奇しき光 り飛んで止まりたるを怪みて其の方に至れば井泉の傍らなる椋の大樹の側に当に猿田彦大神現われ給い日本武尊を導き奉らんとしてそれより東の方赤井坂まで導 かれ御姿を隠され給う。日本武尊の武威俄に上り平定の功を奏せられ大いに喜び給い御自身の御鉾を御神体として猿田彦大神を祀られ永く東国の鎮守たれと祈請 せられ給う其の御氏子の人々が祭りを永く続け来たり旧古は祭礼当日氏子民が神社の前方吉田河原でで火を炊き其の火のついた木を投げて御神慮を慰め奉りしを 例とす。火薬が出来るに及んで火薬に依って火の光を飛ばすことを工夫し現在の特殊の煙火龍勢となり永く奉納されるに至る。竜勢の製造法は松の生木を伐って 円筒を作り竹のたがを掛けて堅く造った物へ火薬を極く固く詰め詰めの終わりの方は塞いで詰め始め即ち下の方から錐で穴を明けこれに導火薬を挿入するもので 之れに矢柄と云って竹を付けるが此の■は竜勢が垂直に上って狂いのない様にするためであり、なるべく長い方が素性よく上り勝ちになる。而して揚げるには八 間位の櫓を造り其の上方部に四角の金棒を渡し竜勢を此の金棒に掛けて導火線を長くつないで櫓の下方から点火する此金棒の水平こそ極めて肝要であり直立して 上れば櫓の側へ矢柄が落ちるので金棒を僅か傾け下方に針金を引いて矢柄を少し傾けて櫓から放れて落下する様に調節する。新調に実施する故事故もなく恒例の 行事として現在にに至る。竜勢煙火を好み給う御祭神の御神徳と竜勢を好む氏子の赤誠と練達と相一致して完全に遂行することが出来たのである。白煙を噴いて 中天高く上昇する竜勢はさながら龍の昇天を思わせ豪壮に極まりなく日本国が生んだ貴い文化財である。昭和39年9月29日吉田町指定民俗資料となり昭和 52年3月29九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。誠に古田町が誇るに足る文化財であり、茲に氏子崇敬者一同石に刻して記念碑を建設し永く此の栄誉を後世に伝えるものである。
昭和54年10月 5日
延喜式内椋神社宮司 引馬慧書
吉田町龍勢保存会長 和久井完
                       

  椋神社本来「倉」であり、「くら」神社と読んでいたが、他地域の人々が「むく」神社と呼んだ為に改称したという
。では「倉」とはどのような意味があるのだろうか。以下のことを記述している書物があるので参考資料としたい。

倉 クラ 蔵、倉、椋のクラは、古代朝鮮語で銅(アカガネ)のことを言う。韓半島南部の金海地方にある弁辰の金官加耶は鉄・銅の大生産地で王族も鍛冶師首領の金氏である。三国志・東夷伝弁辰条に「国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従て之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ。又、以て二郡に供給す」と見ゆ。加耶は加羅と称す。金海の弁辰安耶は安羅と称す。弁辰狗耶国(今の金海市)は狗羅(クラ)と称す。三国志・倭人伝に「郡(楽浪・帯方)より倭に至るには、海岸に循(めぐ)って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、其の北岸狗耶韓国に到る七千余里」と見ゆ。此の狗耶国の渡来人は鍛冶・鋳物等を業として、其の居住地を倉、久良岐、倉田、倉林等の地名を付けた。

 
この地域には武蔵国山岳地域に多く存在する鍛冶・鋳物集団の居住地だったらしい。そしてその中の一つの集団は「倉」族と称していた。その後その倉一族は周囲に移住し、その土地に「倉、倉田、倉林、倉持等」の地名をつけたという。

久良岐 クラキ 新羅をシラギと称すと同じで、良、羅はラキと読む。神護景雲二年六月紀に武蔵国久良郡と見え、和名抄に久良郡を久良岐と註す。吾妻鑑卷十六に武蔵国海月(クラゲ)郡と記し、クラキと註す。久良岐郡は弁辰狗耶国の渡来人居住地なり。
倉田 クラタ 田は郡県・村の意味。倉族の集落を倉田と称す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
倉持 クラモチ 車持君の後裔倉持氏 常陸国真壁郡倉持村(明野町)あり、郡郷考に「倉持は即ち車持なり。姓氏録に、車持公は豊城命八世射狭君の後」と見ゆ。下総国岡田郡蔵持村(茨城県結城郡石下町)、上総国長柄郡蔵持村(千葉県長生郡長南町)あり。是等の地名は上毛野族車持君の一族が居住して名付くと云う。しかし、下総国猿島郡・葛飾郡、武蔵国埼玉郡地方に多く存し、此の地方には車持君の伝承が無い。また、毛野族の本貫地である上野国及び下野国には倉持氏は現存無し。倉持(クラチ)は倉地にて、倉族の居住地なり。車持君とは無関係なり。

 
倉一族についての説明は上記のこと以外、現時点では解っていない。この一族のルーツはどこなのか、またこの記述以降どのような経過を経たのか、少なくとも秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている歴史のある由緒正しい社を創建した一族である。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失した、とのことだがそれでも何か残されていないのだろうか。隠された歴史が解明される日が訪れるのだろうか。 


 

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宝登山神社

 宝登山神社が鎮座する長瀞町は埼玉県秩父郡にある人口約8千人の町である。長瀞渓谷をはじめとする数々の観光名所を有し、「秩父の赤壁」「関東の耶馬溪」という別名を持つ。また長瀞町の総面積は30.40平方キロメートルあるが、そのうち約60%が山林で占められている。また、四方を宝登山、不動山、陣見山、大平山、釜伏山といった山々に囲まれ、これらの山を源とする沢は、それぞれ荒川に流入している。
 長瀞町は町の全域が、県立長瀞玉淀自然公園区域に指定されており、特に上長瀞から高砂橋に至る荒川の両岸は、名勝及び天然記念物保存区域として指定されている。なかでも岩石段丘、いわゆる『岩畳』の広がる長瀞渓谷は、地質の宝庫として貴重な天然資源を誇っている。
 宝登山神社は秩父神社、三峰神社とともに秩父三大神社に数えられている。その起源は日本武尊[やまとたけるのみこと] が東征の際、宝登山中で猛火に包まれた時、どこからか現れた山犬によって危機を救われたという伝説からきている。この宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。

所在地
   埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
 
主祭神   神日本磐余彦尊
        
大山祗神
                
火産霊神
創  建
   
伝・景行天皇41年(111年)
社  格
   旧
県社・別表神社
例  祭       
4月 3日(例大祭)
                 5
月 2日(奥社祭)
                 8月15日(船玉祭)
主な神事
   お炊き上げ祭(毎月7日)

       
 
  標高497mの宝登山の山麓に建つ神社。日本武尊が東国平定の折に山に登る途中、山火事に囲まれ、多くの巨犬が現れて火を消したことから、山頂に神武天皇、大山祇神、火産霊神を祀ったのが始まりと伝えられている。古くは火止(ほど)山と言われていたが、後に宝登山と改称された。境内には日本武尊が身を清めたと伝えられる「玉の泉」がある。

 秩父神社、三峰神社とともに秩父三社の一つに数えられ、災難除や商売繁盛を願う参拝者で賑わう。
「宝の山に登る」という縁起のよさから、年間に100万人の参拝者が訪れるという。
 
     国道140号線の交差点にある一の大鳥居                  二の鳥居
        ちなみに神社側から撮影 
 
  二の鳥居の手前左側にある宝登山神社略記              階段手前にある趣ある手水舎

寶登山神社畧記
御祭神
 大山祇神:山を掌り山の幸を恵み給う
 神日本磐余彦尊:我が国を肇め給いし神武天皇
 火産霊神:火を掌り火の幸を恵み給う
御由緒
 第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国地方を平定し、御凱旋の閉じ、寶登山山頂で御産柱の神をお祀り申し上げたのを以って、創始となす。
登山に先立ち、尊が心身を清めた「玉の泉」は今なお御本社玉垣内に残る。登嶺の途中、山火事に遇われた時、神使いの巨犬が火を消し止め、尊を頂上まで導いた。此の為古くは「火止山」と称し、後に「寶登山」と改称す。この巨犬は、大口真神(御眷属)で、火防盗賊除・諸難除の霊験あらたかである。
御例祭
 4月3日 献幣使参向・神楽奉奏・奉祝煙火等1年1度の最高の厳儀                                                                                                                                                              (現地案内板説明文より)

                        
                                                                神楽殿
 
この神楽殿には「神人和楽」という額が掲げられている。
 これは、「神楽」の本来の意義が神を招いてなぐさめるために舞楽を奏すことを言うことで、言い換えれば「神楽」とは神と人とが共に享楽することによって神の力を得る神事で、神座に神を招き神の力を招き鎮めることによって、生命力を高めようとするものが「神楽」であるということを表した言葉、それが「神人和楽」という言葉なのだそうだ。


                        
                                                            拝   殿
  宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。
  現在の本殿・幣殿・拝殿は、明治初頭に作り替えられたが、平成22年宝登山神社御鎮座千九百年記念事業の一つとして社殿改修・祈祷殿神札所新築工事が竣工 された。権現造りの社殿の欄間に施された龍などの彫刻が見もので、昨年の改修で真新しくなっておりその美しさに目を奪われてしまう。

 
特に拝殿の向拝部分は、柱や虹梁などが白に塗られ、極彩色の彫刻がに施されている。秩父三社の三峯神社を思わせる色使いである。。
 向拝の柱には5匹の龍が飾られ、正面には青龍・白龍など中国神話の四神が彫られている。拝殿側面にも中国儒教の教えにある二十四孝の彫刻が飾られている。
                         
                                                               本  殿
 宝登山神社の拝殿が極彩色の彫刻が施され、神仏習合の様式を色濃く反映していて拝殿全体が煌びやかな装いに対して、本殿は全体的に控えめながら細部に装飾を散り ばめている。拝殿を見たあとに本殿を見ると、そのギャップに少し驚きを感じるが、そこに日本人独特の美意識を感じる。

                   
                       神楽殿の隣にある水神社と隣接してある招魂社
   
     招魂社の隣にある藤谷淵神社                                      日本武尊神社
    
                      天満天神社                                天満天神社の先にある小さい橋を渡ると
                                                                                宝玉稲荷神社がある
 宝登山神社御由緒物語(パンフレットより)
  今からおよそ1900年ほど前、第12代景行天皇の御代のこと、日本武尊とその軍勢が東国地方平定の折、宝登山に登って神霊を拝したというおはなしです。日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと、森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありましたので、尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして、身を清めました。一隊頂上へ向かって登り始めました。が、しばらくすると辺りの様子がおかしい事に気がつきました。そのうちに黒い煙がどっと吹き寄せました。山火事ら、ご自分も剣を抜いて草をはらい、枝を切って猛火と戦いました。けれども火の勢いは強くなるばかり。一隊は火の渦に巻き込まれて脱出することが出来ません。尊の命も危うくなりました。その時、突然現れたたくさんの白い影、黒い影。影は風を切って、次々に猛火の中に飛び込んで行きます。影のように見えたのは、大きな白犬、黒犬です。犬たちは、荒れ狂う炎の中で火を消し止めようと大活躍です。そのすさまじさ、ものすごさ、火の勢いは見る見る衰えていきました。すっかり火が消えました。犬たちの見事な働きに尊も兵も我を忘れて感嘆していますと、犬たちは二頭、三頭また五頭と尊の前に集まって、静かに歩き始めました。さあどうぞ、頂上へご案内いたしましょうというように。頂上へ着くと、いつの間にか犬の姿はどこにも見えません。影のように現れた犬たちは影のように消えていました。「おお、やはりあのたちは"山の神のお使い"に違いない。本当にありがとうございました。」日本武尊は神様に対し、心より御礼を申し上げました。頂上からは悠久の天地が、広大・荘厳に眺められました。日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名づけられ、"神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされ、「神籬(ひもろぎ)」(御神霊をお迎えするための憑り代)をお立てになり、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)の三社をお祀りになりました。これが宝登山神社の御鎮座の起源であり始まりです。その後「火止山」は霊場として栄え、弘仁年中に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、山の名と神社の名はこの吉祥事により「宝登山」に改められて今に至りました。

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箭弓稲荷神社

 箭弓神社が鎮座する東松山市は、埼玉県のほぼ中央部に位置する人口約9万人の市である。市中央部から西部・南東部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした新興住宅団地が多いようである。また、都畿川や越辺川流域周辺は洪積低地となっており田園風景が広がっているが、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んでいる。

 また鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。

 「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れているという

所在地    埼玉県東松山市箭弓町2-5-14   
主祭神    保食神(宇迦之御魂神 うがのみたまのかみ)
         豊受比賣神
        
社 格     県社 別表神社
本殿様式   権現造
      9月21日(例大祭) 他 
創立年代
   712年(和銅5年
 

       
 
 箭弓神社は東武東上線、東松山駅西口を降りて徒歩5分位の位置にある。「箭弓」という言葉は上古代、「矢久」「野久」「八宮」と呼ばれ、「八宮」とは天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮と云う。五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男であったという。

   
                     二の鳥居                 綺麗に整備された参道。二の鳥居から撮影 

   創建は712年(和銅5年)と歴史のある社で、創建当時は単なる小さな祠でしかなかったが、長元3年(1030年)、下総国の城主・平忠常の討伐に出かけた源頼信が、この周辺に一泊し、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納したところ、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃する。これは神のお告げだと確信し、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は見事に快勝し、当地に、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えられ、その後も松山城主や川越城主の庇護を受け、現在に至っている。
 
               三の鳥居手前にある手水社                三の鳥居近くにある由緒、祭神の
                                               紹介した案内板
境内由緒書

 御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神

 当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
 又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
 当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
 

                        拝   殿

                        
重厚な造りで趣のある、箭弓神社 本殿

  現在の社殿は享保3年(1718年)領主、島田弾正が四方の信徒と図って建築したものであるといわれている。本殿は正面5.43メートル、奥行5.15メートルあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺でできている。本殿には幾多の彫刻が施されており、また本殿内部は日光廟を模した感じであるという。

                                                  元      宮
   
元のお社として現本殿の真後ろに鎮座し、社殿には彩色ある細やかな彫刻が施されている。毎月1・15日には神饌を供し拝礼する。
 
                                                 
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)


  遡ること七代目市川團十郎は特に厚く当社を崇敬しており、社に籠り芸道精進、大願成就のご祈願をいたし、その当時、江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において「狐忠信」「葛の葉」等の芸題を披露しましたところ毎日札止めの大盛況となりました。
 これはひとえにご神威、ご霊験のあらたかなることだと感得した團十郎は、文政四年(1821年)の秋、当社に石造りの祠を建立しました。
 以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、芸能・技術の向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁昌の守り神として広く崇敬を集めています。
                                                                           
                                                                                      宇迦之御魂社御由来 掲示板より引用

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高麗神社

 高麗郡は武蔵国のほぼ中央部、外秩父丘陵地帯に位置し、入間郡の中に割り込んだ形になつている。四囲は、入間・多摩・秩父の各郡と接していておおむね現日高市および飯能市(もと秩父郡に属していた北西部の吾野地区を除く)の地域である。
  奈良時代霊亀2年(716年)に時の朝廷が駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野等7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初であるという。当時高麗郡には、「高麗郷」と「上総郷」の二つの郷が置かれ(当時の行政単位は国・郡・郷)、高麗郷は今の高麗神社がある日高市一帯にあった。また、上総郷は上総(千葉県)からの移住者が中心になって開発された地域と推定されている。『和名抄』は「古末」と訓じている。
 また武蔵國で郡が設置された年代が文献で確認できるのは、高麗郡と新羅郡(新座郡)の二つで、不思議とかつての朝鮮半島に実在した、または朝鮮の国土を統一したれっきとした国の名前である。
  ある説では北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれているが事の真相はどうだったのだろうか。
        
              ・所在地 埼玉県日高市大字新堀833
              ・主祭神 高麗王若光 猿田彦命  武内宿禰命                                      ・社 格 旧県社 別表神社                
                ・例 祭 1015                                                                  
 
 高麗神社は、埼玉県日高市にある。最寄り駅は西武池袋線の高麗駅で、関東平野の西の端、奥武蔵の山々の先端にあたり、付近を流れる高麗川と山々をめぐるハイキングコースはこの地域の観光資源でもある。そして、高麗神社はこの地域の史跡として、観光地としても賑わっている。
            
                                          高麗神社社号標とその奥にある一の鳥居
 
            正面一の鳥居                   綺麗に整備された長い参道が続く
駐車場の北西方向で二の鳥居の近くには。「地上男将軍」「地下女将軍」とよばれる将軍標が林立している。駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものという。今回は撮影できず残念。
 
       参道を進むと二の鳥居がある                 二の鳥居を過ぎるとすぐ左側にある手水社           
                

                                     手水社の手前には高麗神社の由来の案内板がある。

  高麗神社   所在地 日高市大字新堀 
 高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。
 高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約七〇〇年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい六六八年に滅亡した。この時の乱を遁れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀二年(七一六)そのうちの一七九九人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された
 高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。
 郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。
                                                            案内板より引用
                     
                                                  神  門
 
       高麗神社扁額「高句麗」と記載                      祓所(はらえど)
 この神社を語るとき7世紀の朝鮮半島の歴史を抜きに語れない。7世紀当時の朝鮮半島は激動と政略の混迷した時代だった。新羅、百済、高句麗の3国が朝鮮半島の覇を競い、戦乱に明け暮れていた。それに中華帝国の隋、唐も干渉し、いつ果てるともしない様相となっていた。
 高麗と記載されているが、正式に言うと高句麗でもともと満洲高原の騎馬民族とされ、中国満洲地方・朝鮮半島・遼東地方の大半を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国であった。

高句麗(こうくり、紀元前37 -668年)
 現在の東三省( 遼寧省・吉林省・黒竜江省)南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は5世紀、「広開土王碑」で有名な「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、満州南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐(新羅)の遠征軍により滅ぼされた。王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

 581年南北朝を制した隋帝国が誕生し、2代目皇帝煬帝は、3度に渡る高句麗遠征を行うが、すべて失敗。結果的にこれが隋帝国の滅亡につながった。そして大唐帝国の度重なる遠征。唐は新羅と同盟を結び、百済を滅ぼす(661年)。そして百済救援のため軍勢をむけた倭国を白村江の戦いで破り、高句麗も度重なる遠征に国の力は衰え、高句麗の宰相であり、名将でもある淵蓋蘇文(?ー665)死後、淵蓋蘇文の子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐(新羅)軍は高句麗の都の平壌を攻め、668年ついに滅亡した。
                    
                       
            拝 殿
 666年(天智5年)高句麗国の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(日本書紀より参照)。
 その後朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(続日本記)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。
            
                      ご神木である樹齢300年の彼岸桜        
 716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(続日本記)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
 武蔵国には「白鬚神社」と呼称される神社が約55社存在している。これらは、この高麗神社の分社であるとされ、当社は高麗総社とも呼ばれている。若光が晩年、見事な白鬚を蓄えていたことから「白鬚さま」と尊ばれていたことから、のちに当社を「白鬚明神」と呼称したともいう。

 
        拝殿の前方にある神楽殿              律令時代当時の衣装が色鮮やかに展示     


 高麗神社の拝殿の奥には、高麗神社の社家・高麗家の住居であり、国指定重要文化財である高麗家住宅がある。入母屋造、茅葺屋根で、山を背に東を正面として建てられていて、江戸時代初期(慶長年間)の民家建築を伝えている。

  高麗神社の神職を努めてきた高麗家の住居として、使われていたものです。建築は17世紀後半(江戸時代前半)と推定され、東日本の民家の中では極めて古い建築です。入母屋造りで屋根は茅葺きで、桁行七間半(14.3メートル)、梁行五間(9.5メートル)をはかります。間取りは古四間取りという形式で、「奥座敷」、21畳の「表座敷」、「勝手」と「へや」、そして土間から成っています。
                                                     「日高市公式HP」より引用
 

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広木みか神社

  広木みか神社が神社が鎮座する埼玉県美里町。埼玉県北西部に位置する、人口約1万2000の自然豊かな町だ。
 美里町は律令時代には那珂郡と言われ、この「なか」は、賀美(かみ)郡の「上」に対する「中」の意とする説があるそうだ。付近一帯には長坂聖天塚古墳に代表される県下でも最古級の古墳があり、そのほか普門寺古墳群、羽黒山古墳群、広木大町古墳群等の古墳群がこの狭い地域に密集して存在する。現存する古墳数も大小177基に及び県下では多い地域でもある。またこの地域は地形上、東国の中心地であった上毛野国(上野国)の南部に位置し上野国と深い交流があったと思われる。
 近くには神池である「摩河の池」を中心に古代祭祀が行われていたものとされ、周辺には広木古墳群の他にも埴輪窯跡・竪穴住居跡なども発掘。当社の祭祀集団は神酒づくりにかかわる土器=ミカを製作した出雲族の集団であったと推定される。古代ムサシ国と毛野国の風土が色濃く混じり合った雰囲気がこの那珂郡にはあるようである。
     
                    ・所在地   埼玉県児玉郡美里町広木1
                    ・ご祭神   櫛御気野命、櫛瓺か玉命                           
                    ・
社  格    式内社 県社 那珂郡総鎮守
                    ・例祭等    祈年祭 2月18日 春の大祭 4月13日 
                             秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月24日

  広木みか神社は国道254号を美里町方面から児玉方面へ進み、「広木交差点先」150m程先の場所に鎮座している。創立年代は不詳ではあるが延喜式に記載されている古社。。同所は武蔵七党猪俣党の発祥地とされる。社名の「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が4個保存されているとのことだ。
                    
                          県道沿いに建つ社号標柱   
       社号標柱のすぐ先には芭蕉の句碑がある。        国道から路地を進むと鳥居が見える。            
       鳥居前に設置されている案内板           鳥居の先で右側にある歴史を感じる手水舎

 
 鳥居を越えると一旦、左に曲がり、その右側には重厚感のある神楽殿が見える(写真左)。また参道を曲がる手前で左側には昔からの案内板が設置されている(同右)。  
     

みか神社     所在地 児玉郡美里村大字広木
 みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。
現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる。
土師器のミカが四個保存ざれている。
例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。
昭和58年3月 埼玉県                                            
  案内板より引用                                                                                                                                   
           
                                 拝 殿  
 みか神社 御由緒   美里町広木1
 □御縁起
 武蔵国の北辺にあって上野国と交流のあった郡の一つに那珂(なか)郡がある。この群は当初、賀美郡(上郡)・榛沢郡(下郡)と共に栄え、当社はこのうち那珂郡総鎮守として祀られた神社である。鎮座地の広木は『和名妙』の「那珂郡弘紀郷」の遺称地とされる。
 資料の初見は、『延喜式』神名帳の「みか神社」(ミカノ・ミカイノ」である。古代祭祀に関与した奉斎集団の古墳群は、身馴川に沿って分布する秋山古墳群・広木大町古墳群・後山王古墳群がある。これらは発掘によれば埴輪を持ったものが多い。また、これらの古墳に埴輪を供給したとされる埴輪窯として、近くに宇佐久保釜跡がある。更に「みか神社前遺跡」は、六世紀の竪穴住居跡で、埴輪が出土している。
 中世は、那珂郡一帯を武蔵七党猪俣党が本拠としたことから、これら武士団の崇敬があったと思われる。また行田市の長久寺に蔵する明応七年(一四九八)七月の年紀をもつ大般若経第一一〇奥書に「児玉郡塩谷郷阿那志県みか玉大明神宮」と当社のことが見える。
 明治初年に村社となるが、式内社であることをもって明治三十七年に県社に昇格した。
 同四十年には神饌幣帛料共進神社の指定を受け、三島社・稲荷社・秋葉社・八坂社・社宮司社の五社を合祀した。
                                                      鳥居横の案内板より引用

                                                                          拝殿に掲げてある「正一位みか神社」の扁額
               
 
     彩色豊かな拝殿、拝殿向拝部(上段)・木鼻部(下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
    
                                    本  殿               

由 緒
  当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇60代後醍醐天皇の延喜の年代の頃中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれども享保8年正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段 八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二甕を造り之を撤し其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが現今は中止されて居る。尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。                                                                                                   
                                                                            全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
 広木みか神社の神社の社殿の周りには多くの境内社が所狭しと並んでいる。また拝殿の左側には社日と呼ばれる五角形の石柱が立っていて、「社」は土地の神、「産土神(うぶすながみ)」を祀った神社にお参りして五穀を供えて豊作を祈り(春社)、また秋の初穂を供えて収穫に感謝する(秋社)、農耕民族らしい日本の信仰形態だ。

 
 境内奥に並ぶ境内社
(写真左側) 写真右側から産泰神社、諏訪神社、天満天神宮、神明神社、蚕影神社、山王神社、松尾神社)
(写真右側) 蚕影社、山王神社、松尾社、古峯山、鹿島社、稲荷社、愛宕社、天手長社、大雷社など
           

                                  
社日と呼ばれる五角形の石柱
  広木みか神社の祭神は櫛御気野命と言い、櫛は奇霊(くしび)であり、御気は御食または御木のことで、神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり本来熊野大神であるが別名素盞嗚尊(スサノオ)と言う。この熊野大神は有名な熊野三山とは無関係のようで、本家は島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるようだ。
 熊野大社
  ・鎮座地 島根県八束郡八雲村熊野2451
  ・旧称   熊野坐神社 熊野大神宮 熊野天照太神宮
  ・別称    日本火出初社 出雲國一宮 後明治4年國幣中社、大正5年國幣大社
  ・主祭神 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と称える素戔嗚尊
  ・神紋    一重亀甲に「大」の文字
           
                          社殿から境内風景を撮影

  熊野大社は720年の日本書紀によると、659年に出雲国造が創建したと記されていて、733年の出雲国風土記では、出雲大社とこの熊野大社が出雲国内で最も格式の高い「出雲國一之宮」とされているが両社の力関係は同一ではなく、文献では『文徳実録』(851年)には、「出雲国熊野杵築両大神を従三位に叙す」と、また『三代実録』(859年)にも「 出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神を従二位に叙す」とあり、いずれも熊野大社、次いで杵築と記しているように、熊野大社の神格が一段高く評価されていることが窺える。また日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)という別称があり「火」の発祥の神社としても信仰を集めていて出雲国造の世継ぎの儀式「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」等の重要な儀式は出雲大社宮司の出雲国造家が「熊野大社」に出向いて行われている。
  出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社はどのような関係だろうか。熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。
 広木みか神社の祭神は櫛御気野命といい、本宮が島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるということは重要な点だ。なぜなら出雲族といっても出雲大社を本宮とする大己貴命系と、熊野大社を本宮とする素戔嗚命系に分類されるからだ。ちなみに埼玉県内の出雲系の神社の祭神は以下の通りだ。

 氷川神社              須佐之男命  大己貴命
 鷲宮神社              天穂日命   大己貴命
 金鑽神社              素戔嗚尊
 本庄金鑽神社         素戔嗚尊
 熊野大神社          事解男命 速玉男命
 玉敷神社           大己貴命
 出雲伊波比神社      大名牟遅神  天穂日神
 出雲乃伊波比神社(寄居町) 須佐之男命 
 出雲乃伊波比神社(熊谷市)  天穂日命  大己貴命
 久伊豆神社        大己貴命 事代主命
 前玉神社          前玉比売神  前玉彦命
 上之村神社        大己貴命   事代主命
 伊波比神社        天穗日尊
 横見神社          建速須佐之男命  櫛稻田比売命
 高負彦根神社         大己貴尊
 稲乃比売神社       素盞嗚命  大己貴命
 田中神社(熊谷市)  武甕尻命  天穂日神
           
                     社の北側で「摩河の池」付近からの眺め

 赤色が大己貴系、青色が素戔嗚系で圧倒的に大己貴系が多い。中には氷川神社や稲乃比売神社のように素戔嗚系と大己貴系が一緒に祀っている神社も存在する。が、こと県北に関しては金鑽神社、本庄金鑽神社、甕甕神社、そして寄居町の出雲乃伊波比神社は素戔嗚系で集中している特徴がある。
 少なくとも出雲族といっても大きく2系列の一族の進出が武蔵国にはあって、大己貴命を信奉する一族は埼玉県北東部の行田市、羽生市付近から元荒川を沿って南行する一派と西方面へ進出する一派に分かれ、かたや素戔嗚命を信奉する一族はは金鑽神社の児玉郡から甕甕神社の那珂郡、男衾郡にかけてに進出し広がりをみせたのではないかと現時点では推測する。
  
 

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