古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

堀の内羽尾神社

 羽尾神社の祭神の一柱である藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明は人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 この藤原恒儀という人物は別名「恒儀様(ゴウギサマ)」と呼ばれ、昔から親しまれ、非常な力持ちで角力、つまり相撲が強かったと伝承もあり、土師氏の始祖野見宿禰を暗に連想させる。

        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4806
             ・御祭神 日本武尊 藤原恒儀
             ・社 挌 旧指定村社
             ・例祭等 春祭り 4月吉日 例大祭 10月吉日 秋祭り 10月吉日            
 羽尾神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川消防分署交差点前の信号を右折するとすぐ右側に鎮座している。右折する交差点は大型ショッピングモールが左側にある交差点なので、経路を説明する際には、まず迷うことのない解りやすい社と言える。
 社に隣接してすぐ北側には小さいながらも公園の駐車スペースもあり、身障者用の駐車スペースも設置されている駐車場もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
                   
                            参道右側にある社号標
            
                                    参道正面の石鳥居
            
                      鳥居の右側に設置されている案内板          
 羽尾神社由緒
 一 御祭神 倭建命 藤原恒儀
 一 由緒
 当神社は、往古より「恒儀様」と尊称され、町崇敬の産土神社である。 
 また、伝来の古書に「倭建命、天長六(西暦829年)年鎮座」と明記されている。

 また、別の祭神「藤原恒儀」は、青鳥判官と称し、隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で、天長六年九月二十日の卒した人と伝えられる。
 後年に至り当社に合祀されたと云う。 
 そして、当社は、藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承されている。

 明治四年村社となり、大正五年四月指定村社に昇格した。
                                                            案内板より引用
羽尾村 恒儀
村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の靈を祀る所なり、恒儀は天長六年九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に、恒儀の住せし城蹟といふものあり、享保年中當の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに、恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき、清原熊鷹と云るものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由、王政玉と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是まで號をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと稱すべしといひしよし改號せりと、按に王政玉と云書名うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければ、つまびらかならず、姑く傳るままを記せり、
                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                                             羽尾神社 参道
 羽尾神社は比企丘陵の尾根の微高地先端に建てられており、一の鳥居から決して高くはない2つの石段を登ると社殿が見えてくる。この羽尾神社は今でこそ社として鎮座しているが中世には羽尾館、つまり城的機能を持つ館があったのではないかと言われている。、
 現地を訪れると確かに神社背後にわずかに土塁や空堀らしい跡が確認でき、台地先端を掘り切っているように見える。ただはっきりとした明確な遺構とは言えないことも確かで、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性もある。
             
                                    拝  殿
 
        拝殿の額には「鎮護宮」と書かれている。                  本 殿
 ところで羽尾の「羽」は羽生の地名の由来とと同じく「埴輪」の「埴」、つまり、土師族出身の移住民がこの羽尾地方に住んできたことをこの地名は意味するのではないだろうか。土師氏は土器を製作する集団を土師部といい、ハゼ、ハニシとも称していた。この滑川町を含む比企地方の地名「比企」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力で、この日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通している。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になる。つまり、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっているという。
            
                                                           社殿からの一風景
 この日置部集団は太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団である。
 6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっており、8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。このことはある高度の技術者集団の移住が考えられる。
                       
 
 また羽尾神社の祭神である藤原恒儀は滑川村誌 民俗編によると、この人物は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の伝承があるという。また武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村によれば、羽尾村の琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の片目伝承との関連性が興味深い。
 つまり藤原恒儀はこの地域の古代鍛冶集団の長であった可能性が非常に高いのではなかろうか。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「滑川ふるさと散歩道HP」等
    

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奈良梨八和田神社

  奈良梨宿(ならなしじゅく)は、川越・児玉往還にあった宿場で、現在の比企郡小川町大字奈良梨の奈良梨交差点周辺が該当する。この地はかつての鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であった。天正10年12月9日の北条家伝馬掟には、奈良梨に対して、西上州の通路にして伝馬を高見及び菅谷まで綱立すること、一日につき平時は馬3匹、戦時には馬10匹を備えて置く。それぞれ公用荷物に限り無賃で輸送すること、それ以外の荷物は一里一銭の公定駄賃を取るように指示している。
 戦国時代の後北条氏は内政に優れた大名として知られていて、早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。伝馬制も同様に内政を得意とする後北条氏らしく細やかな規定だ。これらの事柄からここ奈良梨は戦国時代には伝馬駅宿に定められ、宿が形成されていたことを知ることができる。
所在地   埼玉県比企郡小川町奈良梨939
御祭神   建御名方命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   不明

      
 奈良梨八和田神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道296号菅谷寄居線が交わる奈良梨交差点の北側に奈良梨八和田神社、旧名諏訪神社は鎮座している。埼玉県道296号線沿いに嘗て鎌倉街道上道はあったと考えられ、この奈良梨も重要な拠点の一つであったことは上記後北条氏の伝馬掟でも判明している。八和田と書いて「やわた」と読むが、決して八幡系の社ではなく、諏訪神社系統のようだ。
         
 一の鳥居から二の鳥居や社叢までの長い参道。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあり、両県道の交通量の多さから今回撮影ができなかった。
         
                         二の鳥居正面参道

  二の鳥居の手前で右側には厳島社とその周りには水堀のような池があるが、農業用の溜池だろうか。
           
                             拝    殿
 八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。
 
              神楽殿                           本    殿 
                       
  昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。
 当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
                                               「埼玉の神社」埼玉県神社庁
                  
                           八和田神社の大杉

  高さ約30m、目通り約5.7mの大スギ。赤茶けた幹が威容を誇る。周辺は田園地帯のため遠くからもよく目立つ。樹齢は約800年以上と推定され、小川町の天然記念物に指定されている。

 また八和田神社の鰐口は、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)大成と永順に寄り懸けられたが、その後、弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといわれる。大きさは、面の径34.6センチ、胴の厚さ18.5センチを測り、鰐口としては大型である。
           
 この八和田神社の鰐口は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けている。

 

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菅沼天神社

弓で的を射る弓神事は、現在も各地で行われているが、形式的には、主として乗馬した射手が馬を馳せながら射る流鏑馬、その場で射る歩射の二種類であろう。民間の弓神事として行われるのは、ほとんどが後者のほうであり、地域によりさまざまな言い方がある。
 
関東地方では一般的にオビシャと称し、埼玉、千葉、茨城各県の利根川流域の各村落で行われる春の行事であり、特にこの3県において濃密に分布している。漢字では、「奉射」「奉謝」「奉社」「備射」「備社」「毘舎」「毘者」「毘沙」「御歩射」等いろいろ言われている。関東地方で現在も行われている弓神事は、新暦の1月あるいは2月に集中していて、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
 
深谷市菅沼地区に鎮座する天神社にもオビシャ神事の一形態である「的場の儀」が例年初午の日である225日に行われている。
所在地   埼玉県深谷市菅沼480
御祭神   菅原道真
社 挌   不明
例 祭   2月25日「的場の儀」を含む春の例大祭

     
 菅沼天神社は国道140号線を熊谷警察署から旧川本町方向に進み、知形神社がある植松橋の下流約1kmの荒川の段丘崖上に鎮座している。国道140号から左折した先に鎮座しているが、手作りの看板があるので見落とさなければこの小さな社に着くことができる。社叢に接して社務所があり、そこには駐車スペースがあるのでそこに停めて参拝を行った。

 菅沼天神社正面参道。この参道を真っ直ぐ進む先に天神社は鎮座しているが、社殿は南側、つまり進行方向に対して横を向いている為、鳥居からは左側90度曲がって進むことになる。その曲がった先に天神社社殿が存在する。
              
 参道を進むと左側に「的場の儀」の案内板と石像がある。「的場の儀」は深谷市指定無形文化財。

  天神社の「的場の儀」を始め、関東3県(千葉、茨城、埼玉)に多く民間伝承されている「オビシャ」神事は、淵源を辿ると「射日神話」にたどり着く。菅沼天神社のように白い紙に同心円を描いた一般的な的もあるが、中には、墨で「鬼」の宇を書いた的や、三本足の烏や兎などを描いた的もある。古来、中国や朝鮮半島、日本では、三本足の烏は太陽を、兎や蛙は月を象徴する動物として描かれてきた。この三本足の烏は八咫烏とも言われ、日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊 によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる神聖な烏であり、賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と、中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされる。このためオビシャは、「日射」すなわち象徴的に太陽を射て、新たな年の活性化を図る行事であったのではないか、とする考え方もある。
 
                                            
                    天神社社殿
『隋書』倭国伝の一節にこのような記述がある。

 
毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妒。

(現代語訳  
毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。)

 
ここで書かれている「射戯」とはオビシャ神事ではないかという人もある。とすると、このオビシャ神事の淵源は考えられている以上に太昔に遡るかもしれない。

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武蔵野八幡神社

  武蔵野と呼ばれる地域は旧武蔵国に居住地のある筆者にとって妙に郷愁をそそられる名前である。この武蔵野の範囲について明確な定義はないようだが、広辞苑によれば「埼玉県川越市以南、東京都府中市までの間に拡がる地域」であり大略において今の武蔵野台地にあたる地域とも、また広義には「武蔵国全域」を指すこともあるとされている。
 
埼玉県深谷市にもその「武蔵野」という地域が存在する。元々は旧花園町に属し、2006年(平成18年)1月に深谷市に合併された一面のどかな田園地帯が続く地域だ。町の殆どが櫛引台地上にある。『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸初期、この辺りを飯塚村といい、上飯塚と下飯塚とに分かれていたらしく、武蔵野村に改称したのは明治期になってからのことらしい。
 
武蔵野=雑木林のイメージには全く似つかわしくない水田地帯であるが、この地に華麗な装飾に飾られた社が存在している。
所在地    埼玉県深谷市武蔵野1862
御祭神    誉田別命(推定)
社  挌    旧村社
例  祭         不明
         
 
 武蔵野八幡神社は旧花園町、現深谷市花園地区武蔵野の埼玉県道175号小前田児玉線の北側に鎮座している。同県道は秩父鉄道小前田駅を起点にして最初に西方向に進むが、途中踏切を越える手前から北西方向に進路を変え、その道を真っ直ぐ進み、原宿交差点の先約300mで進路に対して右側にこの社はある。
 駐車場は道路沿いにはなく、社をぐるっと回った本殿の奥に武蔵野自治会館があり、そこの駐車スペースに停めて参拝を行った。
           
 
                                                        武蔵野八幡神社正面
 この社の案内板はなく、その代わりに鎌倉街道(上道)についての看板が鳥居の左側に大きくあった。この地は鎌倉街道の宿駅・原宿があったところで、鎌倉街道は源頼朝は鎌倉に幕府を開いてから(1192)後北条氏が滅びるまで(1590)政治的、軍事的な主要道路の役割を果たしてきたという。現在はほぼ舗装されているこの道を畠山重忠、新田義貞等多くの武将の栄枯盛衰の物語を刻みつけた道と思うと、感慨はまた一入(ひとしお)だ。


    鎌倉街道(上道)のみちすじ」と書かれた案内板                     境内の風景
 
         
                          武蔵野八幡神社拝殿

 
     犬養毅筆の拝殿上部の社号額         拝殿側部には西南戦争で活躍した陸軍元帥

                                           野津道貫の額
        
  今現在は色あせてきているが、築造当時は華麗に装飾され、彫刻も見事だったろうと思われる
                          武蔵野八幡神社本殿

武蔵野八幡神社
 
当社の西側を通る県道小前田・児玉線は、建久三年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開いてから整備した鎌倉街道であると伝えている。頼朝やそれに従った者たちの八幡信仰はよく知られている。
 当社も、この街道を通って、鎌倉に向かった当地の武将が信仰したものなのであろう。江戸期は、当社の北東に位置する浄土宗常光寺が別当で、祭祀を司っていた。その後、明治に入り、政府から神仏分離令、次いで神社合祀政策が打ち出された。当社も、明治四十一年には、字東宿地の無格社大荒神社、字正法寺の無格社諏訪大神社を合祀し、社名を八幡大神社と改めた。更に、翌四十二年には、字宮地の村社十二社大神社及びその境内社八幡大神社を合祀した。この折、字風原の村社足高大神社も合祀する予定であったが、賛同が得られず中止となった。
 このため足高大神社は、合祀された十二社大神社の氏子への配慮から、
社名を大正四年に武蔵野神社に改めた。また、一旦合祀された十二社大神社は、昭和二十八年に地元の氏子の強い要望により、十二社神社の社名で字濡僧の地に分祀され、当社も八幡神社の旧称に復した。
                                       埼玉の神社、埼玉県神社庁発行より引用

 
    武蔵野八幡神社社殿の奥にある合祀社             合祀社に並んである仙元社等 



 



 

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人見浅間神社

 深谷市の中部から南部にかけては荒川によって形成された櫛引台地が存在する。海抜約50mから100mにかけてのなだらかな台地だが、その北端に仙元山が存在する。この仙元山は6,340万年前から260万年前の第三紀層の残丘と言われ、長年の断層運動や河川の浸食によって周囲から取り残され孤立した丘と言われている。
 この周囲から突出した仙元山は古くは人見山とも言われ、
古来からの霊地であったという。 伝説には、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがある。仙元山という名前は山頂付近に人見浅間神社は鎮座している関係でつけられた名前とも言われている。
 
現在では仙元山周辺は仙元山公園として綺麗に整備され、陸上競技場、野球場、 テニスコート、多目的グラウンドなど、多数の屋外スポーツ施設の他、遊園地も併設されているレジャースポットとして、深谷市内外の人々も多数利用され、憩いの場所になっている。
所在地   埼玉県深谷市人見1404
御祭神   木花開耶姫命
      (合祀)伊邪諾命 伊弉冉命 大物主命 倉稻魂命 別雷命 建御名方命
社 挌      旧郷社
例 祭      10月19日 新嘗祭 (秋祭)
         
             

人見浅間神社は深谷駅の南側約2kmの所に仙元山があり、その山頂に鎮座している。埼玉県道62号深谷寄居線を深谷市から南方向に真っ直ぐ進むとほぼ前方に平たな小高い緑の丘があり、そこに向かって進めば大体間違いなく仙元山に到着することができる。ある意味仙元山は深谷市の中で一番解りやすい目標地点の一つともいえる。
 人見浅間神社専用の駐車場はないので、千元山公園内の運動場の駐車スペースは広く確保されているのでそこを利用して参拝する。
 


                    
               浅間神社正面参道にある一の鳥居
 
   一の鳥居の手前右側にある社号標           左側には案内板
浅間神社
 仙元山の頂上にまつられ、祭神は木花開耶姫命ほか六神である。古来より安産守護神として遠近の人々の信仰をあつめてきた。
 この社の創立は不詳だが、この地の豪族、大夫四郎家守が境内に建てた宝篋印塔の延文二年(1357)の彫銘により、南北朝時代にはすでに存立していたと思われる。
 室町時代、この神社は人見館(上杉館)の鬼門に位置していたので、館鎮護としてまつられた。深谷城を築造した上杉房憲は、南麓に昌福寺を開基したが、四代後の氏憲もこの社を崇敬し寄進状の中の富士山とは当社のことである。
 
江戸時代、元和元年徳川秀忠の近臣岡田太郎右衛門利永がこの地を領し代々この社を崇拝し、社殿などを寄進した。


        
             額には「富士山」と書かれた二の鳥居
             
          
          雨に濡れた社殿風景。社はこのような景色もまた良い。      
         
                      拝   殿
浅間神社の由来
 浅間神社は、深谷駅の南方2kmに位置する標高98mの丘陵型ミニ森林公園・仙元山の頂上にあり、 緑豊かな環境に囲まれて自然と共存する由緒ある古社です。
 創建年代は不詳ですが、南北朝時代にはすでに存在したようであり、また、縄文時代の昔から眺めの良い場所や水の湧く場所などは聖地として崇められ、 それが後代神社になった例もあるため、霊山としての起源は相当古い昔に遡る可能性があります。
 御祭神は、天孫「ニニギの尊(みこと)」の妻で、海幸彦と山幸彦の母の「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」であり、 ほかに6柱の神が祀られています。
 古くから安産の神として、近在ばかりか相当遠くの人たちの厚い信仰を集めて、安産講の組織も存在したと言われ、また、 養蚕守護の御利益もあったといわれています。
 人見館(上杉館)の鬼門に位置したため、室町時代は館鎮護の役割を果たしたようで、平家物語の一の谷の合戦に源氏方で登場する「人見四郎」、 その子孫で、太平記の赤坂城の合戦に73歳の高齢の身ながら白髪を染めて出陣した同名の人見四郎も、この地の出身の可能性が高く、 今でも仙元山の近くに史跡・人見館跡が保存されています。
 鳥居の神社名を記した文字は、昭和9年に皇太子として誕生された現在の平成天皇のご誕生記念として、当時の文部大臣、鳩山一郎が謹書したものです。
                                    仙元山公園 ビッグタートル ホームページより引用
             
                                                                      本     殿


                  社殿左側にある二柱神社の由緒の案内板          二柱神社
二柱神社由緒
「聖天様」の名で親しまれている二柱神社は、もと字瀧ヶ谷戸ほか大字人見内の各所に祀られていたいくつかの同名の小社を合祀して、明治四十年にこの地に遷座したものです。社名の由来は、御祭神に伊弉諾命・伊弉冉命の夫婦二柱の神を祀ったことによるもので、夫婦和睦また縁結びの神様として信仰されて来ました。二柱の神は、浅間神社の御祭神の木花開耶姫命から見て、祖父母の神様になります。
 ここに伊勢の神宮御鎮座二千年の吉き年に当り、安産等の神として長い歴史を持つ本社の浅間神社と並び、末永くこの地に栄え、氏子崇敬者の子々孫々までに御加護と御恵みを蒙りますように、社殿を新たに造り替え、由緒の概略を記すものです。
 平成8年2月19日
                                                      案内板より引用
 



平家物語や太平記に登場する武州の人見四郎という名の武将は、当地の出身と思われ、近くに人見氏館跡が保存されている。 
 
人見氏は武蔵七党の一つ猪俣党に属する河匂政経(かわわまさつね) がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのに始まる。その子行経は寿永3年(1184年)の一の谷合戦で活躍、建久元年(1190年) 頼朝上洛の際に随行もしている。子孫は、鎌倉幕府の御家人として活躍していて、中でも人見四郎は元弘3年(1333年)2月に楠木正成が籠る河内赤坂城攻めに参戦し、壮絶な死を遂げたことで有名な武将である。
 こ
の人見氏の本家筋にあたる猪俣氏は、猪俣党とも呼ばれ、 武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり武蔵七党の一つ。小野の末裔を称す横山党の一族であった。
 
ところで猪俣氏は小田原北条史料に「猪俣能登守は、天正七年まで富永助盛と称す」と見られるように本名は「富永氏」であったようだ。

富永 トミナガ 那加(なか、なが)の那は国、加は村の意味で、登美族の渡来集落を富永と称す。
猪俣氏の本名富永氏 
 能登守助盛は猪俣城主となり、猪俣氏の名跡を継承して猪俣能登守邦憲と名乗る。弟に富永勘解由左衛門助重(清兵衛)あり。猪俣文書(本名富永氏)は東京大学史料編纂所が所蔵す。猪俣文書に「三月十四日(天正六年か)、向多留致伏兵(赤城村樽)、城主始牧和泉守次男数多討捕由、対安房守氏邦注進状、富永能登守殿(後の猪俣邦憲)、氏政花押」。「天正七年六月十日、猿ヶ京番衆(新治村)へ可申越旨云々、富永能登守奉之」。富永清兵衛覚書(猪俣文書)に「加リ金の城主倉賀野淡路守殿、是へ働之時、清水と申す観音堂焼申時、我等参やき候へば、敵観音堂迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓に相たうをは焼はらい申候事、同日の晩に惣人数陣場へ引申時、敵出候而、松山上田殿と敵取くみ申所へ我等馬を乗入、鉄砲に中申候。滝川合戦に而、安房守様御供申、御眼前に而高名二つ仕候事」。富永清兵衛は富永勘解由左衛門助重と称し、兄富永能登守助盛は猪俣能登守邦憲と称す。
                                                埼玉苗字辞典より引用



美里町猪俣は地名から窺えるとおり猪俣党の本拠地であるが、この根拠地を中心にして周辺に勢力を伸ばした。関連氏族は「猪俣氏」「人見氏」「男衾氏」「甘糟氏」「岡部氏」「蓮沼氏」「横瀬氏」「小前田氏」「木部氏」など。
 
男衾郡の延喜式内社の一つである「小被神社(おぶすまじんじゃ)」の由緒は「安閑天皇の御宇、富田鹿(ロク)なる者が、富田村字塚越に小祠を建てて小被の神を祠ったことに始まる。」と書かれていてここにも「富田鹿」という「富」姓をもつ在地の豪族が近隣に存在していて、猪俣氏と関連性があるのではないかと思われる。
 このように「人見」は猪俣党出身の一族がこの地に移住して開発した地であり、またこの猪俣党の本来の姓は「富永、富姓」と思われることから「人見」の本当の名前は「日+富」ではなかったのではないかと現時点で推測される。

*「日」の根拠として考えられることは、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがあり、古来から地方の霊山として神聖視されたというところから、「日」=祭祀の象徴であると思える。
 また猪俣氏の根拠地である美里町から仙元山は、丁度「東側」の方角であり、「東」=「日出づる場所」とも考えられていたのではないだろうか。



 

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