西粂原鷲宮神社及び山崎浅間神社
宮代町西粂原地区に鎮座する鷲宮神社もその一つで、東粂原地区にも同神社が存在する。なんでも宮代町の鷲宮神社がある地域、和戸、久米原(現・粂原)の一部地域は1590年、小田原後北条氏より鷲宮神社(現・鷲宮町)社領地と認められた地域と古文書に印されているらしく、その関係でこの地に鷲宮神社が鎮座するのかと思われる。
所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町西粂原660
御祭神 天穂日命 武夷鳥命
社 挌 旧村社
例 祭 7月21日に近い日曜日 灯篭祭り 10月9日 甘酒祭り
西粂原鷲宮神社は埼玉県道65号さいたま幸手線、旧の日光御成り街道沿いに面して鎮座している。身代神社からは、埼玉県道85号春日部久喜線を久喜市方向に道なりに真っ直ぐ進み、和戸交差点を左折する。この道が前述の埼玉県道65号さいたま幸手線で、1,5㎞位進むと右側に社が見えてくる。あたり一面田園風景が広がるのどかな中にポツンと鎮座している中、県道だけはやたらと交通量が多く、静かな社周辺に似つかわしくない現代の車事情が見えてくる。
鳥居の左側にある立派で大きな社号標石
参道正面 参道左側にある案内板
西粂原鷲宮神社・御成街道
所在地 宮代町大字西粂原字立野
西粂原鷲宮神社は、北から南に江戸時代中期につくられた黒沼笠原用水が流れる台地上にあり、社前には御成街道(日光御成道)が通っている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、この神社は村の鎮守で明智寺持とある。明治時代には村社となり、毎年三月十日、九月九日に祭礼を行っている。また、明治四十年には、愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社の六社が合わせ祀られている。
(中略)
また、天保一四年(1843)四月、十二代将軍家慶の社参の記録(旗本 稲生家文書)によれば、西粂原鷲宮神社にて将軍が小休止したとある。
案内板より引用
西粂原鷲宮神社前を通る埼玉県道65号さいたま幸手線は江戸時代には日光御成街道と呼ばれた日光街道の脇街道で、元々中世の鎌倉街道中道を徳川将軍家が日光東照宮に詣でるときは、町民が通る日本橋を避け、江戸城大手門を出て、途中で中山道に合流し、本郷追分から分岐し幸手宿で 日光街道と合流するルートを通ったと言われている。
また、岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道(いわつきかいどう)」とも呼ばれる。家康の忌日である四月十七日に執り行われる祭礼には、将軍自らが参詣するか、大名や高家を名代として参詣させるのが慣例になっていた。
左から不明、富士浅間大神、大山石尊大権現 青面金剛等の石碑が並ぶ。
拝 殿
本 殿
身代神社の「須賀」という地名同様、西粂原鷲宮神社が鎮座する「粂原」という地名にも何か歴史的な韻語を含んだ名前のように感じる。ウィキペディアによれば「粂」は「久米」であり、日本神話における軍事氏族の一つで、『新選姓氏録』によれば高御魂命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族だ。
また『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて邇邇芸命を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。
このように日本書紀における久米氏は大伴氏と共に邇邇芸命と共に天下り、後に神武東征で久米氏は神武天皇に付き添って、軍事を司どる役目を持つ。大和国久米(現奈良県橿原市久米町)は久米部の氏寺とされる久米寺があり、久米氏の本拠地であるという。
地方においては大和国久米氏と同族なのか武蔵国に武家の久米氏があり、武蔵国入東郡久米郷(現所沢市久米)発祥。武蔵七党村山党の一族という。その他の地では常陸国の久米氏は久慈郡久米(現茨城県常陸太田市久米)発祥で桓武平氏大掾氏族。阿波国の久米氏は伊予国発祥というように久米氏は日本全国に分布しているが、特に阿波国(現徳島県)に集中しているという。
宮代町の粂原はどのような経緯で「久米」を名乗ったのか経緯は不明だが、歴史ある名族「久米」を数多く存在する姓の中からわざわざ名乗る歴史的な素地なくしてはこの問題は語れないように思えるのだがいかがだろうか。
最後に「粂原」について以下の記述がある書物があり、それを一つの参考資料として紹介したい。
久米 クメ 出雲風土記に意宇郡久米社を久末(くま)と註す。姓氏録・河内諸蕃に「佐良々連、百済国の人・久末都彦(一本に久米都彦)より出づる也」と。久米族は熊族(久末)と同じなり。古事記に「天降りの後、天孫は二人の部下(大伴連、久米直の祖先)を連れて、『此地は韓国に向ひ、甚吉き地』」と見ゆ。久米族は神代の時代に韓国の熊ノ国より渡来す。熊条参照。また、久米は久味(くみ)とも称す。伊予国久米郡は古代の久味国にて、国造本紀に「久味国造。応神朝、神魂尊十三世の孫伊予主命を国造と定め給ふ」とあり。神魂尊は朝鮮の神なり。入間郡久米村(所沢市)あり、三ヶ島村は久米庄を唱える。嘉元三年長井文書に武蔵国久米郷と見ゆ。久米村永源寺応永二十九年鐘銘に入東郡久米郷大龍山永源禅寺とあり。茨城県那珂郡那珂町九戸、東茨城郡小川町十三戸、美野里町九戸、行方郡北浦町九戸、石岡市二十戸、秋田県仙北郡仙南村六十戸、横手市六十五戸、鳥取県東伯郡東伯町八戸あり。
村山党久米氏 入間郡久米村より起る。寛永十六年三上文書に武州多摩郡山口領所沢村と見え、所沢村及び久米村付近は多摩郡とも称す。武蔵七党系図(冑山本)に「久米氏、多摩郡。山口六郎家俊―七郎家高―久米左近将監家時―三太郎泰家―孫太郎家盛(弟に家俊、成家、家清)」と見ゆ。承久記卷四に「久目のさこん」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・久米七郎跡六貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」と見ゆ。山口村誌に「山口壚、山口郷の住人粂但馬守等山口党と云い伝う。粂郷に粂但馬守邸の旧地あり」と見ゆ。
粂原 クメハラ 原は春に同じで、ハラ、ハルは古代朝鮮語の都・城の意味なり。非農民の職業集団久米族の居住地を粂原と称す。此氏は武蔵国のみに存す。
埼玉苗字辞典より引用
山崎浅間神社(赤間浅間神社)
所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎744
御祭神 木花之佐久夜毘売
社 挌 不明
例 祭 7月1日 初山行事
本来は姫宮神社に行く予定だったが、途中で迷子になってしまい、ナビをしようと思い適当な駐車場がないか迷っていた時にたまたま見つけた社。ナビを作動させ、さあこれから行こうと思ったが、これも何かの縁と思い参拝を行った。
神社というよりこんもりとした古墳か塚のようなこじんまりとした社だ。後日調べたところでは以前、赤松の大木が多数あった事から赤松浅間社と呼ばれ、江戸時代後半に造られたものという。
山崎浅間神社
浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落(かさはらおとし)を眼下に見る築山の頂上に祭られていまる。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
祭神は木花之開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(1843)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
また、当社の西方には山崎の村社である重殿社があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡である山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいことが知られている。
昭和六十二年三月 宮 代 町
案内板より引用
この塚には階段があり、その先頂上には社はなく「浅間大菩薩」の石碑がその代わりとなっている。
宮代町地域では、毎年富士山の山開きが行われる7月1日に合わせて、宮代町山崎の「赤松浅間神社」、辰新田の「浅間神社」、杉戸町の「河原の浅間様」で初山が行われ、子供たちの健やかな成長祈願を行なうために、この3つの山を巡るのが慣わしとなっている。(宮代町和戸の浅間神社の初山行事は一日早い6月30日に行なわれることから「うら浅間」と呼ばれている)
子供の額に印を押してもらって御札とうちわをいただく地域の伝統的な行事だが、このほのぼのとした行事は大切に受け継いでもらいたいと真に願う次第だ。