吉見神社
この相上地区は地形上、東西に和田吉野川が流れ、北側の無谷、高本地区との境界線を形成している。この和田吉野川(一級河川)は嵐山町の溜め池を水源とする、用排兼用の河川で、比企丘陵の谷地を江南町、滑川町、熊谷市と西から東へと流れてくる。吉見神社の北側に和田吉野川右岸の洪水を防ぐために江戸時代初期に造られた相上堤の堤防は長さ千百三十間(約2034m)”とあり、荒川の合流地点までの和田吉野川の右岸側を防御するための堤防であったようだ。
なお、相上堤の南側延長線上には、縄文時代の北廓遺跡(熊谷市 箕輪)や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。ちなみに相上堤の東に位置する県道257号線は鎌倉街道の古道である比企道だとされている。古の吉見の地は、現在の比企郡吉見町ではなく、この吉見の地だった可能性も捨てきれないような気がしてならない。
所在地 熊谷市相上1639-1
主祭神 天照大神?
社 挌 旧郷社
例 祭 4月17日
吉見神社はとうかん山古墳から埼玉県道257号冑山熊谷線を道なりに北上し、和田吉野川の上に架けられた漆喰橋を渡る手前左側に社号標石と鳥居が見え、そこを左折すると和田吉野川の土手手前右側に吉見神社の社叢が広がる。
県道沿いにある一の鳥居
一の鳥居を真っ直ぐ進み突き当り右側にある二の鳥居 参道の先に社殿がある
神楽殿
『新編武蔵風土記稿』相上村の項に、《神明社 當社古へは上吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみ鎮守とせり》とあるように、古くは神明社と称し、上吉見領――村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田――二十三カ村の総鎮守だったというくらいで、境内摂社・末社が非常に多い。
参道左側の末社群 末社群の先にまたある末社群
左から天神宮、金毘羅大神社、頭大宮、辯才天女宮等 三島・興玉・秩父・瀧祭・玉造・斎・浅間・日枝
雨降加々美・二荒・水分養蚕・豊受荒魂など
摂社 左から伊奈利神社・東宮社・天神社 拝殿の右奥の方にも末社がずらりと並んでいる
詳細は不明
参道左側、末社群の手前に村指定無形民俗文化財 相上神楽 案内板がある。
村指定無形民俗文化財 相上神楽
指定 昭和五十四年五月十四日
所在地 大里村大字相上
期日 七月十五日、吉見神社境内
相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保六年(1835年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言われている。
相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
そして、平成七年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
掲示板より引用
吉見神社拝殿(上段)及び本殿(下段)
吉見神社は古くは神明社や天照太神宮と称し、上吉見領の総鎮守だったようだ。敷地内には安政四年(1857)建立の金毘羅大神社、弁才天女宮などが祀られている。水防祈願と思われる水に関する神様である。なお、社殿の北側には沼があるが、そこには藤原長盛の大蛇退治の伝説がある。
新編武蔵風土記稿には”沼あり、神龍潜み住むと云伝う”と記されている。大蛇とは和田吉野川の洪水を暗喩したものだろうか。
『埼玉の神社』によれば、熊谷市相上字宮前に鎮座する吉見神社の創建を伝える文書にはこのような記述がある。
和銅六年(713)景行天皇五十六年に御諸別王(みもろわけのきみ)が当地を巡視した折、田野が開かれず、不毛の地であるのを嘆いて倭国の山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里(おおさと)郡を置き、後に豊かな地となった報賽として太古に武夷鳥(たけひなとり)命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬(おさ)を神体として天照を祀り以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している。現宮司須長二男家はこの末。
また『大里郡神社誌』にもこのように記されていている。
大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と
とあり、須長氏が御諸別王の子孫としている。
この「須永」、「須長」氏について「埼玉苗字辞典」ではこのように記述されているので紹介する。
須永 スナガ 須中、須長、砂永、砂賀に同じ。須は金(す)、那は国、加・賀は曷(か)で村の意味。中・永は奈良・那羅と同じで、鉄(くろがね)の産出する国、村を須永と称す。此氏は毛野氏に率いられて渡来し、渡良瀬川及び利根川流域の上野国、下野国、武蔵国に土着し、三ヶ国以外には無し。毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)は、韓半島南部にあった加耶諸国の呉国より毛野族須永氏を率いて上野国山田郡川内村(大間々町川内、桐生市川内)に土着し、其の地を別称須永郷と唱え、後世は須永御厨と云う。桐生市川内に氏寺の崇神寺あり。足尾銅山に従事した鉱山師集団である。武蔵国では荒川、都幾川の砂鉄の採れる流域にも存す。
須長 スナガ 大里郡相上村(大里町) 大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と。寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。(中略)風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろう。明治九年副戸長須長宣冬・天保十二年生。松山町箭弓神社明治三十一年碑に松山町須長宣冬。昭和三年興信録・所得税に「吉見村・須長常章・百一円、須長富夫・十円」あり。五戸現存す。
相上の須長氏について「日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろう」との記述が上記で記しているが、この中にある「高魂命」とは高皇産霊神(タカムスビ)のことで、熊谷市の高城神社の祭神でもある。また本来日奉連とは宮廷の太陽神祭祀に奉仕するための部であろうということは、諸説が認めているところであるが、その日奉連の祖先が高皇産霊神であるという事には正直驚いた。もしかしたら太陽神祭祀とは天照大神がその対象ではなく、日奉連の直系の先祖である高皇産霊神ではなかったか、という事になるのではなかろうか。それと同時に高皇産霊神と御諸別王にも何かしらの接点があるのだろうか。
なんとなく取り留めのない書き出しになってしまったが、御諸別王と吉見神社の須長氏、また高城神社の高皇産霊神には何かしらの関連性はあることだけは確かなようだ。