古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

五明天神社

 五明天神社は上里サービスエリアの南西側に鎮座している。
 「いまき」が「今来」で新米の者、つまり渡来系氏族をあらわし、渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し「稲魂」をまつる神社を建立したのが「稲実」であろうとされている。御神体である神代石(高さ67cm、太さ13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれているという。
所在地   埼玉県児玉郡上里町五明871
御祭神   稚産靈神 豊宇気毘売神 大山祇命 日本武尊
社  挌   旧指定村社
例  祭   10月19日 秋祭り

       
 創立年代不明。旧社格は村社。從來村の鎭守にして當村内大輻寺持なりしを、維新の際、神職の受持となり、往古より圓形の神代石に古文を以て刻したる者傳來し居りしが、文學に疎く之を解する事を得ざりしが、今日に至り漸く延喜式内今城青坂稲實神社と明瞭し、且亦境内を今城林と云ひ傳來りしを、天正年中(1573~92)神流川合戦の際瀧川一益此地に陣を転し、大に勝利ありしを以て転陣林と称し來たれり。
                                                   昭和27年神社明細帳
             
                           正面一の鳥居
 
 一の鳥居から真っ直ぐ参道を進むと五明集会所があり、そこを左に90度曲がると二の鳥居がある(写真左)。その二の鳥居の向かって右側に案内板(同右)がある。

天神社  所在地 児玉郡上里町五明871
 天神社の祭神は稚産霊神、豊受氣毘売神、大山祇命、日本武尊の四神である。
 当社の創立年代は不明であるが、延喜5年(905)に藤原時平らが勅を受けて編集した廷喜式神明帳に載る賀美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲実神社であると伝えられているので、かなり古い社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ67cm、太さ約13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
 現在ある社殿は享保7年(1722)の再建で、天保年間(1830~44に書かれた中岩満次郎道純の祈願書が残されている。
 明治10年に白山神社を、同42年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
 また、境内神社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
 なお、当社には神楽が伝承されていたが、現在は中断されている。
 昭和60年3月 埼玉県 上里町
                                                        案内板より引用
          
 現在の境内は決して広くはないが一の鳥居から集会所までにある程度の空間もあり、往時はかなりの大きな社だったろうと推測できる。また社全体が綺麗に整備もされ、参拝の時期も新緑が広がる季節でもあってゆっくり参拝を楽しむことができた。居心地の良い雰囲気の社。

             
       参道の途中右側には貴船大神、大己貴命、素戔嗚命、国嶽霊神等の石碑群が並ぶ。
          
                             拝    殿
            
                         本殿裏には丹生社あり。 

       社殿手前左側には神楽殿                 社殿の右側には境内社
                               諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等が並ぶ。

 『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ」
と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832)に上州新田郡の岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄付したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくものであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含めて六社あり、定かでない。
 『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とある。
 明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、明治四十一年には丹生社を合祀した。
                                           埼玉の神社・埼玉県神社庁より引用

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七本木神社

  上里町は、神流川扇状地、本庄台地、沖積低地の三区の地形上に立地し、東西6km南北5,5kmのやや菱形を成し、海抜最高85m最低50mで、標高差35mの非常に緩やかな傾斜をしている平坦地である。首都圏から85kmに位置しており、菱形の本町を囲むように神流川と烏川が接している。
 埼玉県地震被害想定調査によるとプレート境界の地震は西埼玉地震、活断層の地震は深谷断層、神川断層、平井断層、櫛引断層等が想定されているが、本町では地盤が比較的堅固なため全体的に液状化の可能性は低い状況である一方、沖積粘性土地盤である町域の北部に液状化の可能性のやや高い区域が分布しているという。
 七本木地区は本庄台地上に位置し、埼玉県道23号線を通して本庄市との交通の便もあり、新しい家屋も並ぶ綺麗な地区だ。この七本木地区に当社は鎮座している。
所在地   埼玉県児玉郡上里町七本木3237
御祭神   誉田別尊 倉稻魂命 菅原道真
社  挌   式内社今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社
        今城青八坂稲実池上神社論社
        旧村社
例  祭   10月19日 例祭

       
 七本木小学校東側に接して鎮座している。片側2車線の本庄市から群馬方面に向かう群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線に沿って家並が続き、結構交通量も多い。以前聞いた話だが、群馬県は道路状況が埼玉県より充実していると聞いたことがある。さすが総理大臣を3名輩出した県だと羨ましく思ったものだ。
 それはさておき、この七本木神社の由来は、嘗て江戸時代七本木村字本郷原に鎮座する榛名宮神社が比定された。現在の鎮座地は旧家である金井家(当地を開発した家)が邸内社として祀っていた八幡神社を村の鎮守社とした。
 明治42年に近隣社を合祀し七本木神社と称した。この時榛名宮神社も移転合祀された。

           入口正面を撮影                 鳥居を過ぎると比較的広い境内
 この七本木地区は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢670年ほどの大木があり、地名の由来となった。七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。

        境内にある庚申塚案内板                頂上に猿田彦を祀る庚申塚
 この旧家金井家は『武蔵國兒玉郡誌』によれば新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金井を称したのが始まりだという。淡路守頼義になると新田庄由良郷(群馬県旧新田郡新田町金井)に住み、以後経政・政時を経て三郎政経と続く。
 政経は筑前守を称して、金窪城主斉藤摂津守定盛の娘を娶りこの地に館を構えたのだという。
 以後江戸期に至ってもこの地に住んでいたといい、金井三郎衛門義澄には名主役を勤めて万治元年(1658)に岡上次郎兵衛景能が縄入(田畑の測量)をする際に土地の案内をして水帳を管理したという。 
 また七本木神社東側には低い土塁が残されている。境内の庚申塚は、櫓台跡の土塁かもしれないという説もあるが、いかがなものだろうか。
           
                             拝   殿
 七本木神社の創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたという。

 社殿の奥には数多くの境内社があり(写真左)、また社殿の向かって右側には合祀された7社の本殿(同右) を収めてたと伝えている。 
                                                                    

 ところで延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳には武蔵国旧賀見郡の式内社が4社記されている.長幡部神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社、今城青八坂稲實神社、これら4社中長幡部神社を除く3社ははなぜか長く読みづらい社名で明記されている。断っておくがこの4式内社は延喜式が編集された10世紀に確かに存在した社であり、時の朝廷の許可と承認を受けた歴としたお墨付きの神社なのである。
  延喜式神名帳がまとめられる200年前、時の朝廷、正確には元明天皇の時代に出された勅令で諸国郡郷名著好字令がある。この諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で表記しなさいという命令であり、好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる。『続日本紀』によると和銅六年「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」)と記載されている。
 それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉や万葉言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのがこの勅命である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされている。
 つまり、誰でも読むことができるように表記しようとする時の朝廷の思惑からきたものであろうが、それに逆行するかのようなこの長たらしい神社名は、逆説的に解釈すると、このような社名を許可すること自体歴史があり、由緒ある社なのだろう・・・か。
 神社に興味を持ち始めたころには考えもしなかったことだが、ホームページも開設し、数年を経て知識も深まると、逆に新たな疑問も噴出するものだ。冒頭の疑問がまとまり切れない頭の中で渦のように蠢きながら、また一方の頭では、ある種不思議でミステリアスな何かが、この広大な穀倉地帯である武蔵国最北部利根川南岸周辺には存在していたのではないかと勝手に解釈しながら何回目かの参拝を行った次第だ。

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柴山諏訪八幡神社


       
所在地    埼玉県白岡市柴山1021
御祭神    誉田別尊、建御名方命
社  挌    旧指定村社
例  祭    7月中旬か 天王様

 柴山沼は白岡市大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡だ。埼玉県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ大きさの沼で、面積は12.5ha、水深は約8m。柴山沼という名称はこの地にかつて存在していた柴山村に関連する。柴山という地名は白岡市の説明によると柴山の柴とは雑木(そだ)の意で、柴山はこのような燃料採取の丘、林をさしていると考えられるという。
 この柴山地区の西側で、柴山沼と元荒川に挟まれた一面の田んぼの中に住宅が点在し、その一角に柴山諏訪八幡神社は鎮座する。

             正面参道                    鳥居を過ぎて左側にある案内板
諏訪八幡神社  所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山
 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
 寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。
 当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。
 昭和58年3月 白岡市
                                                     境内案内板より引用

       平野部に鎮座する明るい社                  案内板の先には神楽殿

             
 
                             拝    殿
 柴山諏訪八幡神社は菖蒲城佐々木源四郎秀綱の創建と伝えられていて、佐々木氏は、宇多源氏の末裔と称しており、源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したものと思われる。社殿は本殿、幣殿、拝殿。拝殿の中には絵馬や掲額が数多く残されており、いずれも江戸後期以降のもので市の指定文化財になっている。
                    
                  拝殿の手前にある「奉納絵馬」と書かれた標柱

                         
 ところで佐々木源四郎秀綱が源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したという由緒を素直に読むと、元々この地には違い祭神の社があり、その後勧請した為に諏訪八幡神社と名乗ったと考えたほうが自然だと思われる。では以前の社の名称は何だったのだろうか。
 柴山地区は現在一面の田園地帯だが、嘗てこの地は「大山村」とも言われたという。この大山村は柴山、荒井新田、下大崎、上大崎の四つの大字からなっていた。以後、昭和29年9月1日に白岡町が誕生するまで、65年間存在していていた。この「大山村」の名の由来はは大崎の「大」の字と柴山の「山」の字を取ったものであるというが、史実はこのように単純な事だろうか。この白岡市は台地と低地が入り組んだ複雑な地形で台地と低地の区分は10メートル程というが、柴山地区はその中にあって比較的平坦な地域だ。この地形は今も昔もそれほどの変わりはない。「大山」と言われる程の山は存在しないことからこの地名は地形上から来たものではなく、文化、祭祀的な名前ではないかと考える。いわゆる「オオヤマツミ」信仰だ。
大山祇神
  オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する山の神。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。『古事記』では、神生みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれたと記され、一方、『日本書紀』では、イザナギがカグツチを斬った際に生まれたとしている。勿論記紀上の系譜では立派な天津神系の一族である。 
 ただ不思議とオオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。ヤマタノオロチ退治において、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足摩霊、手摩霊(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っていて、天津神に所属していながら国津神系の出雲とも深い関係のある神でもある。
 この神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となるが、別名の和多志大神の「わた」は「海」の古語で、「海の神」を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。

 オオヤマツミはイザナギ、イザナミの系統でありながら、その兄弟カグツチが母を死に至らしめたことから、神話の主役はアマテラスに奪われ、脇役の地位を担わされた不運の天津神である。しかし出雲族の移住先等の各地でその信仰は連綿と継続し、とくに山岳宗教と結びついたり、金属、鉱山関連の仕事に仕事に付く人たちに敬われてきた古くからあるいわゆる地主神的な存在ではないだろうか。柴山の「山」にしろ大崎の「大」という地名につけられた名は古くから語り継がれてきた古名の名残りだったとは考えられないだろうか。
 それを証明する一つの事例として柴山地区に伝わる伝統行事がある。「天王祭」だ。

 柴山諏訪八幡神社の鳥居の左側に境内社諏訪八幡神社の祭り(天王様)は、毎年7月に行われ「オシッサマ(お獅子様)一行」が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡るそうだ。「天王」とは勿論牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。
           

 この社の獅子の一行は獅子頭と獅子の布を持つ人、カラス天狗、天狗によって構成されて、それに山車に乗った囃子連が付いているそうだ。
 この白岡市にはこの「天王様」の祭りが非常に多く、この柴山の天王様のほか、岡泉、新田、野田、篠津があり、殆どが7月の中旬に行われるようで、天王信仰が盛んな場所であったのだろう。前述オオヤマツミの孫が奇稲田姫であり、その夫が素戔嗚命である。同時に柴山地区の天王祭が盛んな地域であることから、柴山地区と「オオヤマツミ」は関係の深い地域であったことがわかる。

                                                                                                

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篠津久伊豆神社

 埼玉県は河川が多い県である。利根川、荒川の二大河川が東西を貫き、その豊富な水量故に多数の支流が県下の隅々まで行きわたっている水の県である。ある統計調査によると県の全面積中で河川の占める割合(3.9%)が埼玉県は日本一で、湖沼や用水路などを含めた水辺の割合では滋賀県、茨城県、大阪府に次いで4番目となるそうだ。それ故か水辺に関連した地名も多数存在する。
 さて篠津の地名は『埼玉県地名誌』によれば、元荒川左岸、渡津より起こったものと考えられ、津は船着き場の意で、付近一帯に篠が生えていたため篠津と呼ばれたと考えられる。いわゆる水辺に関連した地名だ。江戸時代の篠津村は川越藩領の後、旗本領に属していた。明治22年に町村合併で誕生した篠津村は、野牛村、白岡村、寺塚村、高岩村が合併したものである。以後白岡町に合併するまでの65年間存続したという。                                               白岡市 ホームページ参照                                                                        

            
            ・所在地 埼玉県白岡市篠津1798
            ・ご祭神 天穂日命 大己貴命 大山祇命
            ・社 格 旧篠津村鎮守 旧村社
            ・例祭等 祈年祭 328日 春祭 329日 例大祭 4月中旬
                 二百十日祭 91日 秋祭(お日待ち) 1018日 他 
 篠津久伊豆神社は白岡市篠津地区に鎮座している。埼玉県道78号春日部菖蒲線を白岡市役所から久喜市方向に進み、途中篠津神山(東)交差点を右折し最初の交差点を左折する。T字路にぶつかるのでそこをまた右折し、しばらく進むと左側に「篠津久伊豆神社」の看板が見えるので、そこを左折すると突き当たりにその社が鎮座している。
            
                           篠津久伊豆神社正面
 篠津地域は、上宿・横宿・宿・中妻・下宿・神山・馬立の七つの耕地が耕地(地区)がある。当社の氏子区域は、この篠津の七つの耕地全域であり、当社の境内は、そのうちの中妻にあたる。また、篠津に隣接する西八丁目の住民のうち、上宿から分地した人々は当社の氏子であるともいう。近年の転入者の増加により、氏子数もかなりの数となっているが、戦前からの住民である氏子約四分の一は農家を続けており、地域の特産物である梨やぶどうなどを生産している。
 
     広々として手入れの行き届いた境内           鳥居を過ぎると左側にある案内板

  篠津の久伊豆神社と山車  所在地:南埼玉郡白岡町大字篠津
 久伊豆神社は、康治元年(1142)に建てられたと伝えられ、祭神として天穂日命、大己貴命、大山祗神が祀られている。
 現在の本殿・拝殿は、江戸時代末期に建造されたものと思われ、特に本殿四方に巡らされた「神功皇后三韓出兵」「天の岩戸」「飛龍に波」「鷲」などの彫物は、江戸伽藍彫刻の力作である。篠津地区は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社は、その守護神として崇敬されていた。また、この地区は江戸時代の日光街道(春日部宿)と中山道(鴻巣宿)を結ぶ街道の宿場として栄えたところであった。
 また、地区内の上宿、横宿、下宿、宿神山の各耕地には、それぞれ特徴ある山車が保存されており、この山車は江戸時代末期に製作されたもので、唐破風欅白木彫などその彫刻はすぐれている。これらの山車は、7月15日の天王様(須賀神社の祭礼)に飾り付けられ、今でも祭りを盛りあげる大きな役割を果たしている。                                                昭和58年8月 白岡市
                                                        案内板より引用
  篠津久伊豆神社が鎮座する篠津地域は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社はその守護神として崇拝された。またこの地域は江戸時代の日光街道と中山道を結ぶ街道の宿場町として栄えた場所であり、あるいは紅花の産地として篠津が反映し、その経済力を背景に当社の社殿が再建され、安政元年(1854)より5年の歳月をかけて本殿と拝殿が建設されたという。
           
                                拝 殿
 『新編武蔵風土記稿 篠津村』
 久伊豆社 村内の鎭守にて、眞福寺の持、下同じ、 雷電社 〇辨天社 青雲寺の持、下同じ、〇八幡社 〇諏訪社 〇愛宕九ヶ所明神合社 九ヶ所の祭神は詳かならず、〇妙見社 〇富士淺間社 青雲・眞福寺の持、〇稻荷社 村民持
 青雲寺 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、瑠璃山醫王院と號す、世代の内慶秀明暦三年四月寂すとのみ傳へ、この以前のことを傳へず、本尊不動、 藥師堂 藥師は丈二尺餘、行基の作、 太子堂 門前にあり、鐘楼 享保中鑄造の鐘を懸く、○眞福寺 同末、竹林山地藏院と號す、も世代の内賢譽、元祿二年正月二十二日示寂と云ひ、以前のことは傳へず、本尊大日、 姥神社 地藏堂

             
                                 本  殿
           
  重量感溢れる荘厳な本殿であり、また本殿の三面に飾られている彫刻は江戸伽藍彫刻の力作で、彫刻は天保13年(1842)生まれの立川音芳の作である。音吉は彦根藩家臣の家から江戸の仏師に養子となり、佐野の立川芳治の下で宮彫を習得した。その後、篠津久伊豆神社の彫刻を依頼され、当地に住むようになった。                                    
 
  社殿の奥には境内社が数多く祀られている。左側から稲荷大神社、諏訪大神社、榛名神社が並び(写真左)、その隣に(同右)左側から雷電宮・諏訪神社、八幡宮、八幡宮(写真では一基しか見えないが)が鎮座。
 
 また社殿の向かって右側には境内社、九ヶ所神社・疱瘡神社(写真左)、そして五穀大明神(同右)を祀っている。

  さて篠津久伊豆神社の境内に大きな富士塚があり、浅間神社が祀ってある。山崎浅間神社の項でも紹介したが、初山とは、赤ちゃんの額に初山の印を捺して、健康と長寿の願いを込め、疾病の退散を念じる行事で、毎年7月1日に富士山に見立てた小高い山にある浅間神社にお参りする初山祭りが行われるらしい。
           
                       境内南側に鎮座する浅間神社

 また境内の前に大きな山車倉庫があり、そこには「白岡町指定文化財第4号 篠津天王様の山車・宿耕地」と「白岡町指定文化財第5号 篠津天王様の山車・下宿耕地」と記された標柱がある。
           
                        篠津天王様の山車専用倉庫
 7月になると市内各地で疫病退散を願う夏祭りが行われる。中でも八雲神社(岡泉鷲神社・柴山諏訪八幡神社)、八坂神社(上野田・下野田)、須賀神社(篠津)、牛頭(ごず)天王社(白岡の新田地区)を祀る地域では、この夏祭りを「天王様」と呼んでいる。
 篠津の天王様では見事な彫刻の施された五台の山車が地区内を巡行する。山車は岡泉の天王様にも飾られる。上野田・下野田では、勇壮な神輿が耕地内を練り 歩き、疫病の退散を願う。白岡の新田地区や柴山では、オシッサマ(お獅子様)の一行が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡る。


 篠津久伊豆神社は、由緒等による武蔵七党、野与党発祥の地という歴史上の創建の古さと、その地域の守護神としての重さに社殿全体の荘厳さも加わり、参拝にも自ずから厳粛な面持ちとなった。近隣に鎮座している白岡八幡宮の女性的で優雅な白い社殿とは全く対照的で、参道正面の雰囲気はまさに男性的で重厚感がある。社正面から出ている社風というか漂う色が白岡八幡宮とは全く違うのだ。白を基調とした白岡八幡宮や境内にある真新しい神楽殿と比べること自体間違っているかもしれないが、白岡八幡宮の次にこの社を参拝したのだから自然と比較の対象となってしまった。
 しかし一旦正面参道から奥の本殿に向かうと雰囲気が変わる。本殿の彫刻から漂うのか、本殿全体から発する妖艶さからか、決して男性的なものではない。この社の本殿のそれは、大人の女性の熟成された色を感じた。
 「篠津」という地名は河川に関係した地名というが、個人的に「篠」には女性的な余韻を感じてしまう。勝手な個人の主観的感想と変な喩で恐縮だが。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」 「埼玉の神社」 「境内案内板」等
                   

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実ヶ谷久伊豆神社

 俗に地名はその土地の地形や地質、歴史などを表していて、日本人の姓とも深い関わりがあるという。筆者の考え方の根本的なスタンスとして地名の由来を考えることは、古文書等の文献資料、また考古学分野の発掘調査、さらに当時の地形考察の次に重要なコンテンツであり、それらを総合的に研究し、その結果、風土、歴史等がおぼろげながらイメージでき、いにしえに思いを馳せうる骨格の形成に欠かせないものであると考えている。
 そういう意味において昨今の市町村統合によって新しく誕生した地方自治体の新名称には、何の根拠でこのような名にしたのか理解に苦しむものも確かに存在する。出来ることならば古名、旧名は弄らず最低限残す努力もしていただきたい、そんなことを感じる今日この頃だ。

        
           ・所在地 埼玉県白岡市実ヶ谷5531
           ・ご祭神 大己貴命他四柱
           ・社 挌 旧実ヶ谷村鎮守 旧村社
           ・例祭等 例大祭 714  
 実ヶ谷久伊豆神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、同市役所西側に南北に縦断する東北自動車道に沿って走る埼玉県道362号蓮田白岡久喜線を500m程南下し、その先にあるY字路を左側、白岡パークライン合流後、1km程進んだ長閑な田畑風景が広がる先の左側に社の社叢林が見えてくる
 社の境内に入る路地が道路沿いに1カ所あるのだが、偶々ポールが立っていた為入ることが出来ず、参拝するためには一旦社を過ぎた先の十字路を左折し、社号標柱が建つ空間には車が1,2台分停めることができるスペースがあったので、そこに駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                          実ヶ谷久伊豆神社正面
          周囲一帯田園農地が広がる中にポツンと社は鎮座し、
     参道入口付近に建つ一の鳥居や社号標柱の遙か先に社叢林が見えている。
         
『日本歴史地名大系』 「実ヶ谷村」の解説
 旧日川を界して岡泉村の西に位置する。南は江ヶ崎村(現蓮田市)、西は黒浜村(現同上)。地形は大宮台地白岡支台の東端で標高は一一メートル前後、東部は旧日川の低地で微高地は自然堤防である。黒浜村境から村の北方を貫通する道は幸手道で、日光道中杉戸宿(現杉戸町)を経て幸手宿へ通ずる。また江ヶ崎村境から村の北方小久喜村境に至るのが岩槻道である。現日高市聖天院所蔵の応仁二年(一四六八)一一月九日の年紀を有する鰐口(県指定文化財)に「武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村」とみえる。鰐口は久伊豆神社に奉納されたもので、鬼窪郷「佐那賀谷村」は当地のこと。
            
              真っ直ぐな長い参道の先に建つ二の鳥居。この先が 境内・社叢の入口となっている。 
            
                             境内の様子
  この社が鎮座する「実ヶ谷」地域は白岡駅から南東方向で、白岡市役所からは丁度真南方向にある。因みに「実ヶ谷」と書いて「さながや」と読む。白岡市のホームページによればこの実ヶ谷地域は日勝地区に属し、村名の由来は不明であるが、『風土記稿』の久伊豆神社の記載によれば、古くから佐那賀谷(武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村)の名が見え、これが実ケ谷に転じたと考えらる。また、サナガヤのサナは昔の製鉄にちなむ地名といわれている。なまって「サナゲエ」とも呼ばれる。
 江戸時代の初期は岩槻藩領で、明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。この実ヶ谷地区の中央部に実ヶ谷久伊豆神社は鎮座している。            
 
   境内左側にある案内板と境内社。秋葉神社      案内板・秋葉神社の並びに祀られている八坂神社 
              
                                                               拝 殿
『新編武藏風土記稿 實ヶ谷村』
 久伊豆社 觀音の像を彫りたる圓徑一尺余の銅鏡ありしが、二十年以前失ひしと云 本地佛ねるべし、正德四年再建棟札の裏に、當社は嘉吉元年辛亥酉草創とあれど、社傳は詳ならず、されど高麗郡新堀村聖天院に藏する鰐口の表に、久伊豆御寶前云々、武州騎西郡鬼窪佐那賀谷村裏に、大工澁江滿五郞應仁二年十一月九日とあり、鬼窪の名は今傳へされど、佐那賀谷といひ旦久伊豆といへば、當社のものなるべして、舊きよりの勸請しるべし、聖天院に藏する所以は知らず、
 末社 稻荷 天王 疱瘡神 秋葉 別當 延命院 新義眞言宗岩槻彌勒寺の末、神光山と號す、本尊十一面觀音當寺近き頃、回祿にあひ寺傳を失へり、

 実ヶ谷久伊豆神社 白岡町大字実ケ谷字宮前
 実ケ谷久伊豆神社は、嘉吉元年(一四四一)の創建といわれる。祭神には大己貴命ほか四柱が祀られている。
 当社の由緒を伝えるものに、日高市聖天院の鰐口(県指定文化財)がある。この鰐口の表には「久伊豆御宝前 願主衛門五郎 武州崎西郡鬼窪佐那賀谷村」、裏には「大工渋江満五郎応仁二年戊子十一月九日」の銘がある。すなわち、この鰐口は願主の「衛門五郎」が応仁二年(一四六八)、渋江(現岩槻市)の鋳物師「満五郎」に造らせ、当社に奉納したものである。
 銘文中の「鬼窪」とは、武蔵七党の一つである野与党の有力者鬼窪氏の本拠地で、当町の大字小久喜・大字実ケ谷・大字白岡を中心とした地域が相当すると考えられている。(以下略)
                                                         境内案内板より引用

                         
                                 本 殿
 
                 社殿の右側に祀られている境内社・稲荷神社(写真左)
    その右側にある石祠は雷電神社・力石を挟んで一番右側に祀られているのは疱瘡神社(同右)             
            
                                                                 社殿からの風景
  境内は外側から見た社叢の印象に反して陽の光が入っていて思った以上に反していて明るかった。境内の右側、つまり東側には広い空間があり、ゲートボールなどができるように設置されていた。参拝した当日、近所のお年寄りの方たちが数多く集まってレクリエーションを楽しんでいたり、中にはお茶休憩をしていた方たちもいた。小春日和の何とも微笑ましい風景と静かな時間がこの社全体に漂っていた。



参考資料「新編む左飛風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
      「境内案内板」等

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