古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

吉見神社

 熊谷市相上(あいあげ)地区は荒川の南に位置し、国道407号線上に隣接している冑山神社に近く、行政区域としては熊谷市だが吉見町との文化的、経済的にも繋がりが濃い。この相上地区には吉見神社が鎮座している。この吉見神社は延喜式内社 横見神社の論社、比定社に紹介している書物も多い。
 この相上地区は地形上、東西に和田吉野川が流れ、北側の無谷、高本地区との境界線を形成している。この和田吉野川(一級河川)は嵐山町の溜め池を水源とする、用排兼用の河川で、比企丘陵の谷地を江南町、滑川町、熊谷市と西から東へと流れてくる。吉見神社の北側に和田吉野川右岸の洪水を防ぐために江戸時代初期に造られた相上堤の堤防は長さ千百三十間(約2034m)”とあり、荒川の合流地点までの和田吉野川の右岸側を防御するための堤防であったようだ。

 なお、相上堤の南側延長線上には縄文時代の北廓遺跡(熊谷市 箕輪)や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。ちなみに相上堤の東に位置する県道257号線は鎌倉街道の古道である比企道だとされている。古の吉見の地は、現在の比企郡吉見町ではなく、この吉見の地だった可能性も捨てきれないような気がしてならない。

所在地     熊谷市相上1639-1

主祭神     天照大神?
社  挌     旧郷社
例  祭     4月17日


地図リンク
 吉見神社はとうかん山古墳から埼玉県道257号冑山熊谷線を道なりに北上し、和田吉野川の上に架けられた漆喰橋を渡る手前左側に社号標石と鳥居が見え、そこを左折すると和田吉野川の土手手前右側に吉見神社の社叢が広がる。
 
              県道沿いにある一の鳥居
 
一の鳥居を真っ直ぐ進み突き当り右側にある二の鳥居        参道の先に社殿がある

               神楽殿

 『新編武蔵風土記稿』相上村の項に、《神明社 當社古へは上吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみ鎮守とせり》とあるように、古くは神明社と称し、上吉見領――村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田――二十三カ村の総鎮守だったというくらいで、境内摂社・末社が非常に多い。
 
                       参道左側の末社群                                    末社群の先にまたある末社
左から天神宮、金毘羅大神社、頭大宮、辯才天女宮等  三島・興玉・秩父・瀧祭・玉造・斎・浅間・日枝
                                                                               雨降加々美・二荒・水分養蚕・豊受荒魂など

     
摂社 から伊奈利神社・東宮社・天神社            拝殿の右奥の方にも末社がずらりと並んでいる            
                                             詳細は不明         
 
参道左側、末社群の手前に村指定無形民俗文化財 相上神楽 案内板がある。

村指定無形民俗文化財 相上神楽
 指定  昭和五十四年五月十四日
 所在地 大里村大字相上
 期日  七月十五日、吉見神社境内
 相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保六年(1835年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言われている。
 相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
 そして、平成七年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
                                                      掲示板より引用



           吉見神社拝殿(上段)及び本殿(下段)

 吉見神社は古くは神明社や天照太神宮と称し、上吉見領の総鎮守だったようだ。敷地内には安政四年(1857)建立の金毘羅大神社、弁才天女宮などが祀られている。水防祈願と思われる水に関する神様である。なお、社殿の北側には沼があるが、そこには藤原長盛の大蛇退治の伝説がある。
 新編武蔵風土記稿には”沼あり、神龍潜み住むと云伝う”と記されている。大蛇とは和田吉野川の洪水を暗喩したものだろうか。

 『埼玉の神社』によれば、熊谷市相上字宮前に鎮座する吉見神社の創建を伝える文書にはこのような記述がある。

 和銅六年(713)景行天皇五十六年に御諸別王(みもろわけのきみ)が当地を巡視した折、田野が開かれず、不毛の地であるのを嘆いて倭国の山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里(おおさと)郡を置き、後に豊かな地となった報賽として太古に武夷鳥(たけひなとり)命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬(おさ)を神体として天照を祀り以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している。現宮司須長二男家はこの末。

 
また『大里郡神社誌』にもこのように記されていている。

 
大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と

 
とあり、須長氏が御諸別王の子孫としている。

 この「須永」、「須長」氏について「埼玉苗字辞典」ではこのように記述されているので紹介する。

須永 スナガ
 須中、須長、砂永、砂賀に同じ。須は金(す)、那は国、加・賀は曷(か)で村の意味。中・永は奈良・那羅と同じで、鉄(くろがね)の産出する国、村を須永と称す。此氏は毛野氏に率いられて渡来し、渡良瀬川及び利根川流域の上野国、下野国、武蔵国に土着し、三ヶ国以外には無し。毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)は、韓半島南部にあった加耶諸国の呉国より毛野族須永氏を率いて上野国山田郡川内村(大間々町川内、桐生市川内)に土着し、其の地を別称須永郷と唱え、後世は須永御厨と云う。桐生市川内に氏寺の崇神寺あり。足尾銅山に従事した鉱山師集団である。武蔵国では荒川、都幾川の砂鉄の採れる流域にも存す。

須長 スナガ 大里郡相上村(大里町) 大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と。寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。(中略)風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろう。明治九年副戸長須長宣冬・天保十二年生。松山町箭弓神社明治三十一年碑に松山町須長宣冬。昭和三年興信録・所得税に「吉見村・須長常章・百一円、須長富夫・十円」あり。五戸現存す。

 
相上の須長氏について日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろうとの記述が上記で記しているが、この中にある「高魂命」とは高皇産霊神(タカムスビ)のことで、熊谷市の高城神社の祭神でもある。また本来日奉連とは宮廷の太陽神祭祀に奉仕するための部であろうということは、諸説が認めているところであるが、その日奉連の祖先が高皇産霊神であるという事には正直驚いた。もしかしたら太陽神祭祀とは天照大神がその対象ではなく、日奉連の直系の先祖である高皇産霊神ではなかったか、という事になるのではなかろうか。それと同時に高皇産霊神と御諸別王にも何かしらの接点があるのだろうか。

 なんとなく取り留めのない書き出しになってしまったが、御諸別王と吉見神社の須長氏、また高城神社の高皇産霊神には何かしらの関連性はあることだけは確かなようだ。


                                                                                                                      

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中蒔田椋神社

所在地    埼玉県秩父市蒔田2167  
主祭神    猿田彦命 大己貴命 天下春命
         (合祀)菅原道眞 大山津見命 素盞嗚命 大山津見命 武御名方命 大地主命
社   格    式内社 旧村社 
社   紋    抱き稲
例   祭    3月3日

 
                   
地図リンク
  中蒔田に鎮座する椋神社は、秩父鉄道大野原駅から、直線で北西2kmほどの場所にある。秩父橋を越えて、299号線を西へ道なりにまっすぐ進むと大きくカーブしている場所があり、蒔田交差点の手前のT字路を右折すると正面に蒔田椋神社のこんもりとした森の空間がそこにある。
  東南向きに小じんまりとした境内があり、中央に社殿がある。また社殿の左右に、二つずつの小祠の境内社がある。
  永禄年間に甲斐国領主武田信玄の進行に遭い兵火に罹り、社殿・古記録を焼失し、社領も没収されたという。その後宝暦十三年に社殿を再建し、明治六年に、熊谷県より、延喜式内と称することを許可された。
                      
                      
椋神社
 当神社は往古より延喜式内の社と古老の口碑あり。然るに永緑年間の兵火に依り旧殿旧記書類悉皆焼失し、社領没収せらる。社領旧社地は神畑田耕地の字名として現存す。石器時代の遺物石杵は當社の宝物にして今尚存し神宝石と称し來れり。里人愁ひて後年仮宮を造営し古例の如く執行。宝暦13年未本社再建。明治6年7月2日熊谷縣に於て延喜式内の社と可称旨達あり。同7年4月8日同縣に於て祠掌を置かる。明治9年6月10日熊谷縣に於て村社に列せらる。同年10月5日拝殿再建す。
                                                  昭和27年神社明細帳
            
                                本   殿
  
中蒔田椋神社は、秩父地方でも古風の形態の神楽である秩父神社系神楽を今日も百数十年間も継承し、秩父市指定無形文化財に認定されているそうだ
   

市指定無形文化財
中蒔田椋神社の神楽
 秩父地方に数多い神楽も、その由来や舞の型態等によって、いくつかの系統に分かれます。なかでも古風な舞をもち、盆地内に広く分布し、その主流をなしているものは秩父神社系神楽です。
 この秩父神社の神楽も幕末から明治の一時期にかけて、後継者不足から休止のやむなきに至ったといわれ、その断絶を憂えた秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、蒔田椋神社祠掌設楽一貫と計り、椋神社氏子に伝授したと伝えられています。
 明治7年3月の「太々神楽装束勧進録」には、「天朝庚平区内安全五穀成就氏子一統開化進歩へ時勢二不渡戸々家々為繁栄祈念年々祭日永代太々神楽を奏する事」。とみえることから明治7年には既に伝授されていたものと考えられます。その後座や舞の変革はほとんど行われていないので、当時の秩父神社神楽の形態を伝えるものといえます。
 昭和47年4月6日 指定
 秩父市教育委員会
                                                                                                                 境内案内板より引用

 
     
社殿右側境内社八坂・産泰神社        社殿右側に鎮座する境内社稲荷・八幡神社

 


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上蒔田椋神社

  創立年度は不詳ながら、一説によると景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越えると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まるという。その後当所の椋の大樹の下に大己貴命を奉齋して椋大神と称したという。
 永禄12年(1569年)に武田信玄によって焼き払われ、その後は衰退し、江戸期は秩父神社によって管理されていた。
 毎年3月3日にはお田植え祭が行われる。この祭は、椋神社の境内を田んぼに見立てて、酒を飲んで赤ら顔になった氏子代表12人が神部となり、ユーモラスに田植え唄を歌いながら模擬的な農作業を行い今年の豊作を祝う祭である。

所在地    埼玉県秩父市蒔田2842  

主祭神    大己貴命 (配祀)猿田彦命
社  格     式内社 旧村社 
社  紋    葵
例  祭    3月3日(お田植え祭)


地図リンク
  
 上蒔田に鎮座する椋神社は、中蒔田椋神社より南西に約2㎞弱、国道299号を小鹿野町方向に進むと道路の北側にあり、参道入口の鳥居が見える。小さな丘を背負う立地条件で拝殿の奥は山林が続くがこれはこれで大変趣がありなんともいえない気持ちの良い時間が流れる。天気も良く、また開放的な空間にこの社は鎮座しているため、なんとなく長居をしてしまった。
 社地の500メートル手前には蒔田川がながれる。この蒔田川は荒川水系の一支流で、丁度皆野町の椋神社や大塚古墳あたりで荒川と合流する河川であり、この皆野地方の椋神社が河川にも関係があるのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 
    
国道299号線沿いに一の鳥居と社号標がある。
 
     参道の先に二の鳥居や社殿が見えてくる。
 
      拝殿。拝殿の家紋は葵の紋が付けられていた。
 
市指定民族資料
蒔田椋神社御田植神事
 この社は遠く「延喜式」に載る古社で、ここに伝わる御田植神事は春の農作業に先がけた三月三日(旧暦の頃は二月三日)今年の稲作の豊穣を願って行われます。境内にしめ縄を張りめぐらして御田代に見立て、鳥居の外には、わらで龍を形どった水口が設けられます。
 毎年氏子の中から十二人の神部が選ばれ、その中の二人が作家老となって神事の主役となりますが、神部のいでたちは、烏帽子に白装束で、手には鍬を模した竹製の農具をもって演じます。
 祭典ののち坪割り(四方固め)つづいて水乞い神事に丹生神社までまいり、水ぬさと呼ぶ御幣をいただき御田代水口に立て、田仕事が始まります。苗代つくりから種子播き、本田の耕起から田植までの実際の農耕順序にしたがい「御代の永田に手に手をそろえて、いそげや早苗手に手をそろえて」と田植唄をうたいながら演じる所作は、多くの古風な習俗を伝承している貴重な民族資料です。
                                                    秩父市教育委員会
 
                 本   殿

                                                                                    
  





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野巻椋神社

所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野野巻363   
主祭神    猿田彦大神 
(合祀)    菅原道眞 金山彦命 建御名方命 大日霊貴尊 建御名方命 建御名方命
社  格     式内社 旧村社

社  紋    五七桐
例  祭    10月15日

        
  埼玉県秩父郡皆野町に鎮座する。皆野町椋神社から埼玉県道43号皆野荒川線に移り、荒川を越え皆野橋のT字路の交差点を右折し、埼玉県道44号秩父児玉線を300m位北上すると大渕交差点となるのでそれを左折する。この道は埼玉県道37号皆野両神荒川線で、道なりに約1、5km位進むと約赤平川の支流前のT字路があるのでそこを右折すると左側に椋神社がある。
 ちなみに車で来ると、社の裏側へ回り込む形になるので、車を止めて、表に回って参拝を開始する。
           
      
 椋神社裏にあった昭和16年に建てられた社号標 奥にある建物の前に駐車
            
                表に回った先に鳥居があり参拝を開始する。
            
                             拝  殿
          
                              本  殿

 
                 拝殿の右側にある陽石        社殿の左側にある境内社の鳥居と境内社群
  野巻椋神社の創立年月等は不詳だが、口碑によると、野巻(牧)は奈良・平安の頃に牧の駒を奉りし地から付けられたと伝えられている。名に、カリホシバ(刈干場)、クツウチバ(沓打場)、カジヤ(鍛冶屋)、マキハラ(牧原)などが現在も残っているようだ。
 また、当社の創建については、秩父氏が牧場の守り神として奉斎したものではないかとも考えられているようで、当時は『武蔵志』の”倉宮”や鎮座地の字名等から”くらのみや”明神等と呼ばれていたと思われる。

 区域外にも当社への強い信仰があり、隣村の秩父市吉田久長(旧久長村)には遥拝所があったと云われ、古くは、そこに繁っている松の木に鈴を懸け、当地との間の川が増水し参詣できない時には、これを振ってそこに祀られている石宮から当社を拝んだとのことだ。

          
 山間に鎮座する野巻椋神社から見る武甲山。現在山頂は削り取られ創建当時の面影こそないが、それでも美しいことには変わりない。





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皆野椋神社

 皆野町は埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、秩父市の北に接する町で、秩父盆地の入り口にあたる。東経139度5分、北緯36度4分で、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。
 町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘に町が帯状に開けている。
 気象は内陸性気候を示し、冬季は北西の季節風が強く、乾燥した晴天が続き降雨量、積雪とも比較的少ない。夏季は高温多湿で気温の年格差が著しい。
 町の産業は、商工業が主で地理的条件等から商業は、郡北部地区商域圏の中心である。工業は、精密機械製造業が中心であり、農業は、農道整備や施設整備事業等を実施し、ぶどう・しめじ・しいたけを中心とした観光農業が脚光を浴びている。

        
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町皆野238
             ・ご祭神 猿田彦大神 八意思兼命 大己貴命
             ・社 格 延喜式内小社(論社) 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 478日 八坂神社例祭 718
                  例大祭 1078日 他    
 皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。
 もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。
        
                              皆野椋神社 一の大鳥居
 社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。
 元来は椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。
        
                     木製の両部鳥居である二の鳥居
 
      二の鳥居の左脇には            皆野椋神社の案内板もあり。
  猿田彦大神の名が刻まれた石祠等を祀る。
 椋神社 御由緒  皆野町皆野二三八
 ◇蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守
 椋神社は延喜式に記載されている秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含めて郡内に五社ある。
 社記に、景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 
八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。
 古くは「椋宮」・「倉宮」とよばれ、元慶五年(八八一)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。
 明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治四〇年(一九〇七)近郷の二七社を合祀した。なかでも蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥宮としてそのままに鎮座し、昭和四〇年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人びとから農耕の神として位置づけられている。
 例祭一〇月八日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長方形の箱型をなし、桃山期作として町指定民俗文化財に登録されている。
 ◇ご祭神 猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命(以下略)
                                      案内板より引用
 

         
                       拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部            
        
           境内に設置されてある「皆野椋神社の獅子舞」案内板
 埼玉県指定民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞
 明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
  獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
  一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
 実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社
                                      案内板より引用                                                                                                                                
            
                      本  殿               

        
                                     神楽殿 
                 
        
                 本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。
 祖霊社 八坂大神 正一位伏見稲荷大神 太宰府天満宮 4社合殿(産泰大神・愛宕大神・秋葉之大神・八幡大神)6社合殿(山之神大神・諏訪大神・摂社末社之大神・駒形大神・金刀比羅大神・秩父彦之大神)
        
        社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。
        
                        本殿の右側には石祠が所狭しと並んでいる。
                一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。
       高良玉垂大神・天児屋根神社・斎主大神・神明大神・菊理姫大神・事解男大神
             雷電大神、善女龍王大神・句々馳智大神・河菜姫大神・埴山姫大神

            境内にある「宝物殿」        境内に設置されている由来碑
 椋神社の主祭神猿田彦命は貞観13年従5位上に叙せられ延喜式神名帳に秩父郡2座とある内の1社と伝えられている。椋神社は郡下に同名社5社をかぞえ、明治政府はいずれも式内社と称することを許したという。その中で平将平、平重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し、付近には古墳の多いことなどからわが椋宮が本社であるとの説もある。
 当社の草創をたずねれば景行天皇41年皇子日本武尊が東国御巡見の折この地に至り猿田彦命のお導きによっての御創祀と伝えられる。
 新篇武蔵風土記稿に「村ノ鎮守」と載せられ小作地を持ち氏子から社地参道寄進のあったことからも崇敬の深さが知られ元禄年間以前より舞われている獅子舞を始め神代神楽の奉納が今なお盛んなことにもあらわれている。
 
爾来氏子一同熱心な奉仕を続けて昭和621019日伊勢本宮参拝を果たし、永代御祈祷御神符拝受を畏み、今年あたかも平成の御大礼を奉祝しこの由緒を誌し後世に伝える

 ところで、皆野椋神社の主祭神のトップである「猿田彦」は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。
 猿田彦の特徴はその異様な容姿にある。鼻の長さ7(あた)、背の高さ7(さか)、口赤く、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝いていたという。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
 天孫降臨の際に道案内をしたということから、後世、道の神・旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られていて、この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
 猿田彦命を祭神とする神社は全国に二千余社を数え、交通安全の守護神として警視庁にも祀られている。
         

              専用駐車場から見える武甲山
 皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地上にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は蓑山と共に神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。

 



                                                          

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