古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

実ヶ谷久伊豆神社

 俗に地名はその土地の地形や地質、歴史などを表していて、日本人の姓とも深い関わりがあるという。筆者の考え方の根本的なスタンスとして地名の由来を考えることは、古文書等の文献資料、また考古学分野の発掘調査、さらに当時の地形考察の次に重要なコンテンツであり、それらを総合的に研究し、その結果、風土、歴史等がおぼろげながらイメージでき、いにしえに思いを馳せうる骨格の形成に欠かせないものであると考えている。
 そういう意味において昨今の市町村統合によって新しく誕生した地方自治体の新名称には、何の根拠でこのような名にしたのか理解に苦しむものも確かに存在する。出来ることならば古名、旧名は弄らず最低限残す努力もしていただきたい、そんなことを感じる今日この頃だ。

        
           ・所在地 埼玉県白岡市実ヶ谷5531
           ・ご祭神 大己貴命他四柱
           ・社 挌 旧実ヶ谷村鎮守 旧村社
           ・例祭等 例大祭 714  
 実ヶ谷久伊豆神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、同市役所西側に南北に縦断する東北自動車道に沿って走る埼玉県道362号蓮田白岡久喜線を500m程南下し、その先にあるY字路を左側、白岡パークライン合流後、1km程進んだ長閑な田畑風景が広がる先の左側に社の社叢林が見えてくる
 社の境内に入る路地が道路沿いに1カ所あるのだが、偶々ポールが立っていた為入ることが出来ず、参拝するためには一旦社を過ぎた先の十字路を左折し、社号標柱が建つ空間には車が1,2台分停めることができるスペースがあったので、そこに駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                          実ヶ谷久伊豆神社正面
          周囲一帯田園農地が広がる中にポツンと社は鎮座し、
     参道入口付近に建つ一の鳥居や社号標柱の遙か先に社叢林が見えている。
         
『日本歴史地名大系』 「実ヶ谷村」の解説
 旧日川を界して岡泉村の西に位置する。南は江ヶ崎村(現蓮田市)、西は黒浜村(現同上)。地形は大宮台地白岡支台の東端で標高は一一メートル前後、東部は旧日川の低地で微高地は自然堤防である。黒浜村境から村の北方を貫通する道は幸手道で、日光道中杉戸宿(現杉戸町)を経て幸手宿へ通ずる。また江ヶ崎村境から村の北方小久喜村境に至るのが岩槻道である。現日高市聖天院所蔵の応仁二年(一四六八)一一月九日の年紀を有する鰐口(県指定文化財)に「武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村」とみえる。鰐口は久伊豆神社に奉納されたもので、鬼窪郷「佐那賀谷村」は当地のこと。
            
              真っ直ぐな長い参道の先に建つ二の鳥居。この先が 境内・社叢の入口となっている。 
            
                             境内の様子
  この社が鎮座する「実ヶ谷」地域は白岡駅から南東方向で、白岡市役所からは丁度真南方向にある。因みに「実ヶ谷」と書いて「さながや」と読む。白岡市のホームページによればこの実ヶ谷地域は日勝地区に属し、村名の由来は不明であるが、『風土記稿』の久伊豆神社の記載によれば、古くから佐那賀谷(武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村)の名が見え、これが実ケ谷に転じたと考えらる。また、サナガヤのサナは昔の製鉄にちなむ地名といわれている。なまって「サナゲエ」とも呼ばれる。
 江戸時代の初期は岩槻藩領で、明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。この実ヶ谷地区の中央部に実ヶ谷久伊豆神社は鎮座している。            
 
   境内左側にある案内板と境内社。秋葉神社      案内板・秋葉神社の並びに祀られている八坂神社 
              
                                                               拝 殿
『新編武藏風土記稿 實ヶ谷村』
 久伊豆社 觀音の像を彫りたる圓徑一尺余の銅鏡ありしが、二十年以前失ひしと云 本地佛ねるべし、正德四年再建棟札の裏に、當社は嘉吉元年辛亥酉草創とあれど、社傳は詳ならず、されど高麗郡新堀村聖天院に藏する鰐口の表に、久伊豆御寶前云々、武州騎西郡鬼窪佐那賀谷村裏に、大工澁江滿五郞應仁二年十一月九日とあり、鬼窪の名は今傳へされど、佐那賀谷といひ旦久伊豆といへば、當社のものなるべして、舊きよりの勸請しるべし、聖天院に藏する所以は知らず、
 末社 稻荷 天王 疱瘡神 秋葉 別當 延命院 新義眞言宗岩槻彌勒寺の末、神光山と號す、本尊十一面觀音當寺近き頃、回祿にあひ寺傳を失へり、

 実ヶ谷久伊豆神社 白岡町大字実ケ谷字宮前
 実ケ谷久伊豆神社は、嘉吉元年(一四四一)の創建といわれる。祭神には大己貴命ほか四柱が祀られている。
 当社の由緒を伝えるものに、日高市聖天院の鰐口(県指定文化財)がある。この鰐口の表には「久伊豆御宝前 願主衛門五郎 武州崎西郡鬼窪佐那賀谷村」、裏には「大工渋江満五郎応仁二年戊子十一月九日」の銘がある。すなわち、この鰐口は願主の「衛門五郎」が応仁二年(一四六八)、渋江(現岩槻市)の鋳物師「満五郎」に造らせ、当社に奉納したものである。
 銘文中の「鬼窪」とは、武蔵七党の一つである野与党の有力者鬼窪氏の本拠地で、当町の大字小久喜・大字実ケ谷・大字白岡を中心とした地域が相当すると考えられている。(以下略)
                                                         境内案内板より引用

                         
                                 本 殿
 
                 社殿の右側に祀られている境内社・稲荷神社(写真左)
    その右側にある石祠は雷電神社・力石を挟んで一番右側に祀られているのは疱瘡神社(同右)             
            
                                                                 社殿からの風景
  境内は外側から見た社叢の印象に反して陽の光が入っていて思った以上に反していて明るかった。境内の右側、つまり東側には広い空間があり、ゲートボールなどができるように設置されていた。参拝した当日、近所のお年寄りの方たちが数多く集まってレクリエーションを楽しんでいたり、中にはお茶休憩をしていた方たちもいた。小春日和の何とも微笑ましい風景と静かな時間がこの社全体に漂っていた。



参考資料「新編む左飛風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
      「境内案内板」等

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白岡八幡宮

 埼玉県白岡市は、埼玉県の中東部に位置する人口5万1千人の都市である。関東平野の中央部に位置し、山地は無く、ほぼ平坦な地形であるが、市内は台地と低地が入り組んでおり、緩やかな勾配のある坂道も数多くも点在している。
 西側にある蓮田市と元荒川で境とし、市内を中川水系の小河川が複数縦断する。東部には白岡台地・慈恩寺台地が存在する。都心から40キロ圏内という恵まれた立地条件に位置し、交通の便もJR宇都宮線の白岡駅、新白岡駅、さらに東北自動車道久喜ICが近くにあり、恵 まれている。また、国道122号、県道さいたま・栗橋線が縦貫するとともに、県道春日部・菖蒲線が東西に通過し、重要交通機関の通過地点を呈している。
 白岡(しらおか)の地名の起こりには諸説あるが、一つは正福院貝塚の貝殻が元荒川方向から見ると、太陽の光で光輝いて見える岡という説。もう一つは白岡八幡宮の縁記の「平安時代の嘉祥2年(849)に慈覚大師が、この地に来て、八幡宮と正福院の阿弥陀薬師を祭祀した。その時大師の御前に3羽の白い鳩が舞い遊んだ。その様子をご覧になって、白鳩のすめる白い岡」により、白岡と命名した説がある。
                                   
            ・所在地 埼玉県白岡市白岡889
            ・ご祭神 仲哀天皇(正八幡宮) 応神天皇若宮) 神功皇后姫宮
            ・社 格 旧白岡村鎮守 旧村社
            ・例祭等 例大祭 3月第2日曜日  秋季大祭 10月第3日曜日         
 白岡市に鎮座する白岡八幡宮は白岡市駅から真西1㎞位の場所に鎮座している。実は筆者は数年前まで春日部市にある某会社に通勤していて、白岡市も通勤途中に通っており若干の地理はあった。(だが幹線道路だけで、抜け道などは全く分からなかったが)熊谷市から白岡市までは、国道17号バイパスから出発し、鴻巣市で合流。免許センターの先を左折してから笠原久伊豆神社手前の交差点を右折し、その後農道を真っ直ぐ進み柴山沼を越えるとT字路にぶつかり、埼玉県道3号線さいたま栗橋線と合流する。その交差点を右折し、駅入口交差点を左折し途中のY字路の左側方向に白岡八幡宮がある。しかし一方通行なので実際にはぐるっと左回り方向に遠回りに回らなければいけないので注意は必要だ。
         
                白岡八幡宮正面一の鳥居
        
                         「源義家駒止めの杉」の神木
 白岡八幡宮正面一の鳥居を進むと進行方向左手に、八幡太郎義家が奥州平定(1062年)の折戦勝祈願に立寄り、馬をつないだ木と伝えられている「源義家駒止めの杉」の神木、老木が大切に保存されている(写真左)。なんでも大正3年(1914年)と5年の(1916年)2度にわたる落雷によって倒れ、やむなく伐採されたが、現在は屋根を付けて保存している。
 また神木の並びには白岡八幡宮の案内板(写真左)、社叢ふるさとの丘の看板(同右)が掲げてある。
 
          白岡八幡宮の案内板                   社叢ふるさとの森の看板 
  白岡八幡宮    所在地 南埼玉郡白岡町大字白岡
 白岡八幡宮は、嘉祥2年(849)に建てられたものと伝えられ、祭神は応神天皇(正八幡)、仲哀天皇(若宮八幡)、神功皇后(姫宮八幡)である。
 当社に伝えられている略縁起には、康平5年(1062)源八幡太郎義家が奥州征討の途中、戦勝祈願のため立寄ったと記されており、また、建久6年(1195)征夷大将軍源頼朝は、当社に佐々木四郎高網を代参させ、土着武士の鬼窪某に命じて社殿を造立させるとともに、百余貫の所領を寄進し、源家の守護神としてあがめたと伝えられている。戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力により江戸、明治期にかけて徐々に復し、昭和45年に現在の社殿に改築した。当社には、享徳5年(1456)銘の鰐口が現存し、古い歴史を物語っている。
 境内には、樹齢600年といわれる榧の木があり、また、参道脇に保存されている杉の枯木は、義家が馬をつないだ木と伝えられ、当社の御神木となっている。
 昭和58年3月 白岡町                                             案内板より引用
                                                                                                                   
                          白岡八幡宮二の鳥居
             
                                         鳥居を過ぎたすぐ左手にある手水舎
             
                         参道右手に見える神楽殿
 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮、東京都江東区の富岡八幡宮と並び日本三岡八幡宮の一つとされ、鎌倉幕府の初代征夷大将軍であった源頼朝も参拝している。この白岡八幡神社は、縁起によれば嘉承2年(849)慈覚大師円仁の草創とされ、源義家が1062年(康平5年)奥州征伐のときに戦勝祈願に参拝した記録が新選武蔵風土記稿に伝えられている。その後建久6年 (1195)、源義家に倣って源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという。 
 また2009年(平成21年)12月には、境内の白岡天満神社に東京都文京区の湯島天満宮から分霊がなされ、遷座式が行われた。 湯島天満宮の御分霊が遷座しているのは、全国で長野県長野市の湯島天満宮信濃分社と当社のみである。
               
                                                                     拝 殿
 社殿全体が白壁の白色を基調としていて、朱の欄干との配色が非常にオシャレで一種女性的でもあり、洗練された美しさを漂わせている。この拝殿は元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年に改修され、現在の社殿は昭和45(1970)年に改築されたものだそうだ。
『新編武藏風土記稿 白岡村』
 此佐那賀谷は今も實ヶ谷と書きて近村なり、然れば此邊すべて古は鬼窪鄕といひしならん、今隣村小久喜村に鬼窪氏の人あり、故に鬼窪のことは彼村につきて見るべし、又白岡の名も古きことにて、當國七黨の内野與黨の人に、南鬼窪小七郎行親の孫太郎兵衛尉親家の四男を、白岡禪師澄意と云、これ當所に住せしものならん、(中略)
 八幡社 村の鎭守なり、正八幡若宮・八幡宮・八幡の三座を勸請せり、社傳に云、當社は建久六年右大將賴朝の命によりて、鬼窪某奉行して造立し、この邊にて百餘貫の社領を寄附ありしが、永享年中當郡新堀の城主、佐々木某社領を沒收し、篠津・白岡村のにて、總に十二貫文の地を寄附せしが、是も戰爭のころ次第に衰へ、いつしか失せりと云、按に鬼窪氏は此邊に由緖ある人なれば、當社を草創せしはさもあらん、佐々木のことは新堀村の條合せみるべし、また今も社頭に享德年中鰐口あれば、かたゞ舊社なることは疑ふべからず、鰐口の圖上のごとし、圓徑九寸七分、
 神馬社 昔し神馬を繋置し厩ありしかば其跡へ社を建しと云、神樂殿 鐘樓 延寶三年鑄造の鐘なり、
 別當正福院 新義眞言宗、ヶ崎村吉祥院末、白岡村西光寺杉本坊と號す、本尊藥師は慈覺大師の作なり、寺傳に當寺は嘉祥二年慈覺大師の草創にて天台宗なりしが、建久年中八幡社造立のとき改宗せりと云、されど古は藥師堂と唱へしものと見えて、今も天文年中綱繁と云人よりあたへし寄附狀を藏せり、其文左のごとし、
   白岡藥師堂免壹貫二百文之所領奇符候、於自今以後者不可有相違候仍如件、
    天文十七年戊申六月朔日   綱繁花押
 太子堂 山王社 鐘樓 延享四年鑄造鐘なり、


 八幡神社  白岡町白岡八八九(白岡字茶屋)
 白岡の八幡様」として名高い当社は、『八幡宮縁起』や『八幡宮来由』によれば、慈覚大師が仁明天皇の御宇に霊場草創の勅を蒙って東国に下向し、当地にて加持を行った際、正八幡宮・若宮・姫宮の三神と本地仏である阿弥陀仏・薬師の二尊が出現したことに感得して神宮を建立したことに始まるという。時に嘉祥二年(849)、併せえて白岡山西光寺正福院という一寺を建立して当社の別当とした。降って康平五年(1062)、源義家は欧州征伐に際し当社へ参詣し、ひたすらに勝利を祈願したお陰で平定を終えることができたとして帰陣の際に当社へお礼参りをした。
以来、武州の白岡、仙台の亀岡、鎌倉の鶴岡の八幡宮は「三岡」と唱え、源氏の守護神として厚く信仰されるに至ったと伝え、建久六年には源頼朝も佐々木四郎高綱を代参として遣わし所領百貫文と神馬を奉納した。
                                                                                                                             「埼玉の神社」より引用

                             
                                                                   本 殿
  拝殿、幣殿、本殿が一体化した権現造りで、拝殿が白をベースにした女性的な建築方法に対して、
             幣殿、本殿は木目調で荘厳さと妖艶な美しさを醸し出している。
 
   白岡八幡神社の社殿の奥には立派で数多くの境内社が鎮座している。
 
     社殿右手に祀られている神馬神社              神馬神社の右側奥にある鐘楼           
            
                                                 白岡天満神社
            
                         左から日枝神社・三峯神社
            
                     左から猿田彦社(石祠二基)・稲荷神社
  社殿と神楽殿の間に大きな樹木があり、白岡八幡宮のご神木であり、白岡町指定天然記念物でもある樹齢約六〇〇年といわれる「カヤの木」がある。カヤの木は関東において数少ない銘木といわれているが、白岡八幡宮のカヤの木は目通り4.7m、樹高31mの堂々たる大樹で、まさにご神木にふさわしい威容が漂っている。
                                   
                                        白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のカヤ

 また鳥居の道を隔てた向かい側に「イヌザクラ」がある。別名「シロザクラ」。樹齢300年と言われ、幹回り3m、樹高は18mと近隣にはない巨木だ。このイヌザクラも白岡市指定天然記念物に指定されている。
                                   
                                      白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のイヌザクラ
  白岡町八幡神社社叢ふるさとの森   昭和56年4月4日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「ふるさとの森」に指定されました。八幡神社は、平安時代に創建された由緒ある神社で、古くから町の人々に親しまれてきました。
 境内には、町天然記念物のカヤノキ・ウワミズザクラも生育しています。林相としては、主に、ケヤキ・スギ・モウソウチクなどから構成されています。
 昭和58年3月 埼玉県                                         案内板説明文より引用
 白岡八幡宮は由緒ある古社であるので、境内にはその他数多くの文化財や見どころがある。白岡市指定文化財では「白幡八幡宮棟札」と「鬼窪八幡宮鰐口」の2点。「白岡八幡宮棟札」の棟札は3札あるそうで、元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年が現存しているそうだ。
 また「鬼窪八幡宮鰐口」は拝殿の前面軒下に吊るし、参拝者の前に下がっている綱を打ち鳴らして参拝に来意を告げるための道具で、この鰐口は江戸時代に土中より堀り起こされたものと言われている。鰐口の銘文から享徳五年、康正二年に後南朝最期の主である聖秀尊(別名自天王)によって奉納されたものであることがわかっている。この白岡の地に後南朝、特に非業の最期を遂げた悲運の主である自天王との関係を窺わせる文化財が存在するとは考えもしなかった。後南朝と何らかの関係があってこの地に奉納されたのだろう。
 南北朝時代、上州の新田義貞、その息子義興、義宗を始め、多くの南朝方の武将らが関東地方で足利氏の北朝方の武将と合戦を繰り広げた。武蔵国東部でも南朝方の武将で有名なのが春日部重行で、新田義貞が挙兵に参陣し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。鎌倉攻略で戦果を上げ、春日部郷の地頭職を安堵されたように、新田氏傘下の有力武将であり、この春日部と白岡は近郊であることから、南朝側の土壌が少なからず存在している地方ではなかったろうだろうか。

 またこの白岡八幡宮は「鬼窪八幡宮鰐口」の銘に1456(享徳5)年「鬼窪八幡宮」と書かれていて、武蔵七党の一派である野与党から鬼窪氏が住み着いて、この地を「「鬼窪」と名付けたが、その後天文十七年(1548年)武州文書に白岡薬師堂と書かれている所から、ある時期かそれ以前に「白岡」に改名されたことは確かだ。このことは「埼玉苗字辞典」にも以下の記述があるので引用する。
 
 白岡
 埼玉郡白岡村あり、八幡社享徳五年鰐口銘に鬼窪八幡宮と見え、天文十七年武州文書に白岡薬師堂(八幡社別当正福院)と見ゆ。足立郡白岡村(大宮市)あり、御蔵村となる。
一 野与党白岡氏 埼玉郡鬼窪郷白岡村より起る。武蔵七党系図に「南鬼窪小四郎行親(源平之戦、奉頼朝)―親頼―親家―白岡禅師澄意」あり。下高野村永福寺伝(旧阿弥陀寺)に「寿永二年、阿弥陀寺帰依檀那、野与一党、多名・鬼窪、白岡・渋江等面々、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等と謀議し、一用上人を阿弥陀寺に請ひ止める」と見ゆ。鬼窪氏は、澄意以前に白岡氏を称す。
二 埼玉郡白岡村 白川家門人帳に「明治二年白岡村八幡宮神主白岡祝」。明治三十二年八幡社神主白岡瑞枝あり。八幡社附近に七戸現存す。                           「埼玉苗字辞典」より引用
                                                                                                                                                     
                                                                                               

 

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西粂原鷲宮神社

 埼玉県東部には「鷲宮」、「鷺宮」、「鷲(おおとり)」等、鳥を社頭に冠する社が多数存在する。東京都浅草に鎮座する「鷲(おおとり)神社」の酉の市は全国的にも有名だが、この鷲神社もその系統に属するらしい。総本社は久喜市鷲宮鎮座の鷲宮神社で、御祭神は天穂日命。この神社は関東平野各所に分布しているが、最も密度の濃いのは、久喜市とその北側の北川辺地区中心とした地域である。不思議なことだが埼玉県東部に集中して鎮座する久伊豆神社は元荒川左岸に沿って分布しているが、この鷲宮神社、鷲神社は元荒川と古利根川の間に濃密に存在する。
 宮代町西粂原地区に鎮座する鷲宮神社もその一つで、東粂原地区にも同神社が存在する。なんでも宮代町の鷲宮神社がある地域、和戸、久米原(現・粂原)の一部地域は1590年、小田原後北条氏より鷲宮神社(現・鷲宮町)社領地と認められた地域と古文書に印されているらしく、その関係でこの地に鷲宮神社が鎮座するのかと思われる。
        
           ・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町西粂原660
           ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
           ・社 挌 旧西粂原村鎮守 旧村社
           ・例祭等 灯籠祭り 721日に近い日曜日 甘酒祭り 109 
 西粂原鷲宮神社は埼玉県道65号さいたま幸手線、旧日光御成り街道沿いに面して鎮座している。身代神社からは、埼玉県道85号春日部久喜線を久喜市方向に道なりに真っ直ぐ進み、和戸交差点を左折する。この道が前述の埼玉県道65号さいたま幸手線で、1,5㎞位進むと右側に社が見えてくる。あたり一面田園風景が広がるのどかな中にポツンと鎮座している中、県道だけはやたらと交通量が多く、静かな社周辺に似つかわしくない現代の車事情が見えてくる。
            
                                                         西粂原鷲宮神社正面
                            
      鳥居の左側にある立派で大きな社号標石 基礎部分付近には2ケ力石らしき石が見られる。
         因みに社号標石の奥に聳え立つ立派なイチョウの巨木は社の御神木である。
            
                       入り口付近に設置されている案内板
  西粂原鷲宮神社・御成街道
 所在地  宮代町大字西粂原字立野
 西粂原鷲宮神社は、北から南に江戸時代中期につくられた黒沼笠原用水が流れる台地上にあり、社前には御成街道(日光御成道)が通っている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、この神社は村の鎮守で明智寺持とある。明治時代には村社となり、毎年三月十日、九月九日に祭礼を行っている。また、明治四十年には、愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社の六社が合わせ祀られている。
 社前を通る御成街道(日光御成道)は、おおむね中世の鎌倉街道の道筋を、江戸時代に将軍が日光へ社参(参詣)するために専用の道として整備されたものである。中山道本郷追分を基点として、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、そして町内の久米原、国納、和戸を経て幸手で日光街道に合流する道筋である。
 将軍の日光社参は、記録によれば慣例となったのが寛永期(一六二四~一六四四)以降で、十九回を数える。『日光御成道絵巻』(県立博物館蔵)には、道中の村々の様子や「鷲明神」と記された社殿が克明に描かれている。これにより当時の久米原村、国納村、和戸村の様子をうかがい知る事が出来る。また天保十四年(一八四三)四月、十二代将軍家慶の社会の記録(旗本稲生家文書)によれば、西条原鷲宮神社にて将軍が小休止したとある
                                                             案内板より引用                                                                                                
 西粂原鷲宮神社前を通る埼玉県道65号さいたま幸手線は、江戸時代には日光御成街道と呼ばれた日光街道の脇街道で、元々中世の鎌倉街道中道を徳川将軍家が日光東照宮に詣でるときは、町民が通る日本橋を避け、江戸城大手門を出て、途中で中山道に合流し、本郷追分から分岐し幸手宿で 日光街道と合流するルートを通ったと言われている。
 また、岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道(いわつきかいどう)」とも呼ばれる。家康の忌日である四月十七日に執り行われる祭礼には、将軍自らが参詣するか、大名や高家を名代として参詣させるのが慣例になっていた。
 
  左から不明、富士浅間大神、大山石尊大権現       青面金剛等の石碑が並んで祀られている。
           
                               拝  殿
 鷲宮神社  宮代町西粂原六六〇(西粂原字立野)
『風土記稿』粂原村の項によれば、「鷲明神社二宇 いずれも村の鎮守なり、一は明智寺持、一は大聖院持なり」と、二つの「鷲明神社」が記載されている。これは、西粂原と東粂原で、別々に鷲明神社を鎮守として祀っていたためで、そのうち明智寺持ちの「鷲明神社」が当社のことである。
 一方『明細帳』を見ると、当社の由緒について「古老の申伝に当国鷲宮の神を遷座すと云ふ」との記述がある。これについては、天正十八年(一五九〇)の「北条家印判状」に「三貫文岩付領久目原之内」が鷲宮神社(現鷲宮町)の社領として寄進されたとあることから考えると、この地には古くから鷲宮神社の社領があり、当社はその社領に祀られた神社であった可能性が高い。また、戦国期の成立とされる「市場之祭文写」には「武州太田庄久米原市」と見え、当時既に当社がこの地に祀られていたものであろう。
 当社の祭神は天穂日命と武夷鳥命であるが、境内には「鷲宮本地釈迦牟尼佛」と刻んだ安永二年(一七七三)五月に矢部角右衛門ほか講中三〇人が奉納した石祠がある。このことから考えると、神仏分離が行われるまでは、釈迦如来を本地仏として祀っていたと思われる。
                                                     「埼玉の神社」より引用

           
                               本  殿
 身代神社の「須賀」という地名同様、西粂原鷲宮神社が鎮座する「粂原」という地名にも何か歴史的な韻語を含んだ名前のように感じる。ウィキペディアによれば「粂」は「久米」であり、日本神話における軍事氏族の一つで、『新選姓氏録』によれば高御魂命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族だ。
 また『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて邇邇芸命を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。
 
このように日本書紀における久米氏は大伴氏と共に邇邇芸命と共に天下り、後に神武東征で久米氏は神武天皇に付き添って、軍事を司どる役目を持つ。大和国久米(現奈良県橿原市久米町)は久米部の氏寺とされる久米寺があり、久米氏の本拠地であるという。
 地方においては大和国久米氏と同族なのか武蔵国に武家の久米氏があり、武蔵国入東郡久米郷(現所沢市久米)発祥。武蔵七党村山党の一族という。その他の地では常陸国の久米氏は久慈郡久米(現茨城県常陸太田市久米)発祥で桓武平氏大掾氏族。阿波国の久米氏は伊予国発祥というように久米氏は日本全国に分布しているが、特に阿波国(現徳島県)に集中しているという。
  
 本殿奥に並んで祀られている石祠群(写真左)。左から(?)・愛宕山大権現・(庚申塔?)・(庚申塔?)鷲宮本地釈迦牟尼仏大天狗・三宝荒神・(?)・境内社合祀基礎完成記念碑。また社殿右側にある石宮御神躰の石祠(写真右)。

 宮代町の粂原はどのような経緯で「久米」を名乗ったのか経緯は不明だが、歴史ある名族「久米」を数多く存在する姓の中からわざわざ名乗る歴史的な素地なくしてはこの問題は語れないように思えるのだがいかがだろうか。
 最後に「粂原」について以下の記述がある書物があり、それを一つの参考資料として紹介したい。

久米 クメ 
出雲風土記に意宇郡久米社を久末(くま)と註す。姓氏録・河内諸蕃に「佐良々連、百済国の人・久末都彦(一本に久米都彦)より出づる也」と。久米族は熊族(久末)と同じなり。古事記に「天降りの後、天孫は二人の部下(大伴連、久米直の祖先)を連れて、『此地は韓国に向ひ、甚吉き地』」と見ゆ。久米族は神代の時代に韓国の熊ノ国より渡来す。熊条参照。また、久米は久味(くみ)とも称す。伊予国久米郡は古代の久味国にて、国造本紀に「久味国造。応神朝、神魂尊十三世の孫伊予主命を国造と定め給ふ」とあり。神魂尊は朝鮮の神なり。入間郡久米村(所沢市)あり、三ヶ島村は久米庄を唱える。嘉元三年長井文書に武蔵国久米郷と見ゆ。久米村永源寺応永二十九年鐘銘に入東郡久米郷大龍山永源禅寺とあり。茨城県那珂郡那珂町九戸、東茨城郡小川町十三戸、美野里町九戸、行方郡北浦町九戸、石岡市二十戸、秋田県仙北郡仙南村六十戸、横手市六十五戸、鳥取県東伯郡東伯町八戸あり。

村山党久米氏 
入間郡久米村より起る。寛永十六年三上文書に武州多摩郡山口領所沢村と見え、所沢村及び久米村付近は多摩郡とも称す。武蔵七党系図(冑山本)に「久米氏、多摩郡。山口六郎家俊―七郎家高―久米左近将監家時―三太郎泰家―孫太郎家盛(弟に家俊、成家、家清)」と見ゆ。承久記卷四に「久目のさこん」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・久米七郎跡六貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」と見ゆ。山口村誌に「山口壚、山口郷の住人粂但馬守等山口党と云い伝う。粂郷に粂但馬守邸の旧地あり」と見ゆ。

粂原 クメハラ 
原は春に同じで、ハラ、ハルは古代朝鮮語の都・城の意味なり。非農民の職業集団久米族の居住地を粂原と称す。此氏は武蔵国のみに存す。
                                 『埼玉苗字辞典』より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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身代神社

宮代町のホームページ等で町名の由来を見てみると、百間村の総鎮守姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をそれぞれとって出来た名前だという。
 この身代神社の「身代」は「このしろ」と読み、旧須賀村の鎮守で、創建は仁治3 年(1242)3 月に勧請されたと伝わり、主祭神は素盞鳴命だ。

所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町須賀1634
御祭神   素盞鳴命
社  挌   旧村社 旧須賀村総鎮守
例  祭   不明

       
地図リンク
 身代神社は姫宮神社から北西方向に約4㎞程の須賀地区に鎮座している。姫宮神社から一般道で山崎交差点に達したのち、埼玉県道85号春日部久喜線を久喜市、つまり北西方向に道なりに真っ直ぐ進み、日本工業大学入口交差点の先で、右側にこの社はある。南北に長いが幅が狭い小さな社だが由緒のある古社であることは間違いない。大東亜戦争において当時は出征兵士の身代わりになり命を救ってくれるとの信仰がうまれ多くの祈願があったという。
 ただ適当な駐車スペースが存在していないので、県道の向かいにコンビニエンスがあるのでそこに停めて参拝を行った。

         
                    道路沿いにある一の鳥居。南向きの社
          
                  一の鳥居を越えるとすぐ先にある二の鳥居
 身代神社の名前の由来については「伝承として、ある武将が奥州に落ち延びる際に武将の姫が追っ手に捕えられそうになり、そのとき、村人がコノシロという魚を焼いた。この魚は焼いた時の匂いが人を焼いた時と同じであるといわれ、追っ手に対して「姫は死んでしまった」ことにし、救うためであった。無事に追っ手から逃げることのできた姫はたいそう感謝をし、コノシロにちなんで身代神社を祀ったという話が伝わっています。また、神社の脇にある身代池には、オイテケ伝承や龍神伝承が伝わっています。」という伝承があるそうだ。
                                    郷土資料館編「みやしろ 歩け 歩け」より引用
 
 拝殿前には石塔が2対ある(写真左)が、よく見ると倒壊(同右)している。東日本大震災の影響かどうか理由は解らないが、文化財でもあるので自治体のほうで何とかできないものだろうか。
 
  参道の左側には石碑類と共に案内板がある。                  案内板

身代神社     所在地 宮代町大字須賀座下堤

 旧須賀村の鎮守で、明治時代の神社明細帳によると祭神は武速素佐能男命を主神として他16柱を祀り、また「素佐能男命が大蛇を退治した際、心がすがすがしくなった」という故事によりこの地を須賀村といい、蛇の縁により別当職を龍光院という(中略)再興は天和2年(1688年)3月28日なり」と記されている。当社の創建は、鎌倉時代初期仁治3年(1242年)3月の勧請と伝えられている。祭礼は、7月14日。身代神社の「代」をとって現町名の一部とした。
            
                      石碑類の奥にある多数の庚申塚
 境内には高さ60センチほどどの小さな庚申塔が並べ建てられている。これらは江戸時代後期に須賀村の島地区の人々が奉納したもので、こうした庚申塔は近隣にもあまり例を見ない。
この神社は古利根川の自然堤防の上に位置し、周辺から縄文時代や古墳時代の遺物が発見されている。また、神社西の身代池は、かつて利根川の流路ともいわれ、この池で釣った魚を持ち帰ろうとすると「オイテケ、オイテケ」という声がするというオイテケ堀の伝説も残されている。
                                                        案内板より引用                                                                                                         


           昭和時代に改築されたコンクリート製の拝殿(写真左)と本殿(同右) 

 身代神社は大落古利根川のすぐ南側の周囲の低地よりわずかに高い「自然堤防」と呼ばれる地形上に鎮座している。この社の西隣に身代池がある。この池は古利根川の過去の氾濫によってできたものらしい。そして、この池にも不思議な言伝え、龍神伝説がある。                           

 
身代池の周囲を三周すると、池から龍神が立つといって、巡り歩くことを忌む。昔、ある人が三周しようと試みたが、二周半からのあと半分がどうしても回れなかった

 また同沼には「おいてけ堀」伝説も存在する。この伝説は古利根川下流域の越谷市東方や川越市吉田にも同様の伝説がありその地域の関連性も考えられる。

 昔、宮代町にある身代神社そばの身代池は、魚釣りをするとよく釣れる場所だった。しかし、帰ろうとすると池の中から「オイテケ、オイテケ」と言う声がして、皆恐ろしくて置いて逃げ帰ったと言う。

 
 この沼は夏になると一面の蓮で埋め尽くされてしまうが、春先なので全容がわかる。ただ沼の周囲を歩くことはしなかったのは残念。

 
 話は変わるが身代神社が鎮座する宮代町須賀地域の「須賀」にも何か歴史的な因縁を感じる。
  

須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。
                                                                  「埼玉苗字辞典」より引用



 ここでは利根川流域に「須賀」とつく地名が多数存在しているらしいが、そのことは別項にて論じたい。


 


 
                                                                                       


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五社神社

  宮代町東地区に鎮座する五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社)を等間隔に祀ったことからその名が起こったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他7柱である。
 百間東村の鎮守社で創立は養老年間(717 ~ 724) に行基が当地に来たときであるとされる。本殿は、県指定文化財。本殿内部に納められた神鏡は、江戸時代の信仰形態を示す貴重な資料となっていて 町指定文化財に指定されている。

所在地    埼玉県南埼玉郡宮代町東90
御祭神    天之忍穂耳命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、久須毘命                                                                    社  挌    旧村社  百間東村鎮守社
創  建    養老年間(717-724)  
例  祭    みかん投げ 例年2月14日

       
地図リンク
 五社神社は東武伊勢崎線『姫宮駅』の南西約600m程の位置に鎮座している。西光院というお寺と道を挟んで隣接している。駐車場は無いので西光院の駐車場を一時借りて参拝を行った。
 この社の具体的な創建時期は不明とされているが、当地の古伝によると養老年中(717年~724年)に、奈良時代の僧である行基が当地を訪れたと伝えられており、当時、行基の前に、五人の老翁が現れ「当地は、霊験あらたかな地である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の主、白山の厳翁である。」と告げて姿を消したという。そして、行基はこの神託にならい、当地に西光院を建立し、その鎮守として当社を創建したとされている。
           
                            五社神社正面
            実は交通量が非常に多く、撮影するのに意外と時間がかかった。
 
   
 鳥居の扁額には「五社宮」と書かれている。         境内内にある多数の境内社や石碑
               
                         石碑の手前にある案内板

五社神社    所在地 宮代町東九〇
 
五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
 
創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(一五九二~一六一四)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向背を付け、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間に茅葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
 
また、それぞれの社には、元禄十四年(一七〇一)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重の作である。(中略)
 
なお、本殿は、昭和三十七年三月県の指定文化財となっている。  昭和六十二年三月
                                                       案内板より引用
                                                                                                     
          
                    拝    殿
  
       
                             本    殿                                                
 見事な流造りの五間社である。本殿は桃山期の文禄慶長年間(1592-1614)の建築と推定され、五間社流造。平野部での同建築は珍しく、埼玉県指定文化財とされている。五社神社の名前は、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山神社、山王神社の五社を等間隔に祀ったことに由来するそうだ。

 当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄8年(1659)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称した事もあった。
 創建については、元禄12年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次の様な事が記されている。
 「養老年間(717-724)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の崇敬心が衰え、社殿も激しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄8年に拝殿を増築し、次いで他の社殿の改築を発願して、広く寄進を求めたものである。
 口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事に行われたという。
 なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい形式であり、昭和37年に県指定文化財となった。
                                                   『埼玉の神社』より引用

 五社神社の御祭神は天照大神御子五柱命と言われ、アマテラスがスサノオと誓約した時にアマテラスから生まれた5柱の御子神であり、以下の5柱が祀られている。

天忍穂耳命
 
 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神。
天穂日命  
 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあた
る神、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神。
天津彦根命 
 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を誓った氏族。
活津彦根命 
 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神。
熊野樟日命 
 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神。
                                                                                  


        
 石段を登ってすぐ参道の右側に、小さな塚があり、周りには石祠が祀られているが、これも、古墳なのかは不明だ。

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