古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

萩日吉神社

 比企郡は小川町、川島町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町、そしてときがわ町の7町で構成されている。このときがわ町は埼玉県中部にある人口約1万3千人の町で、2006年2月1日に比企郡玉川村と比企郡都幾川村が合併して成立した。都幾川が町を南北に二分するように東西に流れ、その流域の大半の地域は外秩父連山に囲まれた地形だが、南西部のみ岩殿丘陵の西端に位置し街並みもそこに多く存在している。町の面積は約56k㎡で、この面積のおよそ7割が山林という大きな特徴があり、建具の里としても有名で水と緑に囲まれた自然豊かな町である。
 またときがわ町には慈光寺という寺院がある。慈光寺は埼玉県比企郡ときがわ町に国宝のある開山1,300年の歴史の名刹として有名 なお寺で、山号は都幾山。院号は一乗 法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第9番札所としても有名で、関東屈指の大寺院である。また埼玉県では数少ない国宝である「法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 33巻」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として知られている。
 このときがわ町の町中から西側に大きく離れた西平地区に萩日吉神社は静かに鎮座している。別当寺であった慈光寺の鎮護のため、日吉大神のご分霊を勧請し現在の形となったという。

       
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町西平1198
            ・ご祭神 大山咋命 国常立尊 天忍穂耳尊 国狭槌尊  伊弉冉尊
                 瓊々杵尊 惶根尊
            ・社 挌 旧平村鎮守・旧郷社
            ・例祭等 例大祭(流鏑馬・神楽)1月第3日曜日 
                 春季大祭(太々神楽)4月
29 他      
 萩日吉神社は、埼玉県道172号大野東松山線を白石峠方面に向かい、「宿」交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進んだ西平地区、萩ヶ丘小学校の南側にある。萩ヶ丘小学校の校門の向かい側に専用駐車場があるが、そこから萩日吉神社の鳥居が見え、説明しやすい。                  
「埼玉の神社」によれば、「都幾川上流の山間部に位置する西平は、「首都圏の奥座敷」に例えられる美しい自然環境に恵まれた場所である。その地内には、天武天皇二年(六七三)創建と伝えられる天台宗の古刹慈光寺や、八〇〇年も続く禅道場の霊山院、そして流鏑馬で名高い当社など、長い歴史を持つ社寺が集中しており、古くから聖地として知られてきた」と記載されていて、この地に来て実際に参拝すると、やはり周辺の雰囲気、なにより空気が違うと感じざるを得ない。
            
                            正面一の鳥居
 萩日吉神社      
 社記によれば、当社は人皇第二九代欽明天皇六年(544年)十一月、大臣正二位蘇我稲目宿禰によって創建されたと伝えられ、当時は萩明神と称したが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山の鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山から日吉(ひえ)大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮と改称したという。
 更に、『平村弓立山蟇目の由来』と称する伝書によれば、天慶八年(945年)に武蔵国司源経基が慈光寺一山の四至境界を定め、神境龍神山にて蟇目の秘法を習得させ、以来、当山を弓立山と呼ぶようになり、当社の祭礼には蟇目の神事に倣って四方に鏑矢を放つようになったと伝える。
                                                                                                          「埼玉の神社」より引用
          
          一の鳥居の左側、裏手にある社号標    鳥居の右手先にもある木製の社号柱                                      
          
           ときがわ町指定天然記念物で御神木の児持杉(こもちすぎ。写真左・右)      
             
 児持杉 村指定天然記念物
 男杉と女杉があり男杉の根回り6.4mで三本に幹が分かれている。女杉は根回り8.89mあり24本に分かれている。
 二本とも樹高が約40mあり樹齢はおよそ800年位といわれる。なお、この杉は古来よりニ樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。
  昭和56年4月1日 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 児持杉を右手に見ながら石段を上がると一旦平らな空間が広がり、そこには二の鳥居、その左側には平忠魂社、またその参道の途中には萩日吉神社の由来を記した案内板がある。
                          
                                二の鳥居
 
       二の鳥居の左側にある平忠魂社            参道の途中に掲げてある由来を記した案内板 
萩日吉神社の由来
 「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
 当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成3年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 
        手水舎の先 石段の両側には                   石段の先に社殿が見える。
       狛犬ではなく狛猿の石像がある。                 石段を上るにつれて神々しさすら感じる雰囲気。
            
                                 拝 殿
            
                          萩日吉神社の祭りを記した案内板
 萩日吉神社の祭り
 萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
 1月の例大祭には流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内でも現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ヶ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
 神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調が神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
 また、西平・上サ地区氏子の行事として、10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 萩日吉神社を崇敬していた木曽義仲が戦死した後の天福元(1233)年、家臣七苗が明覚郷(荻窪・市川・馬場氏)と大河郷(横川・小林・加藤・伊藤氏)に移住し、義仲の霊を祀り流鏑馬を奉納したことに始まるという。鎌形八幡神社も同様だが、この比企地方には源氏3代(義賢、義仲、義高)の遺跡や伝承が数多い。
            
               社殿の右手には御井社(御神水)・釣取社・合祀社が鎮座している。
                        
      御井社(御神水)の奥に聳える御神木(写真左・右)。児持杉とはまた違う荘厳さをここでも感した。               
          社殿の左手にある神楽殿                     社務所だろうか
 
    社殿左手に鎮座する境内社・八坂神社等                石祠、詳細不明 

 ところで、由緒等の案内板で登場する蘇我稲目という人物は、6世紀に実在した豪族、政治家(506年~570年)で、蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。二人の娘(堅塩媛かたしひめ,小姉君おあねぎみ)を欽明天皇の妃(きさき)とし、天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにして、蘇我氏全盛期の礎をつくった。
 この蘇我稲目の時代は、氏姓制度の全盛期で、一族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度で、この時代の有力豪族は、大伴氏・物部氏・平群氏・葛城氏、そして蘇我氏が他の豪族をリードしていた。
 この豪族の中で、早くも衰退したのが、平群・葛城両氏で、その後、大伴金村が朝鮮半島の外交政策の失敗を糾弾され失脚すると、大連の物部氏(物部尾輿)と蘇我稲目の2大勢力の一巨頭となり、両氏の熾烈な権力闘争が繰り広げられた。
            
                         
 両氏の闘争で特に有名なものが、仏教受容問題で、物部氏は廃仏派、蘇我氏は崇仏派で、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、最終的には587年(用明天皇2年)の丁未の役という諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。

 ということは、少なくとも萩日吉神社に記されている蘇我稲目という人物は、崇仏派であり、寺院を創建するならまだしも、神社の創建に関連する人物とは考えにくいと一般的には思われてきた。
 但し、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られているようだ。逆にいうと、蘇我氏も日本古来の神々や社を敬っていた可能性も捨てきれないとおもわれるのだが。
 さて真実はいかなることだったのだろうか。
  

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今井金鑚神社

 今井氏は武蔵七党の一つ児玉党出身の武士で、「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」などによると、庄氏を名乗ったとされる四郎高家の孫にあたる太郎兵衛行助が今井の地に居館を築き今井氏を名乗ったとされている。武蔵七党系図では「児玉庄太夫家弘―庄四郎高家(一谷合戦)―三郎行家―今井太郎兵衛尉行助―四郎左衛門尉経行―藤内左衛門行経(法名善光。弟太郎資経)―六郎経高(法名蓮心)―女子。経行の弟五郎有助―五郎太郎助経―三郎太郎家経―氏家」という系図となっているという。
 武蔵七党の一つである児玉党の一族の館の近くには守護神である金鑚神社を氏神として崇敬していることが多く、市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれにあたるという。この今井地域も今井太郎兵衛行助が館を築いたときに守護神として乾の方角(北西)に勧請したと伝わっていて、このことは金鑚神社の影響力の広がりを感じることができる。
所在地    埼玉県本庄市今井1124
御祭神    素戔嗚尊、天照大神、日本武尊(推定)
社  挌    旧村社
例  祭    不明

       
 今井金鑚神社は国道462号を旧児玉町から本庄方面に北上し、四方田交差点を左折して真っ直ぐ上里町へ向かう途中に左側に鎮座している。四方田交差点から約2km弱で、道路沿いに鎮座しているので、道順に苦労せずに着くことのできる社だ。
           
 道路沿いで東側にある社号標石。この標石の奥には寛正年間(1789~1801年)の庚申塔。がある。また社号標石の奥に見える道路は、北廓遺跡という今井氏の居館跡と言われ、1982年の道路工事に伴う埋蔵文化財の発掘調査によって幅3.8m、深さ0.6から1.2mの直角の3条の堀が検出され遺物も出土しているとのことだ。現在は道路や駐車場となっていて当時の面影はまったくない。
           
 
 東側に向いている一の鳥居(写真上)の手前右側には本庄市指定文化財の「今井金鑚神社の獅子舞」の案内板(同左)がある。この獅子舞は 享保9年(1724)に社殿を再建したときに奉納したのがその始まりといわれます。京より招いた神官が伝えたといわれ、京風の雅楽や蹴鞠の仕草が取り入れられているという。また参道を真っ直ぐ進むと(同右)、社務所や社殿が右手側に見えるが、それらは参道に対して横を向いている配置となっている。
            
                              拝    殿

 社殿の正面右側にある開闢木喰不動尊 三笠山           拝殿上部にある社号額
          御嶽神社等の石碑群
              
                             本    殿
 社殿の左手奥には多くの合祀社が存在する。今井金鑚神社は明治初年の社格制定に際しては村社となり、明治四十年には字下郭の金鑽神社、字塔頭の飯玉神社、字下田の稲荷神社、字松島の松島神社、字川越田の天神社、字諏訪の諏訪社、字松原の天手長男神社、字雷電下の雷電神社の八社の無各社を合祀した。

           
                         参道の途中にあった社日

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蛭川駒形神社

 平重衡は平安時代末期の武将で、父は平清盛で五男。母は清盛の継室・平時子で宗盛、知盛らとは同腹。本三位中将と称され、源平合戦、正式には治承・寿永の乱で活躍する平家方の大将の一人である。兄知盛と並んで武勇の誉高く、平家の一員として各地を転戦して武功を挙げる。
 武将として重衡を一言でいうならば「不敗の将軍」といえよう。長兄重盛とは違い、重衡が誕生した保元2年(1157年)から保元・平治の乱を経た平和期に成長期を過ごした為、戦争を知らなかったはずであるのに、初陣24歳にして戦えば連戦連勝という輝かしい戦歴を誇ることは、それだけでも異彩を放つ才能の人物だったであろう。父清盛も重衡のその才能を期待してか、それまでの子供につけていた「盛」を付けずに、伊勢平氏の父祖である平維衡にあやかって「衡」とつけたものと思われる。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
 本庄市児玉町蛭川地区の駒形神社の境内には一の谷の合戦の後、捕えられた平重衡の首を蛭河庄四郎高家が持ち帰り供養した塚と伝えられる首塚がある。
所在地    埼玉県本庄市児玉町蛭川214
御祭神    駒形大神(天照大神他6神で構成、推定)
社  挌    旧指定村社
例  祭    不明 

        
 蛭川駒形神社は埼玉県道75号線を旧児玉町方向に進み、大天白交差点を右折し、国道254号バイパスを真っ直ぐ進む。しばらく進むと、国道462号と交じる吉田林交差点に着くのでそこをまた右折し、そのまま約5分位まっすぐ進むと、道路沿いで左側に駒形神社が見える。
              
                   道路沿いに鎮座する蛭川駒形神社正面参道
                
                         社殿の手前にある御神木
            
                               拝    殿
 蛭川氏は。庄氏より分派した氏族であり、児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘の四男である庄四郎高家が、児玉郡の今井郷蛭川荘(蛭川・熊野堂・今井村から成る)の蛭川村に移住して蛭川氏の祖となった事から始まる。姓は藤原だが、本来は有道。蛭川氏の一族は、『吾妻鑑』などの資料に名が見える。
 社伝では、児玉党の本宗家2代目である児玉弘行が神田を若干寄進した事が伝えられている。弘行が社殿を修理した時期は、児玉党祖である児玉惟行の没後と考えられ、11世紀末から蛭川の地が児玉氏本宗家の所領内であったと伝えている。

        社殿の左側にある境内社群        境内社群の手前にある石祠 祠の台座は石棺か?
 
    本殿の奥には合祀社(写真左)や、そこから少し離れた場所にも石祠が1基(写真右)存在する。 
              
             
                           蛭川駒形神社本殿
 拝殿もどちらかと言えば素朴な造りだが、意外と本殿は彫刻などが施されており、壮麗さとある意味妖艶さも醸し出している。

 ところで、冒頭平重衡を紹介したのだが、この平重衡は連戦連勝の「不敗の将軍」と書いたが、最後の最後に1回だけ敗戦を喫している。それが有名な「一の谷の合戦」だ。そしてそこで重衡は生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、追われて味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、庄四郎高家によって生け捕りになったという。庄四朗高家はもちろん蛭川氏の先祖となる人物だ。
 この庄四朗高家は後に重衡が斬首された首を当地に持ち帰り、篤く祀ったという。それが蛭川駒形神社の隅にある「平重衡の首塚」である。
           
                    本庄市指定文化財 平重衡の首塚
この地は、一の谷の合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
                                                  現地標柱案内文より引用

 平重衡は平家方の大将の一人として、兄知盛と並んで勇将として全国にその名は知られていた。その重衡にとって一大事件として起こったのが南都焼き討ちで、東大寺や興福寺を焼失させ、この合戦の顛末により重衡の評判は一変し、仏敵として憎しみの対象となってしまう。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。
 ただここで重衡側の弁護すれば、南都に対しては、平家は最後まで、平和的に話し合いを望んでいた。この戦いの前に平家の忠臣妹尾兼康を派遣して、和議を申し込むも、南都はこれにまったく応じず挑発的な行為で答え、清盛に決戦を挑んだことが原因である。元々当初から、南都は平家と対立し、以仁王の挙兵に際しても、反平家の立場をとっていた。こう考えると、焼き討ちは合戦の最中の不慮の事故ではあるが、南都の僧侶側が自ら破滅を招いたともいえ、重衡の罪は重くないと思われる。時代は下るが織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち事件とほとんど詳細は同じである。いや織田信長には比叡山の壊滅を計画的に画策していたから信長のほうが遥かに重いというべきか。
 その後も重衡が参戦した墨俣川の戦いや、備中水島の戦いにも勝利し、福原まで進出し、平家軍は京の奪回をうかがうまでに回復していた。
 そして重衡唯一の敗戦である「一の谷の戦い」で名だたる公達が多く討死にするが、平家でただ一人生け捕りにされ、この勇将の戦いはここで終わる。

 重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。 『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。
 そして、壇ノ浦の戦いのあった元暦2年(1185年)、重衡は東大寺に引き渡され、妻・輔子との最後の再会を果たした後、斬首された。享年29歳。 時代に翻弄されたとはいえ、太く短く駆け巡る人生で、最後はどのような気持ちでこの短い人生を締めくくったのだろうか。
 重衡の将才としての才能はもちろんだが、平時において心遣いを忘れない気を利かせる、冗談も言うユーモアを持った人物だったという。容貌は「艶かしいほど清らか」と記録が残るほどの美男。また、詩や笛など教養にも優れていた。

 蛭川地域にあるこの伝承が事実かどうかの真偽はあえてここでは問わない。ただ平安時代末期からの歴史がこの蛭川地域に確かに存在していて、それを発見できたことが自分にとってかけがえのない財産の一つとなったことはたしかだ。

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金屋白髭神社

 本庄市には「九郷用水」と言われる灌漑用水がある。この用水の由緒は諸説あり、かなり古いことは確かなようだ。この用水の北側に東福寺があり、その縁起には「昔、この地方は旱魃になやまされ、農民は苦労していた。そこでこの国の国造が、金鑽神社(神川村)に祈願すると一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい。」とお告げがあった。不思議なことにその夜明け、金色の大きな龍が神流川の水中よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進むと、ある高台にのめり上り、姿を消した。その高台がここ東福寺で、その金龍が通った跡に堀を開いてできたのが九郷用水(灌漑面積600ha、流路長さ約15km)であると伝えられている。」という。
 この縁起に記されている「国造」は令制国以前にあった行政区分であり、このことからこの縁起が記された時代の上限はかなり古く感じられ、またこの国造が金鑚神社に祈願したことや、九郷用水周辺には多数の金鑚神社が鎮座していることから、この地域一帯は金鑚神社の信仰地域であったと思われる。さらに神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術を金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
 そしてこの技術者集団が居住していた地域の一つがこの白髭神社が鎮座する「金屋」地区であったのではないかと筆者は推測する。
所在地    埼玉県本庄市児玉町金屋1164
御祭神    猿田彦神(推定)
社挌、例祭  不明

       
 金屋白髭神社は、国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、途中金屋保育所交差点の手前約200m、進行方向の右側に鎮座している。境内は決して広くはないが、この社が鎮座している「金屋」という地名には興味があったし、その地域名からか社の雰囲気も中々趣のある感じだ。駐車場は北側に隣接している第二金屋公民館があり、そこに停めて参拝を行った。
           
                            金屋白髭神社正面
 この社の参道正面には社殿を遮るように御神木の大杉があり、参道もその大杉を避けて迂回して造られている。日本人古来の巨木に対する信仰がまだまだ残っていて、参拝の最初から早くもカウンターを食らった感じを覚えた。

        国道沿いにある社号標石             参道を遮る御神木に並行してある境内社
                
    金屋白髭神社参道正面に聳え立つ御神木の大杉。但し樹齢はそれほどではないように思える。
              
                              拝    殿
 この社には残念ながら由緒等の案内板がない。式内社である武蔵国二宮金鑚神社から数キロしか離れておらず、この「金屋」という地域の由来はかなり深いはずであり、その点が非常に残念だ。
           
        
             
                           金屋白髭神社本殿
  金屋白髭神社から国道462号線を西に5km程行くと金鑽神社が鎮座する。この金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。
 社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。
 さて児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里町阿那志は古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。
 白髭神社が鎮座する「金屋」地区は古くから製鉄・及び鋳物師が存在していた。製鉄・鋳物と用水開削は一見何の関連性のない分野と思われがちだが、「掘削技術」を共通項目として考えるならばいささか早計ではないだろうか。その点は埼玉苗字辞典でも以下の記述があり、参考にしてもらいたい。
中林 ナカバヤシ
同郡金屋村(児玉町) 児玉記考に「旧家中林喜三郎、祖先を中林佐渡守と云ひ、倉林越後守の実弟なり。旧幕の頃は世々忠蔵と通称し、地頭の組頭役を勤続せり。文政の初年迄は倉林家と同じく盛んに鋳物師を営み全国百八軒の其一たりし」と見ゆ。天正年間の倉林越後守と兄弟説は附会にて、遥か是以前より鋳物師であった。多摩郡平尾村椙山神社懸仏銘(東京都稲城市)に「延徳二年壬午五月五日、武州児玉郡金屋住人中林五郎左衛門家吉敬白」。延徳二年(一四九〇)は庚戌である。延徳は私年号で寛正三年壬午(一四六二)が正確である。金屋村懸仏銘に「長享二年戊申六月吉日、武州児玉金屋中林家次」。静岡県富士山頂浅間神社懸仏銘に「天文十二年癸卯六月吉日、武州児玉金屋中林常貞」。大滝村三峰神社懸仏銘に「天文十四年乙巳八月吉日、三峰大明神、武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」。小平村成身院文書に「文禄四年、阿弥陀如来座像造立之檀主中林加賀守・中林主計助・中林若狭守」。当村真福寺文禄四年墨書銘に旦那中林加賀守・中林主計助。上州世良田村東照宮元和四年燈籠奉納に金屋村中林仲次。川越鋳物師寛政六年小川文書に「児玉郡八幡山金屋村いものし・中林由右衛門・同庄右衛門・同伊左衛門・同治兵衛・同治右衛門・同太郎兵衛」。秩父郡金沢村西光寺天保十五年半鐘銘に児玉郡金屋村鋳物師中林庄右衛門。当村円通寺嘉永五年地蔵尊に中林伊左衛門・中林利七・中林定五郎母なみ・中林善兵衛母すみ・中林源治郎妻くめ・中林仙蔵妻りよ。当村元治元年二十二夜塔に中林善兵衛・中林茂助あり。
真継 マツギ 我国鋳物師の元締にて江戸時代に京都の真継能登守斎部宿祢は、足立郡川口町や児玉郡金屋村の鋳物師等を支配す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
金屋村(児玉町) 金屋は金打の義で古代以来鍛冶・鋳物を業とする集団の居住地にて、小名倉林は此氏の屋敷名なり。(中略)秩父郡薄村薬師堂鰐口銘に「天正十五丁亥年十一月十五日、武州秩父郡薄之郷薬師堂鰐口処、大旦那北条安房守氏邦、武州児玉郡金屋村細工大工棟梁倉林若狭守政次」あり。風土記稿金屋村条に「天正中は倉林越前守・村民政右衛門が先祖知行せり。(中略)倉林文書(埼玉の中世文書)に「戌三月二十日(天正十四年)、伝馬三疋可出之、上州之鋳物師に被下、可除一里一銭者也、仍如件、自小田原西上州迄、宿中、垪和伯耆守奉之」あり。上州鋳物師宛てにて、前橋市上新田の鋳物師倉林氏宛てなり。金屋村倉林氏が買い求めた物であろう。児玉記考に「○旧家倉林甚四郎、先代を政右衛門と通称し、祖先を倉林越後守と云ふ、越後守は嘗て上杉修理太夫政実より旧賀美郡安保村に於て知行七貫文を与へられたる名族の後胤なり。爾来連綿同族三十有六戸皆繁盛を極む。○旧家倉林太郎兵衛、祖先は甚四郎に同じ。仁安元年(平安時代末期)始めて鋳物師となり、往時全国百八軒の其一なり。紫宸殿へ燈炉を献納し禁裏御用附となり、爾来、主上御即位毎に必ず参内せり。天福元年菊の紋章を許され現に門扉の座金に此章を附す。維新前は世々地頭の名主役を勤め苗字帯刀を許さる。



 埼玉苗字辞典では金屋地区の鋳物師は同時に鍛冶師であるという。時代は下るが平安時代以降から活躍した児玉党も金鑽神社を信奉し、崇敬していた一族という。
 金屋地区も金鑽神社を信奉する鍛冶師、鋳物師が居住していた地域だったからこそ、後世にこの地名が残ったのではないだろうか。

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下児玉金鑚神社

 金讃神社は、総本社である神川町二ノ宮に鎮座している式内社、旧官幣中社という格式の高い同名社が有名であるが、本庄市、美里町にもその関連する社が非常に多く分布している。元々この地域は武蔵七党の一つ、「児玉党」の本家筋にあたる児玉氏の本拠地とも言われ、氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国、武蔵介として下向し、その子息の有道惟行が児玉党の祖となったといわれている。
 児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、 そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。児玉氏の嫡流は多くの氏族(支族)に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出(庄氏)である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行(児玉氏の本宗家3代目)の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。
 児玉郡に居住した児玉党一族は嫡流の庄氏を含む庶流に至るまで一族の守護神として金鑚神社を崇敬し自らの居住地には当該神社を勧請しており、そのことから金讃神社の分布図は児玉党一族の勢力範囲を示すものとも言える。

         
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町下児玉322
             ・御祭神 天照皇大神 素戔嗚命 日本武尊
             ・社 挌 旧下児玉村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 43日 大祓 728日 例祭 1019
                  新嘗祭 1215
 地図  https://www.google.com/maps/@36.2049214,139.1605877,16z?hl=ja&entry=ttu 
       
 下児玉金讃神社は、埼玉県道75号熊谷・児玉線を旧児玉町方面に進み、コンビニエンスが右側にある十条交差点を右折し、道なりに真っ直ぐ進み、小山川を越えた最初のY字路の交差点を左折すると右側に同神社が鎮座する社叢が見えてくる。残念ながら駐車場はなく、社の右側手前に社務所があり、そこに細長い道があり、そこに停め参拝を行った。
           
                           下児玉金讃神社正面
  
         入口付近にある社号標石              住吉社、一心霊神、北辰尊星神等
  「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているが、これは北向神社の伝承とほとんど一緒であろう。
 元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられている。
 
         下児玉金讃神社正面参道                                    社殿手前左側にある神楽殿
                          
                                     拝 殿
            
                        拝殿左側に設置されている案内板
金讃神社 御由緒     美里町下児玉三二二 
□御縁起(歴史)
 児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(一三九〇)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正十年(一五一三)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
 このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(一六八九)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
 一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。(以下略)
                                                         境内案内板より引用
            
                      境内社 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社
                       
                     境内にあった「享保10年(乙巳=1725年)」の石碑
 この石碑は「二月吉日」より下がやや読み取りづらい。1725年でこの地域に関係している事項としては明和元(1764)年に発生した「伝馬騒動」の首謀者である義民遠藤兵内の生年であるが、それに関連した石碑だろうか。
                  
                             下児玉金讃神社 遠景

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